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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュの龍樹論師「中論」の学びについて

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龍樹論師「中論」の学びにつきましては、こちらのトピックにて宜しくお願い申し上げます。

コメント(100)

下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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85  2009年12月09日 22:02

コメント84からの続き・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

あとは、そう述べられている前提について考えていく必要もあるかとも存じます。

中論・「観法品」(第十八・第七偈)では、『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の[作用領域(対象)は]止滅する。』・・「心の作用領域(対象)の実体が無いことを理解すると、言語の作用領域(対象)、分析的思考、つまり、虚妄分別・分別執着によって実体視してとらわれてしまっての言語による対象も、実体が無いことを理解する。 」

ということと、

中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)では、『〔何ものも〕断ぜられることなく、〔あらたに〕得ることなく』・・「縁起的・空性的あり方においては、何ものも実体が無いのであるから、断ずる実体も無く、得れる実体も無く、得る実体も無い」

ということとの相違の検討であります。

中論・「観法品」(第十八・第七偈)では、その前提内容を鑑みますと、戯論寂滅からの勝義の空の指向度合いが高いため、「不生不滅」のことを「涅槃」とは述べずに、「涅槃のようである」、真なる涅槃は更に「不生不滅」を超えたところであることを述べようとしている可能性があり、

中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)では、第一偈、第二偈からの流れと、その前提内容を鑑みますと、あくまでも「空」のありようとしての実体否定のところで留まらせていると考えられ、勝義の空の指向度合いが、中論・「観法品」(第十八・第七偈)よりもそれほどは高くはなく、あくまでも「空」の立場として、「不空」にとらわれている者に対して、「空」を理解させるために、「不生不滅」を「涅槃」と述べられた可能性があるということであります。

中論・「観法品」(第十八・第七偈)では、「勝義の空」を指向している戯論寂滅を超えたところの内容としての「涅槃」を、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)では、あくまでも縁起的・空性的ありかたの世俗諦におけるギリギリいっぱいにおいての内容として、「空」の立場からの「涅槃」について述べられているものではないかと考える次第でございます。

この「涅槃をめぐる解釈の問題」・・正直、ここは、龍樹論師の中論原典の発見がない限り、はっきりと明確に答えられないところもあるのではないかとも考えております・・つまり、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)における「涅槃」は、実は「如涅槃」ではないのかということでございます・・

とにかく、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)の内容の理解のためには、後の偈も考察しながら進めることも必要であると存じております。引き続き、観涅槃品の各偈を見て参りたく思っております。

また、「二諦をめぐる解釈の問題」につきましても、やはり理解が実に難解なところがあり、言語活動・戯論の域での限界は否めないと考える次第でもございます・・

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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86  2009年12月10日 22:21

今回も引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じております。 長くなりますので、分割してコメントさせて頂きます。

第三偈の内容につきましては、後の偈も考察しながら更に深く切り込んでの考察を行いたいと考えております。

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

第四偈以降における涅槃は「存在」か「非存在」かについての議論は、涅槃は「有」か「無」かについての議論の扱いと同様なるものであると考えております。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第四偈)『まず第一に、ニルヴァーナは「存在(もの・こと)」ではない。〔もしも「存在(もの・こと)であるならば、ニルヴァーナは〕老死の特質(相)のあるもの、という誤りが付随するであろう。なぜならば、「存在(もの・こと)」は、老死〔の特質〕を離れては、存在しないからである。』

涅槃は存在ではない。もしも、涅槃が存在であるならば、無常なる生・滅(老・死)の相、有為の四相(生・住・異・滅)のありようであるという誤りが付随することとなるであろう。なぜならば、存在は、無常なる生・滅(老・死)の相、有為の四相(生・住・異・滅)のありようを離れては、存在していないからである。

涅槃が、存在であるならば、無常・生滅変化としての存在となり、生・滅(老・死)の相、有為の四相を持つことになってしまうが、生・滅(老・死)の相、有為の四相を離れた存在は無い、そのような存在が涅槃ではなく、涅槃は、生・滅(老・死)の相、有為の四相を離れたものでなければならないからである。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第五偈)『また、もしもニルヴァーナが「存在(もの・こと)」であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。なぜならば、つくられない(無為である)「存在(もの・こと)」は、どのようなものも、どこにも、決して存在しないからである。』

涅槃が存在であるならば、涅槃はつくられたもの(有為)、無常・生滅変化としての存在となるであろう。なぜならば、つくられない(無為である)「存在(もの・こと)」、無常・生滅変化を離れた存在は、どのようなものも、どこにも、決して存在しないからである。

第四偈、第五偈は、対論者・実体論者の説く、有為法における生・滅(老・死)の相、有為の四相を逆手にとって、涅槃は有為な存在では無いということを述べているものと考えられます。いわゆる、プラサンガ論法(帰謬論法)であります。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第六偈)『また、もしもニルヴァーナが「存在(もの・こと)」であるならば、そのニルヴァーナは、どうして、〔何ものにも〕依存しないで〔存在する〕であろうか。なぜならば、どのような「存在(もの・こと)」も、依存しないで存在することはないからである。』

もしも、涅槃が存在であるならば、その涅槃は、因縁所生を離れて存在するであろうか。なぜならば、いかなる存在も、因縁所生を離れては存在していないからである。

この偈は、対論者・実体論者の説く有為法における因縁所生(存在は、条件や原因によって生じるところのものということ)を逆手にとって、更に、涅槃は有為な存在(有の実体)では無いということを述べているものと考えられます。プラサンガ論法(帰謬論法)であります。

もちろん、中論においては、条件や原因や結果の実体は否定されるため、対論者・実体論者の説く因縁所生による存在の実体としてのありようも否定されますが、あくまでも、ここは、対論者・実体論者の説く有為法における因縁所生の主張を逆手にとって、涅槃は有為な存在(有の実体)では無いということを述べようとしている点については注意が必要となります。もちろん、非存在(無の実体)でもないことについても述べるていくこととなります。

また、中論としては、この世の存在のありようは、縁起的・空性的あり方において仮に言えているものに過ぎず、縁起的・空性的あり方を離れたような存在は無いということについても述べられているものと考えられます。

次回コメントに続く・・
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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87  2009年12月10日 22:23

86のコメントから続く・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第七偈)『もしもニルヴァーナが「存在(もの・こと)」でないならば、「非存在(のもの・こと)」が、どうして、ニルヴァーナであり得るであろうか。およそ、「存在(もの・こと)」の無いところには、「非存在(のもの・こと)」は、存在しない。』

もしも、涅槃が、存在で無いならば、非存在が涅槃であると言えるであろうか、存在の無いところには、非存在は存在しない。

ここは、中論の縁起的・空性的視座として、「存在により、非存在があり、非存在により存在がある」と存在、非存在はそれぞれ仮に言えているものに過ぎず、存在がなければ、非存在は成り立たなくなるため、涅槃が存在でないならば、非存在となるが、非存在が涅槃ならば、それはどのようにしてももともと涅槃とは言えないものとなってしまう。よって、涅槃は存在でも非存在でもない。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第八偈)『また、もしもニルヴァーナが「非存在(のもの・こと)」であるならば、そのニルヴァーナは、どうして、〔何ものにも〕依存しないで〔存在する〕であろうか。なぜならば、〔何ものにも〕依存しないであるような「非存在(のもの・こと)」は、存在しないからである。』

もしも、涅槃が非存在であれば、対論者・実体論者の説く有為法における因縁(存在は、条件や原因によって生じ滅するところのものということ)を逆手にとって、有るとする存在も無いとする存在も、因縁によって言えるわけであり、因縁を離れては、存在も非存在も存在できないと述べるわけであります。

つまり、ここまでの説偈は、簡単に要約して述べますと、

涅槃が存在とするのであれば、涅槃は非存在でもあるという誤謬が生じるということであります。

涅槃が有とするのであれば、涅槃は無であるという誤謬が生じるというわけであり、続いて、第九偈・第十偈で、涅槃は、存在でも非存在でもない、有でも無でもないと述べるわけでありますが、それは次回にて更に詳しく考察して参りたいと存じております。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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88  2009年12月10日 23:58

少しコメント86・87につきまして補足をさせて頂きたく存じます。

中論・「観涅槃品」(第二十五)の第四偈から第八偈の内容につきまして、少しややこしく扱ってしまっておりまして、誠に申し訳ございません・・

対論者・実体論者の主張を少しおもんばかってしまったところもあり、わかりにくくなってしまったところもあったと反省致しております。

端的に申しますと、

「存在によって非存在があり、非存在によって存在がある」としての縁起的・空性的立場から、

存在だけでは、存在は成り立たない、非存在だけでは、非存在は成り立たない、存在と非存在は縁起的・空性的関係において仮に言えているだけに過ぎず、

もしも、「涅槃は存在である」と述べるならば、それは「涅槃は非存在である」ということを認めて前提としていないと言えないものとなり、「涅槃は非存在である」と述べるならば、それは、「涅槃は存在である」ということを認めて前提としていないと言えないものになるということであり、

「涅槃が存在である」と主張するのであれば、「涅槃は非存在である」という誤謬が生じると同時に、「涅槃は非存在である」と主張するのであれば、「涅槃が存在である」という誤謬が生じるということであり、「涅槃は存在でも、非存在でもない」ということとなります。

「涅槃は有である」、「涅槃は無である」という場合も同様であります。

やはり、始めから縁起的・空性的立場からしっかりと第四偈から第八偈の理解を構築させる必要があったと反省しております。

以上のことをご理解賜りまして、第九偈以降の考察を行って参りたいと存じております。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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94  2009年12月13日 00:22

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じております。

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

さて、第九偈の内容は、かなり第三偈の内容とも関わってくるところでございます。

一応、84・85のコメントにおきまして、第三偈の内容につきましては、暫定的に『あくまでも縁起的・空性的ありかたの世俗諦におけるギリギリいっぱいにおいての内容として、「空」の立場からの「涅槃」について述べられているものではないかと考える次第でございます。』と、述べさせて頂きましたが、中論・「観法品」(第十八・第七偈)の説く「涅槃」(「勝義の空」を指向している戯論寂滅を超えたところの内容としての「涅槃」と考えまして)の解釈との整合性の問題があるものと考えまして、二諦をめぐる解釈の問題についても少し触れさせて頂いたところでございます。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第九偈)『およそ、[もろもろの要素に]依存して、あるいは縁って、生死往来するもの、それが、縁らず、依存していないときに、これがニルヴァーナである、と説かれている。』

「およそ、[もろもろの要素に]依存して、あるいは縁って、生死往来するもの」・・(対論者・実体論者が、)五蘊のそれぞれを実体視して、(原因・条件を実体視しての)因縁によってこれが生だ、あれが生だ、これが死だ、あれが死だと、いつまでもとらわれてしまっているものについて、五蘊のそれぞれの実体視を離れ、(原因・条件を実体視しての)因縁を離れたとき、これが「涅槃」であると説かれている、と述べているものと考えますが、

つまり、五蘊仮和合の因縁によって色々と存在していると仮において言えているものを仮とは解らないために、これが生だ、あれが生だ、これが死だ、あれが死だと、いつまでも実体視してとらわれてしまっていることを、縁起・空性を理解して、五蘊それぞれにも、因縁(原因・条件)にも実体が無いと理解し、生と死をそれぞれ実体視してのとらわれから離れることを「涅槃」として説かれていると考えられます。

いわゆる、「不生不滅」が「涅槃」であると述べているとも考えられるわけであります。

そうしますと、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)と同様の内容であるとも言えることとなりまして、「空」における立場からの「涅槃」のありようについての説偈とも考えられます。

が、この偈にはもう一つの解釈も考える必要があります。

それは、「生によって死があり、死によって生がある」として、縁起的・空性的あり方において、生も死も言えているだけに過ぎないということを、つまり、「生によって死があり、死によって生がある」を「生死往来」と考えますと、縁起的・空性的あり方としての生と死における、その縁起的・空性的あり方すらも超えていくところを「涅槃」として、つまり、「勝義の空」を指向している戯論寂滅を超えたところの内容としての「涅槃」について述べてられているものとも言えるわけであります。

この場合、中論・「観法品」(第十八・第七偈)と同様の「涅槃」のありようについての説偈とも考えられることとなります。

ただ、この場合、中論・「観涅槃品」(第二十五・第九偈)の「涅槃」が、「如涅槃」であれば、決定的となりますが、あくまでも「涅槃」と述べられていることからも鑑みますと、「空」における立場からの「涅槃」のありようについての説偈であるとして、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)と同様の「涅槃」について扱われたのではないだろうかと存じます。

それは、第四偈から第八偈において、対論者・実体論者が「存在」・「非存在」を実体視してとらわれている、その実体視のとらわれを離すために、「空」の立場から説偈されている内容であることを鑑みましても、第九偈も「空」における立場から「不生不滅」が「涅槃」であるとして説かれていると考えるのが妥当ではないかと存じております。

また、第九偈につきましては、次の第十偈の内容からも考察する必要もあると考えております。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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95  2009年12月14日 00:05

さて、今回も引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じております。 長くなりましたので、分割してコメントさせて頂きます。

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

第九偈の内容につきましては、一応、『「空」における立場から「不生不滅」が「涅槃」である』として説かれていると致しまして、次の偈につきまして考えて参ります。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十偈)『また、師(ブッダ)は、[われわれのこの]生存と非生存と[の執着]を断ずることを説かれた。それゆえ、ニルヴァーナは「存在(もの・こと)」でもなく、「非存在(のもの・こと)」でもない、というのが、正しい。』

「空」の立場から、「不生不滅」が「涅槃」であると説かれ、また、ブッダ(お釈迦様・諸仏)は、我々が迷い・苦しみの原因となっている「生存と非生存」・「生と死」・「有と無」との実体視しての虚妄分別・分別執着を断ずることを説かれた。それゆえ、「涅槃」は、存在でもなく、非存在でもない、「不生不滅」・「非有非無」というのが、正しいとしまして、この偈でも、「空」の立場から「不生不滅」・「非有非無」が「涅槃」であると説かれているものであると考えます。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十一偈)『もしもニルヴァーナが「非存在(のもの・こと)と「存在(もの・こと)」との両者であるならば、解脱は「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」〔との両者〕である〔ということになるであろう〕。しかし、それは正しくない。』

次に、もしも、「涅槃」が、「非存在と存在と」、「生と死と」・「有と無と」の両者合一であるならば、解脱、迷い・苦しみから離れることが、「非存在」と「存在」、「生と死」・「有と無」との両者合一であるということとなるであろう。しかし、それは正しくない。

そして、その理由について、

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十二偈)『もしもニルヴァーナが「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」との両者であるならば、ニルヴァーナは、〔何ものにも〕依存しないで〔成立している〕のではない、ということになるであろう。なぜならば、その両者は、〔何ものかに〕依存して〔成立している〕からである。』

もしも、「涅槃」が、「非存在と存在と」、「生と死と」・「有と無と」の両者合一であるならば、相違するものが同一ということとなり、相矛盾するものが成り立つことなるが、そのようなことは成立しない。「涅槃」もその「涅槃」が成立するためには、何ものかによって(縁起において)こそ、「涅槃」も成り立つからである。「非存在と存在」、「生と死」・「有と無」のそれぞれは、例えば、「非存在」が「非存在」だけで、「存在」が「存在」だけで成り立つわけではない、それらは、何ものかによって(縁起において)こそ成り立つからである。

この偈における「〔何ものかに〕依存して」というのは、「五蘊、五蘊の因縁によって」、または、「五蘊仮和合によって」ということであるかとも存じます。

もちろん、縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に成立しているものである、ということも内容として含まれているようにも考えます。

次回コメントに続く・・
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96  2009年12月14日 00:06

95コメントから続く・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十三偈)『どうして、ニルヴァーナは「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」との両者であり得るであろうか。ニルヴァーナは、つくられないもの(無為)である。しかし、「存在(もの・こと)」と「非存在(のもの・こと)」とは、つくられたもの(有為)なのである。』

どうして、「涅槃」は、「非存在と存在と」の両者合一であり得るだろうか、「涅槃」は、つくられないもの(無為)である。

無為については、いわゆる縁起・空性・無自性の理解により、虚妄分別・分別執着を離れ、いかなる「実体もつくらない」、「実体執着するものをつくらない」ということであると考えております。

そして、存在、非存在、存在と非存在というのは、虚妄分別・分別執着して、実体視してつくられたもの(有為)なのであるから、それらつくられたもの(有為)は、「涅槃」ではないと述べるわけであります。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十四偈)『どうして、ニルヴァーナのなかに、「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」との両者が存在するであろうか。この両者が同一処に存在することはない。それはたとえば、光と闇とのようである。』

そして、「涅槃」において、「非存在」と「存在」の両者が存在できるというのであろうか、「非存在」と「存在」が同一処に存在することはあり得ない。相違するもの、相矛盾するものが同一ということとなり、そのようなものはなく、例えば、光と闇が同一処で存在することはあり得ないことと同じようなことである。

光と闇の例えは、いわゆる「光によって闇があり、闇によって光がある」としてそれぞれは縁起的・空性的あり方において仮に成り立っているとして、光だけで光は成り立たない、闇だけで闇は成り立たない、また、光と闇が合一として光と闇が成り立つものではないとして、光、闇、光闇の三者は実体がないということについて述べているものであると存じます。

そこからの「非存在と存在」、「生と死」・「有と無」のありようについての理解へ向けて補足しているものと考えます。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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97  2009年12月14日 23:08

さて、今回も引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じております。

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

いよいよ、中論・「観涅槃品」の後半の偈に入っていくわけですが、第十五偈からは、それまでの対論者・実体論者の主張における誤謬を指摘しての「涅槃」についての内容から、更に想定される誤謬についても扱った上で、「勝義の空」を指向している戯論寂滅を超えたところの内容としての「涅槃」について説こうとしていくものであるかと存じております。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十五偈)『「ニルヴァーナは『非存在(のもの・こと)』でもなく『存在(もの・こと)』でもない」ということが、もしも存在するとするならば、「『非存在(のもの・こと)』でもなく『存在(もの・こと)』でもない」というそのことは、何によって示されるのか。』

「涅槃」が、「非非存在・非存在」・「不生不滅」・「非有非無」ということが、もしも、存在する(実体として有る)とするならば、「非非存在・非存在」・「不生不滅」・「非有非無」というそのことは、何によって示されることができるのであろうか。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十六偈)『およそ、「ニルヴァーナは『非存在(のもの・こと)』でもなく、『存在(もの・こと)』でもない」という想定は、「非存在(のもの・こと)」と「存在(もの・こと)」とが成立するときにのみ、成立する。』

「涅槃」は、「非非存在・非存在」・「不生不滅」・「非有非無」という想定は、「非存在と存在と」、「生と滅と」、「有と無と」が成立するときにのみ、成立する。

第十五偈、第十六偈は、つまり、「存在・非存在によって非存在・非非存在があり、非存在・非非存在によって存在・非存在がある」・「有無によって非有非無があり、非有非無によって有無がある」・「生滅によって不生不滅があり、不生不滅によって、生滅がある」と縁起的・空性的あり方において、それぞれは仮に成り立って言えているものであるが、いずれか一方だけでは、いずれも成り立たなくなってしまうものであり、それぞれには実体が無いということを示しているものと考えております。

もう少しまとめますと、「○によって非○があり、非○によって○がある」ということで、○には実はどのようなものでも代入が可能であって、縁起的・空性的ありようにおいて、「○」も「非○」もそれぞれ一応は仮にそれぞれ成立して言えているものに過ぎない、「○」も「非○」も実体が無いということを示しているわけであります。

そして、次の説偈から、具体的に四句分別を述べていく内容となります。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十七偈)『「世尊は入滅後にも存在する」と、表現されることはない。「存在しない」とも、「両者(存在し且つ存在しない)である」とも、また「両者ではない」とも、表現されることはない。』

四句分別のありようについて、いわゆる「お釈迦様の無記」としての「如来は死後存在するのか?如来は死後存在しないのか?如来は死後存在しつつ非存在であるのか?如来は死後存在するものでもなく非存在でもないのか?」ということを挙げて、有、無、有無、非有非無、非「非有非無」(非非有非非無)のありよう、これは、生、滅、生滅、不生不滅、非「不生不滅」も同様となりますが、戯論寂滅を指向している内容となっております。

第十八偈以降も、四句分別を扱って、戯論寂滅を指向していくのですが、いよいよ龍樹論師が中論・「観涅槃品」(第二十五)において説こうとされておられる「涅槃」の核心部分に迫って参りたいと存じております。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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98  2009年12月18日 23:29

少し間が空いてしまいましたが、引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じております。

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十八偈)『「世尊はまた現に住しつつ存在している」と、表現されることはない。「〔現に〕存在していない」とも、「両者(現に存在し且つ存在していない)である」とも、また「両者ではない」とも、表現されることはない。』

この偈におきましても、第十七偈と同様に、四句分別を扱って、「如来は現に住しつつ存在するのか?如来は現に住しつつ存在しないのか?如来は現に住しつつ存在しつつ非存在であるのか?如来は現に住しつつ存在するものでもなく非存在でもないのか?」ということを挙げて、有、無、有無、非有非無、非「非有非無」(非非有非非無)の四句分別を扱い、戯論寂滅を指向している内容となっております。

「現に住しつつ」というものは、運動・作用として、つまり、八不における「不去不来」のことについても述べられているとも考えられます。去、来、去来、不去不来、不「不去不来」(不不去不不来)の四句分別からの戯論寂滅の指向でもございます。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第十九偈)『輪廻(生死の世界)には、ニルヴァーナと、どのような区別も存在しない。ニルヴァーナには、輪廻と、どのような区別も存在しない。』

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十偈)『およそ、ニルヴァーナの究極であるものは、[そのまま]輪廻の究極でもある。両者には、どのようなきわめて微細な間隙も、存在しない。』

この第十九偈と第二十偈では、第十五偈・第十六偈と同様に「涅槃」における空性的あり方について述べられているものであると考えます。いわゆる「輪廻によって涅槃があり、涅槃によって輪廻がある」と縁起的・空性的あり方において、それぞれは仮に成り立って言えているものであるが、いずれか一方だけでは、いずれも成り立たなくなってしまうものであり、それぞれには実体が無いということを示しているものと考えております。言語活動によって表現される「涅槃」というものは、もちろん実体が無く、「輪廻」とにおいて「涅槃」は仮において言えているものに過ぎないということであります。

もちろん、このことは、戯論寂滅を超えたところを指向していくため、その手前としての空性的あり方としての「涅槃」について説こうとしているものであるかと存じております。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十一偈)『入滅後において〔世尊は存在するかどうか〕、〔世界は〕有限であるかどうかなど、また〔世界は〕常住であるかどうかなど、〔それらの〕もろもろの見解は、ニルヴァーナと、後(未来)の限界と、前(過去)の限界とに、〔仮に〕依拠して立てられているものである。』

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十二偈)『一切の「もの」(諸法)は空なのであるから、何が無限であろうか、何が有限であろうか、何が無限であり且つ有限であろうか、何が無限でもなく有限でもないのであろうか。』

第二十一偈・第二十二偈は、八不における「不常不断」を扱い、常、断、常断、不常不断、不「不常不断」という四句分別のことを扱って、戯論寂滅を指向している内容となっております。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十三偈)『何が同一であろうか、何が別異であろうか。何が常住であろうか、何が非常住であろうか、何が常住であり且つ非常住であろうか、またさらに〔何が〕両者(常住且つ非常住)でないのであろうか。』

そして、次に、八不における「不一不異」を扱い、一、異、一異、不一不異、不「不一不異」という四句分別のことを扱って、戯論寂滅を指向している内容となっております。

ここまでで、「涅槃」における中論・帰敬序・八不としての「不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去」を全て扱って、「涅槃」の戯論寂滅の指向を更に高められておられるものと存じております。

そして、いよいよ中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈について次回は扱いたいと存じております。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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99  2009年12月19日 22:39

今回は、中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈について扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じます。少し長くなりましたため、分割してコメントさせて頂きます。

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。

さて、ここで中論・「観法品」(第十八・第七偈)についても改めまして扱いたく存じます。

中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の[作用領域(対象)は]止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』

この偈は、「不生不滅であり、」ということを少し度外視すると、中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)と同様の事態を述べているものであり、戯論寂滅からの勝義の空の指向度合いが高いものとしての「涅槃」について述べられているものであると存じます。

しかし、なぜここで、「不生不滅」が付け加えられているのかは、正直、わからないところがございます・・ただ、「如涅槃」として述べられていることから、真なる「涅槃」とはやや異なって説かれているとして、一応は解釈させて頂いておりました。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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100  2009年12月19日 22:40

99のコメントから続く・・

次に、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)についても改めて考えて参ります。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)『〔何ものも〕断ぜられることなく、〔あらたに〕得ることなく、断滅でなく(不断)、常住でなく(不常)、滅することなく(不滅)、生ずることのない(不生)、これがニルヴァーナである、と説かれる。』

この偈につきましては、以前に戯論寂滅を指向しているものとしての言語表現ギリギリのところの世俗諦として、空の立場から、「不常不断」・「不生不滅」のありようは「涅槃」であると述べられているものとして扱いました。

ただ、この偈では「〔あらたに〕得ることなく」として、中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)における「一切の得ること(有所得)が寂滅し」と、「無所得」について同様の事態のことを述べていることから鑑みますと、「無所得」からの「勝義諦」のありようについても指向しているとも言えるところもあるため、非常に解釈が難しいところもございます。

それでも、やはり、あくまでも「空」からの立場として、「不空」にとらわれている者に対して、「空」を理解させるために、「不生不滅」は「涅槃」であるとして述べられた可能性が高いものであると考えております。

あとは、中論・「観法品」(第十八・第七偈)の説偈における「如涅槃」と中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)の説偈における「涅槃」のニュアンスの違いについては、以前に「龍樹論師の中論原典の発見がない限り、はっきりと明確に答えられないところもあるのではないか」と述べさせて頂いておりますが、龍樹論師は、世俗諦としての「涅槃」と、勝義諦を指向するところの「涅槃」については、明確に分けられておられるように存じております。

そのため、中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)における「涅槃」も世俗諦としてなのか、勝義諦を指向してであるのかは、明確に分けて考えなければならないと考えております。もちろん、後者である可能性は極めて高いものであると存じておりますが、更に、偈の後半を扱いまして補完して参りたいと存じております。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
下記のコミュニティのトピックにおいて、中論・「観涅槃品」(第二十五)について扱わせて頂きまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行っておりますので、こちらの方にも載せておきたいと存じます。

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101  2009年12月20日 22:54

今回は、いよいよ中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈・後半について扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察につきましては、最後とさせて頂きたく存じます。

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。

このことは、つまり、「自帰依自灯明、法帰依法灯明」のことであると存じます。

さて、次回は、ここまで考察して参りました中論における考察につきまして、総括させて頂きたいと存じております。

是非、皆様方からの訂正、補足も賜れましたらと存じておりますので、宜しくお願い申し上げます。
>縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)

縁起という概念のこうした論理的とらえ方と、十二支縁起として時間的継起関係でとらえるとらえ方が、いかなる関係にあり、ナーガールジュナによっていかに位置づけられており、またそれはいかなる経緯から仏教思想史上、ナーガールジュナにおいてそのように考えられるに至ったのかを知ることも、ぼくたちの理解をより深めさせてくれますね

プラパンチャ(パーリ語ではパパンチャ)はパーリ仏教経典ではくだらないおしゃべり(漢訳で戯論)の意で使用されていたのに、ナーガールジュナ師において言語とか世界という意味で使用されるようになったことはとても重要ですね
以下、良いお言葉ですね・・・。


縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。
>○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い

声聞乗においては非〇にしても〇にしてもそれを結果する原因を時間的契機の中に見出しており、したがってもし非〇が〇によって生起したのならその時系列を逆にして〇も非〇によって生起したと言うことなどできませんでしたね

つまりナーガールジュナ師においては(あるいは大乗においては)縁起とはもはや時系列に縛られるものばかりでなく、真如の上に人間の言語体系(プラパンチャ)がかぶされてゆくその原初の瞬間の概念‐〇と概念‐非〇の二項関係がすでに縁起なのだ、という見方をなさっていらっしゃいますね
あるがままの世界(真如)に対して、そこに放り込まれて存在している生き物の側が、それぞれの身心の条件に基づいてあるがままの世界を変形して感受してしまう様子は、

ほとんど仏教哲学とはノータッチの今日の日本の哲学者である竹田青嗣先生によって、西洋哲学の通史に立って現象学を発展させた形で丁寧に論じられていますね。

僕は竹田先生の議論と、ナーガールジュナ師のこうした洞察が注意深く橋渡しされたなら、両者にとって本当に実り多いものだと思っています。
皆さんにどしどし教えていただきながら、『中論』を読んでゆきたいと思います。


何ものも滅することがないし、
何ものも生ずることがないし、
何ものも終わることがないし、
何ものも常であることがないし、
何ものもそれと同一であることがないし、
何ものもそれと異なることがないし、
何ものも来ることがないし、
何ものも去ることがない。
このようにまったく戯論の消滅した素晴らしい縁起の理を教えて下さったブッダこそ、
もろもろの説法者の中で最勝の方であると敬礼いたします。
何かをあたかもしっかりとつかまえうる実体であるかのようにとらえる所に成り立ってくるあらゆる述語が、
そのような実体的把握(戯論)そのものが縁起の見方によって消滅してゆく時、ともに消滅し、
私たちは落ち着くべき平安をついに見出す。

第1章 縁(原因)についての考察

「1.あらゆるものは、どこにあるものだろうと、どんなものだろうと、
それ自体を原因として生じたのではないし、
他のものを原因として生じたのでもないし、
それ自体と他のものの両方を原因として生じたのでもないし、
原因なしに生じたのでもない。」
この言葉を一体ぼくたちはどのように受けとめるべきでしょうか?

あるものがそのもの自身を原因として生じるなんておかしい。
他のものを原因とするなんてありうるだろうか。違うもの同士が原因と結果の関係になる、などどうしてありえよう。
それ自身と他のものの両方を原因とするってことだってありうるはずがない。
では、原因なしに生じたのかと言えば、そんなことはありえない。


これらの議論はものというものを固定的実体ととらえた上で展開されているものでしょうか?
そうすると以上のようにまったく議論が行き詰まってしまうということを示しているのでしょうか?
どんなものであろうと、私たちがとらえているもの(自分とか他者とか何だろうと)を、固定的な実体だと思い違いした上で考えるなら、
自分から自分が生まれるなんてゆうことはもちろんありえないし、他者から何ものかが生まれるなんてゆうこともありえないことになってしまうし、
じゃあ両者合わせて原因になっているから生まれたのかと言えば、それだって成り立たない。
では原因なしに生まれたのかと言えば、そんなことがありうるはずがない。
以上はごくごく文学的に受けとめたものでしかない。
そこにはいまだ解釈の行き詰まりがある。
そこで私たちはさらなる解釈を試みる。


すべてのものはそれ自身の自性、本質から成立したのではない。
自性以外の要素から成立したのでもない。
自性と他の要素が組み合わさって成立したのでもない。
また、何にもよらずに成立したのでもない。


ここまで来て、私たちはグッと視界が開けてくる。
私たちは、私たちが認識するあらゆるものにはそれ独自の本質、自性があるからこそ他のものと区別されてとらえられるものと考えている。
そのものの自性がそのものを成立させているんだ、と。
しかし、ナーガールジュナ論師は言う。
そうじゃない。自性というものがあって、それがそのものを成立させているというわけではないんだ、と。

じゃあ、そのものにおける自性以外の要素がそのものを成立させているのかと言えば、そういう原因関係によって成立しているわけでもない、とナーガールジュナ論師は言う。

では、自性と他の要素がくっついた所にそのものが成立しているのかと言えばそうでもない。

ではあらゆるものは原因なしに成立しているのかと言えばそうでもないと言う。
さらにナーガールジュナ論師は考察を進める。

原因(縁)というものについていくつかに分類して見てみるならば四種類ある、と。
生まれる元となる因縁。
経験の元となる所縁縁。
心のように立て続けに連続する等無間縁。
助力してくれる増上縁。
これ以外にはないとナーガールジュナ論師は言う。
その上でナーガールジュナ論師は、ものの自性というものがこれら四縁のどれかに見つけることができるかと検討する。
因縁の中にも、所縁縁の中にも、等無間縁の中にも、増上縁の中にも見つからない。
ということは、自性からはものは生まれないということを意味する。

さらにナーガールジュナ論師は言う。
自性が四縁のどこにも見つからないならば、自性と区別されて初めて成り立つところの他の要素だって、ありえないということになる。
四縁のどこにも、他の要素さえありえないということは、ものが自性以外の他の要素から成立するということもまた否定されることになる。
>>[088]

研ぎ澄まされた理性を極限まで使おうとするのは、ブッダにもナーガールジュナ論師にも共通する所ですね。
>>[088]

四不生については、第1章「原因の考察」の第1頌で、
あらゆるものは自らに縁っても生起しないし、
他に縁っても生起しないし、
自と他の両方に縁っても生起しないし、
無因に縁っても生起しない
と論じられていますね。
この短い偈頌についても多くの考察ができるし、またインドでもチベットでも実際、たくさんの考察がなされてきましたね。
ナーガールジュナ師には結局、実体として成立しているものなど何も無いんだというヨーガにおけるゆずれない最高の真実がある。
だから、ものは自身から生まれるのだとか、他から生まれるのだとか、自と他の両方から生まれるのだとか、自も他もなしにいわゆる無因から生まれるのだとか、いっさいの原因が否定される。
実体としての生起を言う限り。
あらゆるもの(諸法)は、自性としては(実義としては、勝義としては)生じない。存在しない。
>>[92]

何故、このタイミングで、勝義の話なのですか?

「勝義」は、論理的な考察が重要ではありますが、覚った状態の意識によって観られる真実です。
故に、論理性の正しさだけでは、片手落ちで、包括的な存在論が根底に無いと、単なる理屈を捏ねくります、ので、屁理屈な人間になってしまいます。

その点、78910さんは、「倫理」を大事にしているので良いですね。
>>[093]

>78910さん、何故、このタイミングで、勝義の話なのですか?


ナーガールジュナ師が、何ものも自性として(svabhavena)、実義として(tattvatas)存在しないと『中論』において述べていることに対して、
チャンドラキールティ師はさらにこれらと同義で「勝義として(paramarthatas)」と註釈していらっしゃいます。
ぼくはチャンドラキールティ師のこの註釈も見た上で、『中論』においてはやや微妙な「勝義として(paramarthatas)」なる語の使い方も「自性として(svabhavena)」および「実義として(tattvatas)」と同義ではないかと考えました。
すなわちナーガールジュナ師は自性として(svabhavena)、実義として(tattvatas)、勝義として(paramarthatas)諸法は生じない、存在しないという3つの限定語を同義で使った表現によって、
諸法は実体としては生じない、存在しないということを言っていると受けとめております。

なお、「勝義として(paramarthatas)」がチベット訳では「勝義の」というふうに訳されているので、このチベット訳に従うと、上のような私の解釈はとれないようですね。

カルマ・ランジュンさんのお考えはどのようなものでしょうか。
>>[94]
チャンドラキールティは、三身説を『入中論註』において展開しています。
法身から受用人が展開するという物質次元の身体の現前という、法身の世界から心が滅している受用身が展開すると、勝義と世俗の有り様を、一切諸法は縁起によって生じるけど、無自性性であるので、「実体としては生じない」とナーガールジュナと同じ見解にまとまります。

実は、仲の良い友人が、瓜生津隆真さんと共書で『全訳 チャンドラキールティ 入中論』という本を出したのですが、未だに読んでなくて、顔を合わせられないのです。 故に厳密な定義には口を挟みたくないのです。

先に書いた様に、78910さんの見解とチベット訳にズレはないですよ。
>>[94]

ところで「tattvatas」という用語は、誰の用法なんですか? svabhavenaは「自性」という語で通例の用語ですがtattvatasは、マハーバーラタでは、良く使われますが、仏教では余り見ません。
「実義として」と「パルマールタ(巴)」、「パルマッタ(梵)」の語義が同じかどうかは、対比出来ません。

78910哲学では、「自性」と、「勝義」とを同一として捉えることに同意する人はどれ程居るのでしょうか?

少なくとも僕は、「自性」と「勝義」を混同すると、二諦は成り立たなくなるなり、「縁起(此縁性)」を否定するので、「自性」「勝義」「実義」の三つを同義として使った見る見解に同意出来ませんし、その認識で、『中論』を検証できるの? という懸念が出てしまいます。
>>[96]

>ところで「tattvatas」という用語は、誰の用法なんですか? svabhavenaは「自性」という語で通例の用語ですがtattvatasは、マハーバーラタでは、良く使われますが、仏教では余り見ません。


tattvatas という言葉は仏教ではあまり見られない、誰が使っているのですかとのお尋ねですが、『中論』の17-26と23-2でナーガールジュナ師が使っておられることについてここでは考察しています。


>78910哲学では、「自性」と、「勝義」とを同一として捉えることに同意する人はどれ程居るのでしょうか?


僕の哲学というようなものではなく、チャンドラキールティ師が『明句論』においてそのように言っているのを取り上げただけですが、チャンドラキールティのこの見解に同意する人がどれくらいいるかと聞かれても、僕にはおそらく大勢いらっしゃるだろうとしか言えません。


>少なくとも僕は、「自性」と「勝義」を混同すると、二諦は成り立たなくなるなり、「縁起(此縁性)」を否定するので、「自性」「勝義」「実義」の三つを同義として使った見る見解に同意出来ませんし、その認識で、『中論』を検証できるの? という懸念が出てしまいます。


カルマ・ランジュンさんがそのようなご意見でいらっしゃることは承りました。
チャンドラキールティ師は『中論』23-2の末尾のtattvatas を註釈して、paramarthatas およびsvabhavatas という意味であると書いていらっしゃいます。
皆さまのお導きを心から感謝申し上げます。

『中論』第5章 元素の考察

1 この世の六つの元素のうち、まず虚空について考えてみるに、虚空の性質が無くして、いかなる虚空も成立しない。

2 何であろうと、性質の無いものは成立しえない。
性質の無いものが存在しないのに、いったいどうして性質の無いものに性質が生じようか。

3 性質は、性質を持たないものには生じない。
また、性質は性質をすでに持っているものにも生じない。
さらに、性質は、性質を持たないものと性質をすでに持っているもの以外の第三のものにも生じない。

4 性質が生じないなら、性質づけられるものも生じない。
性質づけられるものが生じないなら、性質も生じない。

5 このように、性質づけられるものは生じない。
性質も生じない。
性質づけられるものと性質とは異なる第三のものもまた生じない。
5-6 有るというものが存在しない時、いずれのものの無がありえようか。
有るものでもなく、無いのでもない第三のものに果たして有る無いが知りうるだろうか。

5-7 このように考察した結果、虚空は有るわけでもなく、したがって無でもなく、
また、性質づけられるものでもないし、性質でもない。
虚空以外の五つ(地、水、火、風、識)についても同じことが言える。
5-8 すなわち、六つの元素はどれも有るのでもないし、したがって無いのでもなく、また、性質づけられるものでもなく、性質でもないというのに、
諸々の有や無を妄想する愚か者は、彼がとらえる一切のものが安らぎに帰するめでたいさまをついに見ることがない。

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