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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュの龍樹論師登場までの空思想・般若思想の学びについて

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龍樹論師登場までの空思想・般若思想の学びについては、こちらのトピックにて宜しくお願い申し上げます。

コメント(55)


原始仏教経典の一つ『小空経』(中阿含経3‐131)では釈尊がアーナンダに空性の住まいに住むとはどういうことかを説明していますね

そこでは修行の段階ごとに立ち現れて来る空性は言及されていても究極的な意味の空性という概念はまだ現れて来ていませんね
「修行の段階ごとに立ち現れて来る空性」って面白そうですね。
『小空経』は釈尊がミガーラマーター殿堂にお住まいだった時の説法をこう伝えている

「ミガーラマーター殿堂は象や牛については空であり金銀についても空であり比丘以外の一般男女の集まりについても空である
ただ空ならざるものがある
それは比丘僧団である
比丘は村への想いについては空であり人への想いについても空である
ただ森への想いについては存在し、それが不安となる
そこで森を想わず大地を想うと大地への想いが不安となる
そこで空無辺処を想うと空無辺処への想いが不安となる
そこで識無辺処を想うと識無辺処への想いが不安となる
そこで無所有処を想うと無所有処への想いが不安となる
そこで非想非非想処に至ると非想非非想処に起因する不安が生じて来る
そこで無相心三昧に至ると無相心三昧に起因する不安が生じて来る」
ああ、そういう感じなんですね・・・。

ありがとうございます。
一つの心の段階を自分の中に安定化させた後も、自分の心のありようについて敏感で正直で自覚的であり続けるなら、
その段階が頼りにしているものの実体視が次第に明らかとなり、この実体視によって辛うじて安定化しているその段階の心の構造が結局は不安定な虚妄な実体視を基礎とする不安に揺さぶられるようになり、
次の段階に移行してゆく。
そういう次第で心が段々とより深く洗練された構造へと段階的に成長してゆくさまをとても的確に描いていますね。
そうですね。
「あ〜自分の心の中にはまだ自分が頼りにし、支えとしていた〈実体視されたもの〉がこういう形であったんだなあ」
という気づきだと思います。
そういう自分における微細な実体視(我見)、さらに極微細な実体視(我見)へとどんどんどんどん気づいてゆけるようになるためには、止(シャマタ)と観(ヴィパッサナー)とがしっかりしっかりと深められ、修習されなければなりませんね。
「自分」というのは仮にしか無いんですね・・・。
何だか『小空経』の禅定を知覚認識する内容と、「観」の実際の認識に非常に大きな開きがあると感じるのは、ワタシだけでしょうか?
すいません、つい見てしまったものですから。
>>[025]

感じたことは学びの仲間の間ではどんどん率直に打ち明けて下さって、お互いのさらなる修学の資糧として下さるならば、
大いにみんなの利益になるものと思います。
(^^)
78910さん

そうですね、良く思うのは、空無辺や識無辺、有所無所などの色界以上の話を、読んで字の意味合いから自分なりの解釈だけで論を展開するのは危険だと思うのです。

 初禅も経験してなくて、それどころか「止(シャマタ)」も出来ない程の人は身近な「止観」の修習をして実感を得るようになってから口に出す(書き込む)ことをしないと、他の人の害になると思うんです。

その辺は皆さんどう思うんでしょうね?
皆知らないから言った者勝ち?
 そうしてたら皆さん検証出来なくなっていきます。
 そういう危惧を感じています。

気にせず自由に書くようにするんですか?

>>[027]

それは今日における仏道の修習と開かれた言説空間において、常に緊張と葛藤をもたらす難しい問題かもしれませんね。
閉じられ限定されたサンガの中で、しっかりとお互いの修習程度を確かめながら言葉を交わすか、
それとも今日の開かれた言説空間が仏教の浸透に対して持っている可能性を積極的に受け入れて、リスクや過ちもにらみながら、それでも語り合い、教え合い、確かめ合い、導き合うことの価値を重視するか。

僕自身は自分の至らなさや、未熟さや、愚かさをたとえ明らかに公表しているとしても、
皆さまから率直な批判や検証や導きをいただけることの価値と有り難さに幸せを感じます。
78910さん

誠実な態度で好感を感じます
貴方の素敵な所ですね。

サマヤと同じなのですが、サマヤ戒を受けてなければ、関係がないと言ったら言い過ぎかも知れませんが、自身の良心に任せるしかないと 言うのが現況だと思います。

例えば密教などの秘密の教え等は、意識の複雑さもあいまって何でも教えれば良いものではないので、規制があるのですが、現代人は何でも知りたいという欲求が当たり前のように感じている人も多いです。 が、前提の認識が出来ないと理解出来る様にはならないのですが、その知識だけを公開する人もいます。
それはその道を歩いている人に取っては障害になります。

これと同じ不安感です。
日記に今、書いたものですが、転記します。

毛虫・芋虫・蛾というのが、僕の最大の弱いところで、ヘビとかクモや爬虫類やゴキブリ等は全然大丈夫なんですが、蛾とその幼虫には異常な程の恐怖感を感じるんです。

東名高速の例えば海老名のサービスエリアや足利サービスエリア食事を取ろうとレストランに入ると居るんです、異常に大きな蛾がガラスにへばりついているんです。

決して中には入って来れないのは解っているんですが、見た瞬間に凍りつくんです。 嫌悪は駄目なのは判っているんですが、本能が異常に怖わがるです。

これは乗り越えなくてはならないと、深い森の中に入って積極的にこの問題に取り組もうと思っているときは徐々に克服していくように感じるんですが、数年その事を忘れていて、観照の視点で自分の潜在意識を見てみると、未だに恐怖はあるんです。 僕にとっては何らかの経験の囚われがあって、イメージ作用と識別作用に大きな影響があることは受け止めるしかないんです。

 芋虫が蛾に変容するとき、芋虫にとっては「死」なんです。 しかし意識は連続しています。
 人間の皮膚は21日で全部入れ替わってしまうんです。 我々の身体は日々、刻々と変化しているんです。 当然内臓だって細胞は入れ替わっちゃうんです。

生きていると言うことは死に向かって変滅していくんです。

実際に「生きている」という概念は「死」がなくては存在しないんです。 「生と死」は一つのことです。 「ここ」があるから「あそこ」があるのです。 「行く」と「来る」も同じです。「行かない」と「来ない」も「長い」「短い」「偉い」「偉くない」などの相対的な物事の全ては比べることで生じるものです。 それらを相対的なものだから本質じゃなくて、比較しなければ成立しないので、究極的には「ない」というのが「空」の思想です。


善行と悪行も「良いカルマ」と「悪いカルマ」も時間的な因果応報のことを言っていて、我々の身体は親が居ないと生まれて来れないし、食べ物を食べないと育ちません。

 こういった空間と時間の関係性のことを「空」というんです。

 これが縁起観とも言いますが、合理的な思考でもあります。
 これらを超えていく視点やアプローチもあるんですが、先ずはこの縁起観が身に付かないと、それを超えることはできません。
 日本のスピリチュアルな世界では、最初から縁起を通り超え、特殊な世界観を形成する人たちもいらっしゃいますが、そう言うのは単に呪術的思考の産物です。

 最後に相対的なものは実体がないから「空」だと言うのは解っても、意識に薫習(クンジュウー染み込んだ習慣)されているので空だから無いんじゃなくて、究極的には無いんですが、相対的なこの世界のなかでは有るように感じているんですよ。


「空」だから現象世界が生まれると言うことですね。
それを「空即是色」と表現されています。
先に上げた様に、論理的な相関関係を重視したのがナーガールジュナ(龍樹)なのですが、テーラワーダでは時間的な生起関係だけを指していたのです。

"縁起"には三つの別称があります。
「空性」「中道」「仮設」の三つなのですが、「これを縁にするもの」という縁起を説明する用語として「此縁性(シエンショウ)」というのがあります。 これは相関関係にあることを強調するもので、とても重要です。
「空性」「中道」「仮設」の三つと「此縁性」との関係に期待してます。
石田さん

「此縁性」は条件や相互に依存しあう関係を強調するための単語です。

 上記三つ「空性」「縁起」「仮設」は同じことを言っているんですよ、ってことなんです。

それの道理をもっと深く実感し理解するために、以前78910さんが紹介した「文殊の三要訣」などがありますね。

「中道」でしたね。「縁起」って書いてしまいましたが、これでも同じことを言っています。
ツォンカパ (文殊菩薩) 『ラムツォ ナムスム』ですかね?
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20110629/1309330209
石田さん

そうです。
思うより深い視点です。
>>[033]

>「空性」「中道」「仮設」の三つと「此縁性」との関係に期待してます。


此縁性すなわち縁起とはすべてのものが空であることにより仮設されたものに過ぎないことを言っており、
これにより常住論と断滅論の二辺などを離れて中道であることが『中論』の第24章第18偈でもはっきりと言われていますね。
空性の前提てもあり、知恵と修道の話しに関することたして、ヴィパッサナーの禅の前提の話しになりますが、
大念住経、又は大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)はご存知でしょうか。


これは在家の修行者様にゴエンカ氏が主宰してインドに本部があって各国にセンターがある「ダンマバーヌ」と言う非営利団体のセンターでヴィパッサナー(観)の実践をする為のお釈迦さまの教えの経典に基づいたセミナーで使う基となるお経です。 やっている人達は、自分達はお釈迦さまの言葉を信頼しその実践をしているので、小乗とか大乗とかは関係なくてブッダの言葉に忠実であることを誇らしく思っています。 がそれがテーラワーダなんだと言うことは知らないようです。 ダンマバーヌを小乗であると批難する気は丸で無く、逆に大乗だとか、金剛乗をより素晴らしいと、主張する場合は、より上の階層にあるなら、下の階層の要件を包含しなくては、単なる水掛け論にしかならないので、大乗や密教を名乗る場合は、テーラワーダの良さが分かっていなくてはならないと思うのです。 例えばテーラワーダを卑下する人が日本には多いのですが、修行レベルも意識状態もテーラワーダの実践している人には全然敵わないと言うのも多いと言う事も良く見られます。

僕の率直な思いを言えば、知恵が磨かれている筈の、日本の仏教オタクより、テーラワーダの実践をしている人の方が、人としても、仏教の実践者としても優れている人が遥かに多いなと思うのです。
当然の様に、物事に自性を観てしまうと言う弱点はあるのですが、それにも自覚して乗越えるという利点があらから、ダンマバーヌの回し者の様な事をいってますが、ヴィパッサナーの瞑想は経験した方が良いですよと言う事なんです。


最初に挙げたサティに参加するには、ゴエンカ氏のアシスタント指導者であるアシスタントマネージャーを少なくとも1回、それ以外に十日間コースを三回修了していることが参加資格となり、しかも前提となる条件があります。

・エネルギーを使ったヒーリングを他者に施している方は参加できません。
・すべての戒律を、できる限り守っていること。



サティパッターナスッタコースは、通常の十日間コースと同じ時間割や規律を守って行われます。 通常のコースと違う点は、夜の講話でゴエンカ師がサティパッターナスッタを読み、講義されることです。 これはとても重要なテキストで、ブッダがヴィパッサナーについて順序立てて説明したものです。 このコースは真剣にヴィパッサナーを実践する生徒の為のもので、参加するには十日間コースを3回終了し、 最後の十日間コースから別の瞑想法を行っていないこと、 1年以上、毎日ヴィパッサナーの修行と5つの戒律を守ることを心がけていることが求められます。


ダンマバーヌの紹介になってしまいましたね。
>>[39]

テーラワーダについてはあまり知らないのですが、教義として「当然の様に、物事に自性を観てしまう」ということがあるのですか?

そうなると「空」は成り立たないですね・・・。
>>[40]

いい突っ込みです。
小乗も大乗も、釈迦の教えから展開しているので、基本教理は同じものですが、律は、テーラワーダの中でも沢山の部派に別れた様に、解釈が多様に広がったのです。
解り易いのが「布施」です。
布施の基本である托鉢を考えれば解り易いのですが、お釈迦様は、弟子達が苦を滅する為に、財を蓄えるとこは良く無いから止めなさい、その時の生命維持の為に食を請う事は施す側の利益にもなるので、善としたのです。

しかしブッダに従う弟子達は爆発的に増えたのです。
托鉢に来られた村は、一挙に数百、数千人の僧が托鉢に来るんですから、限度を簡単に越えてしまいます。
お釈迦様は、貯蓄はダメだと言っていましたが、食を得れ無い日々が続き、多めに貰った時は、少し残して、貰えない日に備えようとする人達も増えたんです。
そうすると、律を破ることになります。
それはしょうがない、と考える人達は律を変えようとしますから、保守派とぶつかり合い、見解の相違が生まれ、グループは分裂します。
それが部派仏教の始まりです。
部派はそれぞれが伝承する教えも異なるものも増え、その中に、大乗思想を持つもの達が現れ、経典を作り、般若経典群がうまれたのです。
>>[40]

もっと分かり易く言うと、ブッダの言葉に自性を、その言葉を何が何でも大事に伝承することが何よりも大事だと思った人達がテーラワーダと言い、言葉そのものよりも意図が重要だと革新的な人達を大乗運動家と呼ばれたんでしょうね。
>>[43]

おっしゃりたいことが、ようやく理解できました。

ありがとうございます!
>>[45]

そうです、大乗仏教側から見た刹那滅理論は、分子かそ素粒子論に喩えなったとしても、同じです。
仰る様に、自性を観ていると言う点でですが、
存在の分析は、後に大乗アビダルマ論に、昇華されますので、内証に繋がり、唯識派が形を変えて基準を変えて行きました。
>>[46]

「存在の分析は、後に大乗アビダルマ論に、昇華されますので、内証に繋がり、唯識派が形を変えて基準を変えて行きました。」ということを、もう少し判り易く説明いただければ幸いです。

>>[47]

手元に大乗アビダルマ論はとっくにないので一句一句を再現することは、僕の頭では無理なので、ネットか本屋で確認して欲しいです。
前提となるアビダルマコーシャは読まれました?

>>[47]

図書館も重要な参考場所でしたね。
>>[47]

自分で確認して下さいと言うのには余りにも
大きな課題でしたね。
失礼しました。
経量部の立場で書かれていると言われるアビダルマコーシャは、大乗の視点と言う検問を形を変えて大乗の視点で構成を変えた存在論となったアビダルマは、アサンガとマイトレーヤによって『瑜伽論』の七因明を基に編纂されて『アビダルマ論集』の「論軌決択」に収められたと言います。

分析に拘る唯識派は、経量部の外境実在論を否定して行くのですが、条件が揃っているのに、知覚が生じないのは、習気が果を起こすまでに熟していないことを知るのですが、この考察は後々の一切智の認識と結びつくのですが、色々複雑なので、自分で調べて欲しいというのは、些か、不親切な感じがしたので、補足させて頂きました。

>>[50]

ありがとうございます。

日本では法相宗の流れと理解しました。
>>[51]

そうなんですか、僕は日本仏教界の事はまるで知らないので、また教えて頂けたら嬉しいです。

10年位前に、奈良仏教界から代表の使徒の方が、ダライ・ラマの要請を受けて、ボタラカレッジとは別の、教育と経済と科学の研究機関を作って欲しいと、要請が来たのですが、僕にはそんな力は無いと断ったのだすが、受けていれば、楽しかったかも・・・

そんな繋がりしかないんです、日本仏教界とは。

>>[52]

私も、「門前の小僧」以下かも知れません。

とはいえ、チベット系のお話を知るのは新鮮なものがあります。

今後とも、宜しくお願いします。
最古の般若経と言える八千頌般若経は、約500年近くも増広発展がなされて現存の7、8世紀における梵本ができあがっているので、
現存最古179年の漢訳である『道行般若経』とそれとの内容を比較することで、思想的差違や発展も見出されると言われ、研究がなされ始めていますね。
最近は各種、般若経をとても心楽しく読ませていただいています。

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