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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュのチョナン派という抹殺されかけた宗派

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チョナン派      宮本神酒男 訳
抹殺されかけたチベットの人気宗派

チョナン派の成立
1 カーラチャクラのチベットへの伝播
 チベット密教には五大タントラが世に知られるが、そのなかでも時輪(カーラチャクラ)タントラがチョナン派のもっとも重要な修行法とみなされてきた。このようにチョナン派の形成とカーラチャクラ教法の伝播には密接な関係があった。
 『青史』『チョナン教法史』などによると、カーラチャクラはカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポによってチベットにもたらされた。カチェ・パンチェン(Kha che Pan chen)、名はダワ・ゴンポ(Zla ba mgon po)、漢訳して月怙、11世紀に生きたバラモン出身のカシミール人。
 幼い頃から十年間、父よりバラモン教の教育を受ける。のち母の命に従い仏教徒に改宗する。故郷でカーラチャクラを伝えたインド人僧チャンチュブ・サンポ(Byang chub bzang po)に会い、インド人学者ドゥワ・チュンネ・ロドゥ('Dul ba 'byung gnas blo gros 戒生智)がチャンチュブ・サンポに与えたカーラチャクラ関連の『灌頂略示』『灌頂広示』二書を学び、啓示を受け、信仰心を持った。ついにインドへ行き、カーラチャクラを学んだ。
 ドゥワ・チュンネ・ロドゥの生涯に関しては仏教史中に記載がないが、『青史』のカーラチャクラの項には記述がある。シャンバラ国でドゥシャブ・チェンポ(Dus zhabs chen po)が白蓮法王からカーラチャクラを学び、その後インドに戻ったとき五人のパンディタに教えを伝授したのだが、五人のうちのひとりがドゥワ・チュンネ・ロドゥだった。
 カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはインドに行きドゥワ・チュンネ・ロドゥから学んだわけではなかったが、ドゥシャブ・チュンワ(Dus zhabs chung ba)に直接拝し、カーラチャクラに関した灌頂や儀軌、『時輪根本タントラ』とその解釈を学び、修行をしたあと、シッディ(成就)の境地に至った。長い間穀物を避け、二便を断ち、盗賊などの類の悪人に対しその身体を硬直させことができた。修練を積んで非常に高い境地に達していたのである。
 『チョナン教法史』によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポは学んだあと三度チベットへ行き、カーラチャクラを伝え、ド氏('Bro)系統の四代目となり、カーラチャクラのほかに『明灯論』やナーガールジュナの諸著、アサンガの『五部地論』なども教授した。
『青史』によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはカーラチャクラを伝えるために何度もチベットへ行った。チベットでは『時輪経』を教え、『時輪無尽明灯教授釈論』や『根本智論』を著した。彼はチベット語にも通じていた。ンガリ、そしてツァンに行き、『勝義近修法』と『時輪タントラ広釈』をチベット語に翻訳した。
比較的信じられる説としては、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポは二度チベットに来た。ユルポ・サンユル(gYor po'i bzang yul)地方のゲシェ・ジェパ(dGe bshes rCe pa)父子にカーラチャクラを教えた。同時に他の人に教えるとき、ジェパ父子はその場にいて通訳を担当したという。
 はじめてチベットに来たとき、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはツァンのチュシュル(Chu shul)を訪ね、二度目のときはペンユル('Phan yul)地方のゲシェ・コンチョクスン(dGe bshes dKon mchog bsrung 宝護)師弟によるもてなしを受けた。カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはチベットのほかの師に伝えられていないカーラチャクラの本タントラ、タントラ釈のすべてをコンチョクスン師弟に教授した。
 ド氏('Bro)の伝承によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来たとき、三人の者が教えを受けた。ひとりはド訳経師シェラブ・ダクパ('Bro lo Shes rab grags pa 慧称)で、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポが講義するカーラチャクラを目の前に坐ってすべて聞き、殊勝ラマとなった。
 二人目は、ラジェ・ゴムパ・コンチョクスン(Lha rje sGom pa dKon mchog bsrung)で、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポが講義したカーラチャクラの灌頂、タントラ釈、秘訣のすべてを目の前に坐って聞いた。
 三人目は、ラマ・ドトゥン・ナムゼ(bLa ma sGro ston gnam brdzegs)で、カーラチャクラの灌頂とすべてのタントラ釈を学んだ。チョナン派がチベットにおける始祖と追認するユモ・ミキュ・ドルジェ(Yu mo Mi bskyod rdo rje 不動金剛)は法縁を結んだものの、直接カーラチャクラの教えを受けたわけではなく、このドトゥン・ナムゼから学んだのだった。
 カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポの生没年は文献中に記載がなく、チベットにおける活動の詳細を記した資料もまた発見されていない。チベット暦の第一年であるラプチュン年(Rab byung)紀年は、『時輪タントラ』がチベットに入った1027年だった、というのはほぼ定説だ。『時輪タントラ』は北宋の天聖年間にチベットに流伝したのである。
 ド氏の伝承によれば、主要三大弟子のひとり、ド訳経師が、その生没年はわからないが、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポからカーラチャクラの教法をすべて学び、五代目のカーラチャクラ伝承者となった。ほかの二人の弟子に関していえば、各種文献にはごく簡単な記述しか見当たらない。ラジェ・ゴムパ・コンチョクスン、通称ゴムパ・コンチョクスンは、ラジェという呼称から医学に通じていたことがわかり、ゴムパから密教の修練にたけていたことが知られ、コンチョクスン(宝護)が基本的な名である。
 コンチョクスンはカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来ると、家財のすべてを6両の黄金に変え、献上し、身口意でもって供養し、『時輪タントラ』の根本タントラ、ならびに釈と秘訣の伝授を求めた。彼はド訳経師の弟子であったことから、六代目の伝承者と認定されている。
ラマ・ドトゥン・ナムゼ、あるいはナムラゼパ(天積)、通称ドトゥン・ナムゼは、年少の頃から篤く仏教を信じ、仏学にいそしみ、仏教経典に精通した。晩年になってカシミールへ行き、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポに拝し、カーラチャクラの伝授を懇願した。
 カチェ・パンチェンは彼の誠意と強さを試した。すなわち彼にチベットのマンユル地方に宝物を運ばせ、後日自らチベットへ行ったあと、伝授すると答えた。ドトゥン・ナムゼはチベットに戻り、友人の勧めもあってあらためてゴムパ・コンチョクスンにカーラチャクラの伝授を求め、『時輪根本タントラ』とその釈論、教法を学び、修行によって悟りを得た。
 のちカチェ・パンチェンがチベットに来たとき、ドトゥン・ナムゼはふたたび拝謁した。カチェ・パンチェンは彼に灌頂を与え、修法等の儀式を行い、あらたにカーラチャクラの法門を開示した。こしてカーラチャクラの正統な伝承人となった。ド氏の伝統では、ドトゥン・ナムゼは七代目とされる。
 

コメント(11)

密教の教えとは、伝統的な仏教徒には否定されることが多いのですが、最初はチベットでも、了義の教えを部分的にしか理解できなかったのですが、初期の哲学的見解を示せたのは、ドルポパ・ シェーラプギェルツェン(Dol po pa Shes rab rgyal mtshan, 1292-1361)がユモワ・ミキュ・ドルジェやツェン・カウォチェという先駆的知性と六支ヨーガの実践者がいましたが、哲学的体系にしたのは、ドルポパです。
そして、瞑想体験の過程における「空」は経験的空であり、「自性の空(シェントン)」であるとしました。それを中観他性空と言います。
中観他性空はマイトレーヤやアサンガ、ヴァスバンドゥ兄弟やナーガールジュナから派生した教義であると見ています。

mixiでも、中観派と唯識派はどちらか優れているのですか?
とよく質問をされたのですが、チベットでは、因明は知覚認識論を含んだ唯識を包み込み、中観と統合され、チベット仏教の核心になったのです。
ドルポパと言うのは、チョナン派の大師で、一切知者と呼ばれるカルマパ3世とロンチェンプラジャムパに影響を与えた初期のチベット仏教を哲学化を止揚した人物です。

チョナン派を宿敵し、してチョナン派に敵対したのは、サキャ派の学者レンダワ・ショヌ・ロドゥ(Rendawa Zhonu Lodro 1348-1413)だった。学術的な観点から見た場合、レンダワはチベットにおいて中観哲学のプラーサンギカ(帰謬論証派)を確立した学者として知られる。彼は偉大なるツォンカパ・ロサン・タクパ(Tsongkapa Lozang Trakpa 1357-1419)のもっとも重要な師となった。しかしチョナン派から見れば、レンダワは、ドルポパによって広まった了義(ニータールタ nitartha, nges don)に対する悪意に満ちた敵対者だった。
 たとえば、ドルポパの最後のことばに帰せられ、伝記にも加えられた、しかし実際ははるか後代にチョナン派信者によって書かれた偽の予言のなかで、レンダワは激しく非難されている。彼は虚無的な見方(med par lta ba)を広める悪魔として描かれた。
 さらにレンダワは仏性を根本的な基体とすることに反駁し、六支ヨーガを究極的な道とすることを誹謗し、穢れを除けば根本的な果が得られるという見方を否定した。
 彼はまたカーラチャクラ・ムーラ・タントラが、他のスートラやタントラのように「如是我聞(われ、かくのごとく聞けり)」で始まっていないとして、非難し、簡約版カーラチャクラ・タントラもさまざまな点をとりあげて批判した。

 そしてついにレンダワはヴィマラプラバー(カーラチャクラ・タントラの論釈)の経文をかきあつめ、川に投げ捨てたという。
 これらは真剣な申し立てもあったが、公正にみれば、ヒステリーになりすぎている面があった。レンダワの自伝が述べるように、彼は、カーラチャクラ・タントラは仏法ではないと主張したことで知られていた。しかしそれは正確ではない。カーラチャクラを精読したとき、非―仏教的(chos min)として退けたわけではなかった。『珠玉鬘』(Nor bu’i phreng ba)の末尾でレンダワ自身があきらかにしたように、カーラチャクラ・タントラをたんに批判したのではなかった。
 
<(カーラチャクラが)高貴なる人(ブッダ)によって書かれたかどうかはともかく、それがすぐれた説明をしていることは容易にわかる。それゆえわたしは「これは解脱を願う人々のための入り口ではない」などと言うつもりはないのだ>
 
 レンダワの論点はカーラチャクラ・タントラ自体の内容ではなく、字義どおり(sgra ji bzhin pa)に解釈し実践されていることに対し、『珠玉鬘へのわが解答』(Nor bu’i phreng ba’i rang lan)のなかであきらかにしているように、自身の初期の疑義からカーラチャクラを擁護しているのである。
 
<今日、氷雪の国の傲慢な学者たちは、カーラチャクラとその論書の字義どおりの解釈に躍起になっている。その深奥の意味は、内包されたことばによってしか読み解けないのであるが。
 顕密の諸経典と矛盾する見解が広まっているのを見て、曲がった棒を伸ばすように、わたしは反論し、解釈してきた>
 


 レンダワはたしかにチベットにおけるカーラチャクラの伝統に対し批判的ということで有名だった、あるいは悪名高かった。しかし当初彼はドルポパの偉大なる弟子たち、たとえばニャウン・クンガ・ベルやマティ・パンチェンなどとともに学び、チョナン派の哲学体系をかなり気に入っていたはずなのだ。それから彼はチョナン派の師たちが教義の基礎としてきた経典を徹底的に検証しはじめた。すなわちカーラチャクラ・タントラ(時輪経)、ランカーヴァターラ・スートラ(楞伽経)、ウッタラタントラ、ダルマダートゥ・ストートラ(法界頌)などである。
 彼はこれらの経典を三度読み、分析した。一度目の読了後、彼はチョナン派のとらえ方は正しいと考えた。二度目の読了後、それが正しいかどうか不安になった。三度目の読了後、チョナン派の解釈は間違いだという確信に至った。
 そしてレンダワはサキャへ行き、師のひとり座主サンギェ・ペルに会い、チョナン派の教義は誤謬であると報告した。レンダワはあきらかにチョナン派の伝統を壊し、カーラチャクラ・タントラを読んで感じた矛盾を表にさらし、疑義を呈することを使命だと感じていた。
 まずレンダワは自分が決めたことを師のニャウンに伝えた。ニャウンはこのレンダワの考えを聞いて非常に不愉快になった。にもかかわらず、ニャウンは偉大なる知性の持ち主であり、とりわけ理知をたくわえていたので、レンダワが論書や経典からの引用を示せばニャウンも賛同してくれるだろうと考えた。また、もしニャウンが転向すれば、チョナン派のすべての学者が考えを改めるだろうと確信した。ニャウンはたしかにドルポパの伝統の代表的な後継者だった。
 
他性空の変遷
サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男
3 ドルポパ以降(6)

 ダライラマ五世自身によれば、ターラナータの寺院タクテン・プンツォク・リンは1650年にゲルク派に宗旨替えした。しかし以前からこの寺院にいた僧はその考え方も修行法も変えなかった。それどころか新たにやってきた僧はチョナン派の本来の教えに向かうよう仕向けられた。
 ダライラマは金メッキをした真鍮にたとえた。チョナン派にゲルク派の薄板を貼ったようなものというわけだ。
 結果として、ゲルク派の上層部は彼らを他の寺院に体よく追い出した。そこでより厳しいゲルク派の規則に縛られることになるだろう。そして寺院にはガンデン・プンツォク・リンという新しい名が与えられた。1658年のことだった。
 このとき以来、中央チベット、西チベットでは、チョナン派は独立した宗派としては弾圧されるようになった。弾圧にもかかわらず、チョナン派流の他性空とカーラチャクラの教えはこれらの地域で教えられてきた。一方、チョナン派寺院が身を隠すことなく生き残ったのは、はるか東のアムドのザムタン寺を中心とする地域だけだった。
 チョナン派の他性空とカーラチャクラの教えは現在にいたるまで伝承され、実践されてきた。
 しかしチベット仏教の主流として残っているこれらの教えは、飛び地であるアムドのザムタン寺のチョナン派の僧たちではなく、東チベット・カム地方のニンマ派やカギュ派の高僧たちが広めたものだった。彼らはドルポパの賛否両論の見解を受け入れ、教えてきたのだった。
 ニンマ派大師カトク・リクズィン・ツェワン・ノルブ(Katok Rikzin Tsewang Norbu 1698-1755)は、同時代をリードするカギュ派の高僧たちに他性空とカーラチャクラの復興をもたらした当の人物である。彼の頌形式の自伝によれば、ツェワン・ノルブは子どものときでさえ、ドルポパとその直弟子たちの名を聞くと、信仰心が高まったという。
 他性空やカーラチャクラの教えがごく自然に感じられたのだが、のちにチョナン派の教義をツェワン・ノルブに伝えた師が、彼をドルポパの弟子、マティ・パンチェン・ロドウ・ギャルツェンの転生であると認定したとき、その理由がわかったのである。マティ・パンチェンはカーラチャクラ・タントラとヴィマラプラバーをチョナン派のために翻訳したふたりの訳経僧のうちのひとりだった。
 1726年、ツァン地方を通ってカトマンドゥ盆地へ向かう途中、ツェワン・ノルブは偉大なるヨーガ行者クンサン・ワンポからなんとかチョナン派の教義を教わろうとした。クンサン・ワンポの師のひとりは、ターラナータの直弟子だったのだ。
 クンサン・ワンポはルラグ・デプン(Rulag Drepung)改め(ゲルク派によって強制的に改め)ガンデン・カチュー(Ganden Khacho)という隠棲所で厳しい隠遁生活を送っていた。ツェワン・ノルブは三日間探したが、その姿を見ることさえできなかった。彼はこの修行者の厳しい禅定に感服し、彼からチョナン派の教義を教わろうと強く思った。
 1728年末、チベットへ戻る途中、ツェワン・ノルブはまたクンサン・ワンポに近づき、今回はチョナン派の教義を伝授してもらうことに成功した。
クンサン・ワンポは『他性空大中観広注』(gzhan stong dbu ma chen po’i lta khrid)、カーラチャクラ灌頂、六支ヨーガ、その他多数のリメ(脱・宗派)の教えを伝授した。
 ツェワン・ノルブはまたクンガ・ドルチョクによって編纂された『チョナン派百の教戒』(Jo nang khrid brgya)やドルポパとターラナータ両者の全集(gsung ‘bum)の著作からの伝授などを受け取った。
 これらのことからわかるのは、18世紀半ばになっても、おなじ寺院のなかで、チョナン派からゲルク派に宗旨替えしていたものの、本来のチョナン派の教義は教えられ、実践されていたのだ。
 ダライラマ五世はチョナン派の教えを禁止しようとしたが、上述のように転向を無理強いさせても、成功したのは表面上にすぎなかった。
 一般的な印象とちがい、はるか東のアムドだけでなく、ツァン地方のチョナンの近くでさえ教えの伝授は生き残っていたのだ。実態はツェワン・ノルブが1734年にチョナンへ行ったとき、はっきりする。彼はかつてドルポパやターラナータが就いた法座に就き、多くの灌頂、経典の伝授、チョナン派のもともとの秘密の教えなどを聴衆に与えた。
 すくなくともこの時期、ゲルク派の上層部はチョナン派の教えがツァン地方中に広がったり復活したりするかもしれないという危機感は持っていなかった。
 
>>[4]

ユモワ・ミキュ・ドルジェという11世紀に出現し、『四明灯』を著したチョナン派の大師がいました。 
このユモワはシェントン(他性空)を流行らしたのですが、ゲルク派の大師トゥカン・ロサン・チューギ・ニマ(1737〜1802)は著書『善説水晶鏡』の中で他性空を発案したのはユモワであると書かれ、ドルポパの時代まで他性空は秘伝であり口伝であり口頭伝授として伝わっていたとされていますが、トゥカンはドルポパがユモワの『四明灯』を積極的に教えていたのを知りながら言及や引用する事が無かったと記されています。  ユモワの主張は究竟次第の瞑想体系を重視していて、6支ヨーガ、統合(ズン・ジュク、大印契(マハームドラ)輝く光(オーセル)空の四つです。
これらの体系立てられた伝承はなく、現代ではカギュ派とニンマ派に伝承を受け継いでいるリンポチェ達がいらっしゃいます。 その人達はリメーパ(超宗派)と呼ばれ、チョナン派のリーダーだったクンガ・ドルチョクには三つの重要な教えがあり、サキャ派のラムデ、シャンパ・カギュの秘教的な教え、チョナン派の六支ヨーガだったのです。
僕の師事したカル・リンポチェはシャンパ・カギュの座主でカルマ・カギュとはどんな関係になるのだろうと思っていましたが、スコットランドのサムイェ寺の長であるイェシェ・ロサル・リンポチェはカルマ・カギュのタイ・シトゥ・リンポチェの指令で日本にセンターを作りに来て、自身もシャンパ・カギュのカル・リンポチェに指導を受け、ソナダで指導を受けていたと直接聞きました。 この二人は瞑想の超達人で、ドルポパの系譜を受け継いでいる人達です。
ジャムヤン・チューキ・ロドゥの重要な高弟達が受け継ぎ、今日まで受け継がれています。
ニンマ派大師ディルゴ・キェンツェ・リンポチェ、ラブセル・ダワ(1910〜1991)カギュ派大師カル・リンポチェ、ランジュン・クンキャブ、ニンマ派大師ドゥジョム・リンポチェ、ジクダル・イェシェ・ドルジェ(1904〜1987)
ニンマ派とカギュ派に同じく誕生したトゥルク、コントゥルとミパムの見解が広く支持されています。
>>[4]

インドにはアーリア人が侵攻していて、ゴータマ仏陀が登場するまで、悟りそのものも、伝説でしかありませんでした。
>>[4]
インドには様々な思想・哲学が流行っていて有名な6人の先生たちがいたんです。
それを六師外道と仏教側が呼び、その紹介をします。
>>[7]が生きていた時代にも、仏教以外を信奉する人たちはたくさんいて、その人たちのことを仏教側からみて「外道」と呼んでいました。
 
古い経典では「六師外道」という名前で仏教以外の教えの代表的なものが残さています。
 
当時は結構パンクな考え方が流行っていたみたいで、面白いのちょっと見てみましょう。
* 道徳否定論者
* 決定論者 (宿命論)
* 唯物論
* 七要素説 (不変・永遠論)
* 戒律主義
* 不可知論
 
>>[7]に自己紹介してもらいましょう。
 
顔出しNGとのことでしたので、編集してお送りします。
 
 
道徳なんていらんのじゃい:プーラナ・カッサパ

プーラナ・カッサパ
はじめまして。プーラナです。

 
私の主張は「道徳なんて必要ない」ということです。
 
何が善で何が悪かは、人間が自分勝手に決めただけで、真実からいえば善も悪も実在しないのです。
 
さあみんなで「ヒャッハー」しましょう。
 
 
もう全部きまってるの!:マッカリ・ゴーサーラ
 

マッカリ・ゴーサーラ
久しぶり!

当時はずいぶんとブッダさんから罵られたマッカリだ。
 
言いたいことは、すべては運命で決まっているということ。
 
悟りとか解脱とか、そんなもんはすべて運命で決まってるんだよ。
 
だから「努力しよう」とかマジ無駄。
 
悟るやつは自然と悟るし、落ちこぼれるやつは自然と落ちこぼれるんだよ。
 
だから自分のことなんて気にするな。みんなで「ヒャッハー」しようぜ。
 

本寝坊主
すべてが決定しているというマッカリ・ゴーサーラの主張は仏教にとって天敵でした。

 
これを受け入れてしまえば、修行や精進の意味もなくなってしまいます。
 
なので、仏典では最も危険な思想家として扱われたりします。
 
 
前前前世とかないからね:アジタ・ケーサカンバリン
 

アジタ・ケーサカンバリン
どもども。アジタです。

えっ、あんた前世とか来世とか信じてるの?
 
あるわけないでしょ、そんなの。
 
俺たちは全部物質からできてんだから、死んだらそれでおしまい。
 
魂とかもただの妄想だからね。
 
死ぬまで「ヒャッハー」して楽しく生きようや。
 
殺そうとしてもムダだよ:パクダ・カッチャーヤナ
 

パクダ・カッチャーヤナ
おはようございます。

アジタさんから影響をうけたパクダです。
 
刀で人を切ったらどうなるかわかりますか?
 
死にませんよ。
 
人はあらゆる要素があつまってできてるだけですから。
 
刀で切っても、それが間を通り抜けるだけで、本来的には「殺した人」も「殺された人」もいません。
 
さあみんなで「ヒャッハー」しましょう!
 
真面目こそ正義:ニガンタ・ナータプッタ
 

ニガンタ・ナータプッタ
あ、お久しぶりです。

 
ジャイナ教をつくったニガンダです。マハーヴィーラ(偉大な勇者)なんていわれてました
 
仏教さんとは兄弟宗教ってよく言われましたよね。
 
やっぱり私は、苦行をやりとげることこそ正義だと思うんです。
 
私たちの魂は、汚れていますからね。浄化してやらないと。
 
ブッダさんところは、髪の毛を剃るらしいですが、
うちでは抜きます。
 
服もいりません。
真っ裸でいきますよ。

本寝坊主
思想的には、相対主義であったと言われています。

 
真理は色々な方法で表せるとして、何かを判断するときは「〜ある観点からみれば」
と制限をつきなければならないとしています。
彼らは自分たちの論法を「最強の論法」としています。
 
ちなみに、常に裸の修行者(裸行派)は今でもインドにいます。
 
うなぎのような男:サンジャヤ・ベーラッティプッタ
 

サンジャヤ・ベーラッティプッタ
ブッダのやろう、今頃のこのこ呼び出しやがって。

 
何?来世はあるかって?
 
私は、あるとは考えない、来世があるとも、それとは異なるとも、そうではないとも、また、そうではないのではないとも考えない。
 
何言ってるか分からないだと?
 
そりゃそうだ。俺もわからん。
 

本寝坊主
形而上学的な問題に関してはうなぎのような論法で回答を避けた、と言われています。

 
ブッダの2代弟子のサーリプッタ(舎利佛)とモッガラーナ(目蓮)は、仏教の前はサンジャヤの教団に所属していました。
 
お釈迦さんはドロボウ猫だったんですね
 
いかがだっだでしょうか?
 
意外にも現代風な思想が多くあったかと思います。
 
仏教とこれらの思想とは違うとしていますが、かなり影響を受けたところはありそうです。
 
古い仏典からの話ですが、仏教理解の助けになれば幸いです。
 






初心者六師外道哲学
>>[7]
ウィキペディアからの引用です。
チョナン派は、カギュ派の第七の派と書かれることがありますが、どのような歴史的な経緯を踏まえて、そのように言われるのか、ご存じでしょうか?カルマパ三世とのかかわりの深さや、リメに関わったカギュ派の聖者との関わりで、そのように言われるのでしょうか?

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