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アンチ・ファンタシーコミュの「最後のユニコーン」関連の論文を発見

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管理人のホームページ「Fantasy as Antifantasy」(http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/)の閲覧者をチェックしてましたら、メキシコから見に来てくれた方の検索結果の中に、「最後のユニコーン」を積極的に評価している他の論文があることがわかりました。題名は"Psychic Transformation and the Regeneration of Language in Peter S. Beagle's The Last Unicorn"です。筆者はSue Matheson氏。大学あるいは図書館関係の方であれば、Muse ProjectかProquestのデータベースを通してThe Lion and the Unicorn, Sep 2005. vol 29, Iss 3の中にこの論文を見つけることができます。題名がよく内容を表していますが、逆にアカデミックな世界でのビーグルに対する評価の貧弱さを窺うことができます。「カルト小説」との記載がありますから、一部の評価の高さは認められているようなのですが。

コメント(9)

マシーソン氏の論文を読んでの収穫は、R. E. Foust氏が「Extrapolation」においてビーグルを高く評価していることが分かったことです。学者の書く論文には期待していなかったけど、やっぱりビーグルのことを褒めてくれる人がいるのは、嬉しいです。
 トピック「psychic transformation」の誤記載を訂正致します。
アップロードしてしまったテキストの再編集とかの方法があるのかどうか分からないので、とりあえずこちらで直しておきます。

C. N.マンラブは、『ファンタシー文学の衝撃』ー

 と訳した部分は正しくは

C. N.マンラブは、『ファンタシー文学の衝動』ー

です。impulseをimpactと見違えていたようです。ついでにこの部分全体を次のように修正、追加しておきたいと思います。

ロバート・ボイアーとケネス・ザホースキは、Fantasists on Fantasyにおいて『最後のユニコーン』を現代ファンタシーのベスト10に含まれるべきものとして評価している。ジーン・トービンは"A Myth, a Memory, A Will-'o-the Wish,'"で『最後のユニコーン』は“新鮮で、上品で、心に残る作品”として評価している。またR. E. ファウストはExtrapolationにおける論評で、この作品の存在を裏付けとして、ビーグルはドナルド・バーセルミやロバート・クーバーやトマス・ピンチョンと肩を並べるべき存在であると主張している。しかしC. N.マンラブは、『ファンタシー文学の衝動』においてこの作品は破綻したものであり、描かれている魔法が感傷へと、現代的な語り口が的を外したジョークへと失墜している点で、トルキンに対するオマージュになり得ていないと批判している。

コメント
 マシーソンはいくつかの研究書、あるいは論文を取り上げて、『最後のユニコーン』に対する評価が見事に分かれていることを例証している。事例としては確かな情報ではあるが、研究書や論文等にはかなりひどいものも多いので、さほど驚くには当たらない事実でもある。
 C. N.マンラブはModern Fantasy (1975) においてトルキンの『指輪の王』に何等積極的な価値を認めようとしなかったので悪評高い。彼の、上に参照されている『最後のユニコーン』に対する総括は、Brian Atteberyの The Fantasy Tradition in American Literature: From Irving to Le Guin. Bloomington: Indiana UP, (1980)の記載を踏襲するものだろう。アテベリーのファンタシー全般に対する理解は柔軟で、十分に好意的なものであったが、不思議なことにビーグルに対しては拒否反応とも言える対応を示している。何故か、ビーグルは正しく理解されないのである。
R. E. Foust氏がExtrapolationに発表した論文"Fabulous Paradigm: Fantasy, Meta-Fantasy, and Peter S. Beagle's The Last Unicorn"を探してみたのですが、残念ながら1980年と、かなり以前のものなので、ProQuestには収録されていませんでした。この論文の入手方法についてお心当たりの方がいらっしゃったら、お知らせ頂ければ幸いに存じます。
 The Last Unicornを対象にした論文あるいは研究書と言えば、結局「赤い彗星」が公開しているものが、最も包括的にこの作品を論じているものであると言えそうです。「赤い彗星」は「漫画的要素」というファクターに焦点を当てて、この作品の真価を語ろうとしている訳なのですが、このコミュニティの紹介にも用いていた「漫画的」という言葉に改めて説明を加えるとするならば、以下のようになります。

 ファンタシーのポストモダニズム的再評価という観点を考慮して、論理学的・認識論的問題性を意識しつつ、「現実には起こりえない筈であるとされている事柄を題材として描く」という定義の許に存立するファンタシー世界においてさえもさらに、「有りえる筈がない」という決定的な違和感を作品世界受容者に与える題材が導入される叙述方法として、「漫画的叙述」という用語に対する定義を与えておくことにする。

つまり語られつつある作品世界の仮構性を常に意識しながら、メイク・ビリーブされつつある対象とメイク・ビリーブしつつある自分自身を常に意識し、受容し構築されつつある自らのイマジネーション世界の非実在性を嘲笑する冷徹な視点を保持し続けていく、という反射的機構が極まった突出部分が、「漫画的」と呼ばれる描述行為の正体であるとも言えます。あるいはまた「有りえぬ筈のことを語りつつある」という自らの行為を反射的に畳み込んだ自己言及的描術行為として、フィクション性を自覚したフィクションの様態の際立った部分が「漫画的」という印象を仮構世界受容者に与える、と語り直すこともできるでしょう。
 『最後のユニコーン』に対する言及のある研究書としては、レイモンド・M.オールダマン(Raymond M. Olderman)の『荒れ地の彼方』(Beyond the Waste Land: The American Novel in the Nineteens-sixties, 1972)があります。
 しかし、どういう訳か翻訳書のみを入手できていたこの本なのですが、あまりしっくりしないのです。原作を読んでいてびんびん感じるところが全く反映されていなくて、どうも議論の焦点が違うような気がしていました。原作の発表の4年後に出版され、バースやピンチョン等と並んで、最後のチャプターをビーグルに割いてくれている筈なのですが、赤い彗星に訴えかけた独特の主題性が全く感じられません。訳のせいかとも思うのですが、残念でした。
ファンタシー文学を正面から考察の対象とし、柔軟にその芸術的価値を評価しようとする姿勢を明らかにしたのが、ブライアン・アテベリー(Brian Attebery)の『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』(The Fantasy Tradition in American Literature: From Irving to Le Guin,1980)でした。しかしながら彼のビーグルに対する扱いは、かなりひどいものであったのです。

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ビ−グルがトルキンの流儀に倣って、自分のお伽話を膨らまして奥行きのある物語世界を構築しようとし始めるや否や、サーバー的な巧みさは失われ、ビーグルは「自意識過剰」になる。接ぎ木はうまくつながっていない。二つの要素は分離し、魔法は感傷へと変わり、現代的な語りの視点は落ちつかない冗談へと変わってしまっている。ビーグルは自分のお伽話の魔法使いにシュメンドリックなどという気落ちするような名を与え、時代錯誤のセリフを語らせてお話を台無しにしてしまう。サーバーの場合であったらその時代錯誤は常に現代と昔の見事な対照でもってお伽話の世界の魅力をより強めているものであったのに。『最後のユニコーン』の核は定まらない。登場人物達と作中に描かれた情景はばらばらに分解し、物語世界を引き締めるべき様式を形成することは出来ていない。
ーー
 ビーグルはこれらを納得のいく全体像を形成する処まで繋ぎ合わせることが出来ていない。何故ならビーグルは自分のイメージを信じることが出来ないからである。信じることが出来ていない筈だ。なぜなら彼はいつも「妖精の粉」を振りかけるからだ。それはこんな具合だ。「魔女のよどんだ目はあまりにも凄まじい輝きを放って燃え上がったので、夜の酒盛りに出掛けるところであったオオミズアオの一行は、その目の中にまっしぐらに飛び込んで、しゅっと音をたてて雪のような灰になってしまった。」これもそうだ。「シュメンドリックは彼女を支えてやろうと飛び下りた。すると彼女はあたかも彼がグレープフルーツの皮かなにかであるかのように両手で彼にしがみついた。」前者の例はお呼びでない。後者は、(グレープフルーツの皮ときた。)単に下らないばかりだ。どちらの場合もその情景が物語世界を積極的に構築することはないし、話の進行とかみ合いさえもしていない。作者にもっと真面目に物語を語って、何が言いたいのかはっきりさせて欲しいと言いたくなる。ファンタシーは寄席の奇術などではない。ファンタシーの効果は見当違いのおまじないからは生まれない。
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このような否定的な見解の表明がなされていることは、赤い彗星にとっては大変残念なことだったのですが、ただ残念がっていても仕方が無いので、気を取り直して前向きに考え直すことにしました。
 ビーグルの特質を受容困難とするある一つの性向が、確かに存在することを例証するものとしてこの研究書の意義を認め、そこから改めてビーグルの独特の才質と『最後のユニコーン』の知られざる特質を明らかにしていこうと思った訳です。
 これが「アンチ・ファンタシーというファンタシー」を考察していくきっかけとなりました。
 ビーグルの『最後のユニコーン』の特質を理解するための手懸りは、作品研究として発表された研究論文以外には、等質の思想的基盤を共有すると思われる他の作家達との対照から得られそうに思われます。様々の点で多大な影響をビーグルに与えたと考えられるのが、エドガー・アラン・ポーの思想と作品です。
 例えば『最後のユニコーン』の以下のような箇所については、先達の幻想文学の書き手達との共通項として確かに指摘し得る特徴があります。


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けれどもこの通路の道筋は、夢の中の体験のような、あり得ないものなのだった。通路は速度を増し、歪み、いつの間にかもとの処に戻り、突然転がり落ちるように傾斜したかと思えば、いつの間にかまたゆっくりと昇っており、ようやく上りきってまた下りになり、そうするうちに再び曲がりくねって、ひょっとしてあの城の広間にまた戻ってしまい、そこではハガード王が崩れ落ちた時計と粉砕された骸骨を見下ろして猛り狂っているのではないかと思えるのだった。
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 上の描写において殊に顕著であるように、この生真面目な諧謔と詩的な斬新さと思弁的な野心に満ちたアンチ・ファンタシーのお伽話においては、運動と位置、存在と様態、実質と作用等の、本体となるべきものとその位相とされるべきものとの間の関係の絶え間ない逆転と変換の有り様が、ポー的な詩学的修辞法を彷彿とさせる極性転換のシステム理論に従って、周到に語り続けられているのである。
 もちろんこのヴィジョンは、数多くのファンタシー文学に様々の変化形を伴って現れる、通路あるいはそこに連接した無数のコンパートメント構造の織り成す迷宮構造のイメージの発展形であることに間違いはない。19世紀の数理論理学者であったルイス・キャロルが、地下のナンセンスの世界におもむいたアリスが最初に目にした地下の邸宅の廊下とその両側に並ぶドアの列として描いたのは、未知の系に属する裏の論理の示すディレクトリー構造体であった。19世紀の異端的な神秘思想家であったジョージ・マクドナルドが『ファンタステス』の冒頭で、記録文書と権利証書の保管庫として父権的な世襲財産の象徴となるものではありながら、未だ歩むべき道を知らぬ若者アノドスを理性と現実世界の影の領域である“フェアリーランド”へと導く母性原理への回帰の戸口でもあるものとして描いた、数多くのコンパートメントから成り立ち、さらに秘密の未知の空間をも隠し持つライティング・デスクは、そのまま一つの世界と精神の融合の神秘的解釈における表象となるものであった。そして、19世紀アメリカの決して理解されざる純粋なロマン主義思想家であったエドガー・アラン・ポーが、影と分身のモチーフのもとに“ウィリアム・ウィルソン”において描いた同名の主人公の心の故郷たる学寮のイメージは、ビーグルのアンチ・ファンタシー的創作動機の直接の影響となるものとして、この場面の原型的イメージを提供するものであった筈である。

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けれどもあの学院は、なんとも不可思議で古めかしいその建物は、今では実に魔法の宮殿のように私には思われるのである。通路は果てしなく曲がりくねっており、区画は理解を超えて果てしなく分割されていた。何時であろうと自分がこの二階建ての建物のどのあたりにいるのか、確信を持って述べることは困難であった。どの部屋にも必ず三段か四段のあるいは昇り、あるいは下りの階段が設けられていて、他の部屋へと繋がっていた。そしてまた水平の分岐もやはり位置関係を把握することが不可能になる程無数にあり、いつの間にかもとの処に戻って来たりもするので、館の全体の印象というものは、我々が永遠性というものに対して抱く想念とさほど変わらぬ程のものとなっていたのであった。
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意味消失による意味性賦与の試み──『最後のユニコーン』における矛盾撞着と曖昧性
http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/anti/14_van.htm
 ファンタシーの定義については様々な試行が行われていますが、ブライアン・アテベリー(Brian Attebery)の『ファンタシーの戦略』(Strategies of Fantasy)においては、ファンタシー文学に対する蔑視と賞賛の両極端が見事に対比されているのを見ることができます。1992年に出版されたこの研究書は、アメリカにおけるファンタシー受容の視座の画期的な変化を証するものと言えます。

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1.
 ファンタシーとは通俗的な現実逃避の文学であり、魔法使いや龍や魔法の剣といったありふれた登場人物や仕掛けを組み合わせて、常に脆弱な善の力が鉄壁を誇る悪の力に打ち勝つという決まりきった筋立ての物語を語るものである。

2.
 ファンタシーとは文体上の遊戯性、自己反射性、社会・思想体制に対する破壊的な傾向という特性を持った洗練された語りの様式である。おそらく20世紀後半における仮構表現の中心的様式であろうファンタシーは記号論・意味の不確定性という観念に密接な関わりを持つと同時に、民話・ロマンス・神話等の非模倣的な伝統的表現様式の活力と開放性を奪還するものである。
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しかしこの時点でまだ見落とされていたのが、ビーグルの『最後のユニコーン』に顕著なような“アンチ・ファンタシー”的性向であったように思われるのです。

ファンタシーの変容とアイロニー
http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/anti/1_henyo.htm
 ビーグルの『最後のユニコーン』の以下のような箇所については、同時代のUrsula le Guin や先達の幻想文学の書き手達との共通項として、確かに指摘し得る思想的特質があります。

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シュメンドリックは進みでて、いくつかの言葉を唱えた。彼の口にした呪文は、ほんの短い言葉で、ことさら滑らかな訳でもなく、あるいは強張った音色のものでもなかった。それにシュメンドリックには牡牛の轟くばかりの咆哮のため、今唱えた呪文を自分の耳で聞き取ることさえできなかった。けれども彼は、自分の唱えたその呪文が、何を意味しているかがはっきりと分かった。どんな風にこの呪文を唱えるべきなのかも正確にしっかりと把握できた。次に必要な時には同じやり方であろうが、異なったやり方を選ぼうが、いずれにせよ間違えることなく、確実に唱えることができることが分かった。今彼はこの呪文を優しく、喜びに満ちて唱えた。そしてそうしながら、彼は自分にかかっていた不死の呪いが解けて、鎧か帷子のように体から摺り落ちていくのを感じた。
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 この物語の要求するシステム理論に従えば、魔法に対する真の理解とは、単なる暗記によって得られる特定の事象の帰結のみに関する一意的把握ではなく、全方位的時間軸と網羅的な可能態相互の関係性における根幹的かつ総括的な全体性に敷延する、より深層への全人格的展開のようなものでなければならないのだろう。主客の関係も、原因と結果を分別する時間軸の方向性も、全ての存在と事象を連結する慣性力の位相的関連性自身を云々することが意味を成さなくなるような、常に無限遠の焦点に照準を散開した全体性と総合性の視点から、魔法のメカニズムの根本属性が語られようとしている訳なのである。
 魔法の原理の究極の宇宙論的意義を主張するこの感覚は、『最後のユニコーン』と並んで70年代以降のアメリカのファンタシー文学を先導することになった、Ursula K. le Guinの『影との戦い』(A Wizard of Earthsea)において、魔法使いの道を目指す主人公が魔法の学院の中庭で魔法使いの長老と出会った際に得られた、宇宙との霊妙な合一感を示したものであろうと思われる次のような興味深いパッセージで語られていた場面と見事に重なるものであろう。

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彼等が視線を交わした時、木の枝の上で一羽の鳥がさえずった。その瞬間ゲドは鳥の歌声を理解した。噴水の水盤の上に注いで落ちる水音の立てる言葉も、雲の形に示された意味も、木の葉をかき動かす風の始まりと終わりの全てを理解したのである。彼には自分自身が陽の光によって語られた一つの言葉であるような気がした。
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ここに描かれている極めて印象的な全宇宙との恩寵的な合一感覚は、グインとビーグルの両者のファンタシーという独特の思想面における先達的人物であると見做し得る、19世紀イギリスのファンタシー文学の草分け的存在であったジョージ・マクドナルドの書いた、「妖精の好きなお酒」(“Carasoyn”)の以下のパッセージに負うところが大きいと思われる。肉体的、精神的に充実した一つの使命を見事に果たして、宗教的法悦と等質の実存的満足感を得た主人公の内面が物語られた、殊に印象的な箇所である。

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この三日間は彼が経験したうちでもっとも幸せな時だった。何故なら彼は自分のしたことの全てを理解し、自分の周囲で起こっていることの全てを理解したからである。彼は灯芯草がどのようなものであり、その花がなぜ茎の側面から生え出ているのか、その花がなぜえんじ色をしているのか、その茎の芯がなぜ白い色をしており、皮がなぜ緑色をしているのか、全ての理由を理解することができたのだ。そして彼は言った。「もしも僕が今灯芯草になったなら、やっぱりこんな風に生えていたいと思うだろう。」そしてまた彼は、ヒースがその冷たい根っこで何を感じているか、その紫色の花の頭で何を思っているかが理解できた。そしていかにも賢明そうな姿をした、あの老婆が「私の羊」と呼んでその白いひげで糸を紡いでいた綿草のことも全て理解したのだった。
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これらに対応すべきビーグル自身の提示する宇宙システム理論と意識の主体とのの合一感覚は、魔法使いシュメンドリックの言葉を借りて、以下のような宣言として現れることとなる。

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「何故なら、魔法使いにとってのみ、世界は常に流動的であり、限りなく変化に富み、いつまでも新しいものであり得るからです。魔法使いのみが変化の裏側にある秘密を弁えており、魔法使いのみがあらゆる事物が何か別のものに変質しようと期待を込めて待ち構えていることを正しく理解しているからです。魔法使いがその力を引き出すのは、正しくこの宇宙全体の秘める緊張からなのです。魔法使いにとっては三月は五月であり、雪の色は緑であり、草の色は灰色なのです。これは他のあれでもあり、あるいは誰かが口にする何であってもよいのです。
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意味消失による意味性賦与の試み──『最後のユニコーン』における矛盾撞着と曖昧性
http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/anti/14_van.htm

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