ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「命のパン、なくてはならないもの」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「命のパン、なくてはならぬもの」

*ヨハネによる福音書 6:36−59

しかしあなたがたに言った。あなたがたは私を見てきたのに信じようとしない。父が私に与える者は皆、私のところへ来ることになり、私のところへ来る人を、私が外へ追い出すようなことは決してない。私が天から降って今ここにいるのは、自分の意志(おもい)を行なうためではなく、私を派遣した方の意志を行なうためだからである。父が私に与えて下さっているものを皆、その中から私が失うことなく、終りの日に甦らせること、これが私を派遣した方の意志(おもい)である。つまり子を看て彼を信じる人が皆、永遠の命を持ち、私が彼を終わりの日に甦らせること、これが私の父の意志なのである」。
41 すると、ユダヤ人たちは、彼が「私が天から降って来たパンだ」といったので、彼のことでささやき始めた。そして言い始めた、「この男はヨセフの息子イエスではないのか。俺たちにはその父親も母親もわかっているではないか。どうして今さら『私は天から降って来ている』などというのか」。
43 イエスは答えて、彼らに言った、「互いにささやくのはやめなさい。私を派遣した父が引き寄せるのでなければ、だれも私のところに来ることはできない。そして私は彼を終わりの日に甦らせることになる。預言者たちの書に、彼らは皆、神に教えられた者になるだろう(イザヤ54:13)と書かれている。父から聞いて学んだ人は皆、私のところに来る。誰か父を見てきた人がいるのではない、父のもとから来た者を除いては。この者こそが父を見てきたのである。
47 アーメン、アーメン、あなたがたに言う、信じる人は永遠の命を持っている。私は命のパンである。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べた。そして死んだ。 (cf.民数記14:26〜35) これは、天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に生きることとなる。
 私が将来与えることになるパンは、世の命のための私の肉である」。
 するとユダヤ人たちは互いに激しく議論し始めた、「この男はいったいどうやって自分の肉をわれわれに食べさせることが出来るのか」と言って。
 そこでイエスは彼らに言った、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、あなたがたは自分のうちに命を持っていない。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は永遠の命を持っており、私は彼を終わりの日に甦らせることになっている。私の肉は真実の食べ物であり、私の血は、真実の飲み物だからである。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は、私のうちに留まり、私も彼のうちに留まっている。生きている父が私を遣わし、私が父のゆえに生きているように、私を食らっている人も私のゆえに生きることとなる。これは天から降ったパンである。父祖たちが食べて死んだようにではなく、このパンを食らっている人は永遠に生きることとなる」。
  これらのことをイエスはカファルナウムで教えていた時、会堂で言ったのであった。
         新約聖書翻訳委員会訳  
§「私はマララ」

  先週の礼拝の後、お茶の時間の時に、膝の手術を待つ塚本さんが教会を訪問され、とてもあたたかい時を共に過ごすことができました。塚本さんから、痛みが取り去られ、安心して歩き回る自由が与えられる日が来ることを祈ります。
  昨日で、今野さんの告別式から一週間が経ちました。告別式を通じて、今野さんの二人の息子さんたちと再会できたことは、とても嬉しいことでした。その事と共に、様々な今野さんの思い出と共にあった一週間を過ごしました。
  日本では、戦後の復興の時代に、新しい思想の波が押し寄せてくるときに、敗戦という挫折と絶望の中で人々が心を開き、イエスの福音を受け入れた人たちが多くありました。そして、今のこの時代にも、高い理想と、愛と、平和の福音にであって生きる人たちが集い、共に生きていくことができるということは、とても大切だと思います。
  パキスタンで、タリバン(イスラム原理主義のグループ)の人たちが、女性に教育を与えることに反対して、女性に教育を与える学校を破壊し、学校に通う女子生徒を脅して、教育を受けられないようにしようとしています。女子生徒たちは、おびえながら、秘密の学校に通うのだそうです。その中で、女性が教育を受ける権利を主張する15才の中学生、マララ・ユスフザイさんとお父さんとが、女性たちも教育を受けることが大切であること、それをあきらめてはいけないことを主張し続けて、人々に勇気を与えていました。しかし、マララさんはタリバンに銃撃され、瀕死の重傷を負い、大変心配されていましたが、意識が戻り、まだ危険な状態を脱してはいないものの、少しずつ回復にむかっているというニュースがありました。
  ホッとしましたが、まだまだ、マララさんをはじめ、パキスタンの女性たちの闘いは続いています。タリバン(神学生)という、大変真面目で、しかし偏狭な宗教観を持つ人々が、暴力によって自分たちの主張を通そうとしていることは、大変悲しいことです。そして、この問題は、アフガニスタンでも続いていますし、混乱を極めているシリアでも心配されています。この人たちが持つ「正義」を暴力で押し通そうとすること自体が、間違っているのだと、タリバンの人たちも気づき、悔い改めが与えられますように。そして、これらの国や地域の人たちが、安心して学び、生活できる時がはやく実現しますように。
  今、このマララさんと気持ちを一つにして、彼女の回復を祈っている人たち、彼女の希望が叶うように祈り、I am Malala.(私はマララ)と書いたカードを掲げて、マララさんと同じ希望を共有していることを表す人々の輪が世界中に広がりつつあるそうです。
  国境を越え、宗教や民族の垣根も越えて、人々が大切な理想を分かち合えるのは、とても素晴らしいことだと思います。ひとりひとりの人たち、女性も、子供も、病気の人も、弱い人たちも皆大切だということ。愛と平和とが何よりも大切だと言うこと。

§「命のパン、なくてはならぬもの」

   さて、今日のトピックの、「命のパン」は、「命の水」と共に、ヨハネによる福音書に度々でてくる表現です。実際の食べ物が大切であるのと同じように、あるいはそれ以上に、今話していたような愛と平和の福音を持って生きることが大切だ、ということを主張しているのです。
  今日読んだ箇所の前の部分を読んでみましょう。

*ヨハネによる福音書 6章32−35
すると、イエスは彼らに言った、 「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。モーセがあなたがたに天からパンを与えたのではない。私の父があなたがたに天から本物のパンを与えつつある。神のパンは天から降って、世に命を与えつつあるのだからである」。そこで、彼に向かって「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい」と言った。イエスが彼らに言った、「私がその命のパンである。私のところに来る人は、決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない。

  とても力強いですね。しかし、聞いている人たちは、きちんとは理解していないようです。比喩的な表現を、そのまま受け取るという誤解をしています。この後のヨハネによる福音書の記述は、ヨハネの教会の人たちが、イエスについて語っていること、信仰告白を、イエス自身の口から語らせています。

*ヨハネによる福音書 6:36−40
しかしあなたがたに言った。あなたがたは私を見てきたのに信じようとしない。父が私に与える者は皆、私のところへ来ることになり、私のところへ来る人を、私が外へ追い出すようなことは決してない。私が天から降って今ここにいるのは、自分の意志(おもい)を行なうためではなく、私を派遣した方の意志を行なうためだからである。父が私に与えて下さっているものを皆、その中から私が失うことなく、終りの日に甦らせること、これが私を派遣した方の意志(おもい)である。つまり子を看て彼を信じる人が皆、永遠の命を持ち、私が彼を終わりの日に甦らせること、これが私の父の意志なのである」。
  
   女性も男性も、異邦人や他の宗教の人たちも、また貧しくても、皆、大切な神の子であり、私たち皆に、「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」、という生き方を、理解し受け入れられる人の数は多くはなかったことが、この続きの箇所にも表れています。
  男女の平等にしても、すべての人が平等だ、という考えにしても、当時の常識、また宗教の戒律もはるかに越えた考えです。

*ヨハネ6:41ー  すると、ユダヤ人たちは、彼が「私が天から降って来たパンだ」といったので、彼のことでささやき始めた。そして言い始めた、「この男はヨセフの息子イエスではないのか。俺たちにはその父親も母親もわかっているではないか。どうして今さら『私は天から降って来ている』などというのか」。

  これを読むと、マルコによる福音書6章を思い起こしますね。イエスのしたこと、また語ったことに驚きつつ、「でも待てよ、アイツ、俺たちと同じガリラヤの田舎の貧乏人じゃないか、あんなやつになにができるというのか」。

*マルコによる福音書6章1〜6節より
「このようないろいろなことがどこからこいつにやって来たのか。それに、こいつに与えられた知恵はいったい何だ。また、その手でなされた、これほどのさまざまな力ある業はいったい何だ。こいつは大工職人ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で俺たちのもとにいるではないか」。こうして彼らは、彼に躓いた(注:信じない)ままであった。
そこでイエスは彼らに言った、「預言者は、自分の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のところでは、尊ばれないことはない」。そしてそこでは何の力ある業もすることができなかった。ただし、少数の病んだ者たちに手を置いて癒すことはした。また彼は、彼らの不信仰のために驚き通しだった。そこでまわりの村々をめぐり歩いて教え続けた。

  他にも、ヘレニズム(ギリシャ)文化に、これに似た諺が多くあるそうで、「哲学者の生活は故郷では困難である」、というのもその一つです。マルコによる福音書のこの箇所では、イエスは「何の力ある業をも」行うことができなかったと書かれています。それは、心が一つにならないためです。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マルコ7:7)ですが、求めない者に、与えることは困難です。
  そして、ヨハネによる福音書で繰り返し表現される人々の無理解は、ヨハネの教会の宣教の過程で、福音が思うように伝わらない、人々に広がっていかないという想いがあらわれています。
  また、「私が将来与えることになるパンは、世の命のための私の肉である」、という言葉に対して、人々が、『この男はいったいどうやって自分の肉をわれわれに食べさせることが出来るのか』 という疑問を投げかけているのは、 イエスの生き方、福音を受け入れて生きる、ということを聖餐式という儀式で表現するようになったクリスチャンたちに対して、 当時のローマの社会の人たちが     人の肉を食べる野蛮なわけのわからない人々という偏見を持ったという歴史があらわれています。
   しかし、これについての回答は、先ほどお話しした通りのことを、やはり比喩的な表現で語られます。           

*ヨハネによる福音書6:53−58
 そこでイエスは彼らに言った、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、あなたがたは自分のうちに命を持っていない。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は永遠の命を持っており、私は彼を終わりの日に甦らせることになっている。私の肉は真実の食べ物であり、私の血は、真実の飲み物だからである。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は、私のうちに留まり、私も彼のうちに留まっている。生きている父が私を遣わし、私が父のゆえに生きているように、私を食らっている人も私のゆえに生きることとなる。これは天から降ったパンである。父祖たちが食べて死んだようにではなく、このパンを食らっている人は永遠に生きることとなる」。

  しかし、これを主イエスの信仰を受け継ぐことを言った比喩的表現ではなく、聖餐の儀式に与ることを言っているのだ、と解釈したらどうでしょうか。すると、護教的(宗教的な教義を護るための)な解釈になりますね。クロッサンがパウロの手紙を解釈してこう言っています。「行いのない信仰は存在できないが、信仰のない行いはあってはならない、とパウロは信じている。実際『行い』は、信仰に基づかない宗教的な行いを指してパウロが使う言葉である」(JDクロッサン)
  「私の肉を食べ、私の血を飲んでいる人」は、主イエスの伝えた福音を受け継ぎ、その通りに生きている人」、と解釈し、そのように生きたいと願います。

 2012年 10月21日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング