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日本キリスト会川崎教会コミュの「誰でも、渇いている人は」

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「誰でも、渇いている人は」

*ヨハネによる福音書 7:37−52

祭りの盛大な最終日に、イエスは立ったまま叫んだ。次のように言って、「誰か渇いている人があれば、私のところに来ていつでも飲むがよい。私を信じる人は、聖書が言った通り、その人の内部から活ける水の川が(何本も)流れ出ることになる。これは彼を信じる人が受けようとしていた霊について言ったのである。つまりイエスがまだ栄光を受けていなかったので、霊はまだなかったのである。
40 群衆の中には、これらのことばを聞いて、「この人は本当にあの預言者だ」という人々があった。他の人々は「この人はキリストだ」と言っていた。だが、次のように言う人々もあった。「いくらなんでもキリストがガリラヤから来るようなことがあるだろうか。聖書が、キリストはダビデの子孫のうちから、ダビデがいた村ベトレヘムから来ることになっていると言ったではないか」。そこで、彼のゆえに群衆の間に分裂が生じた。
  彼らの中のある人々は彼を逮捕したいと思ったが、手をかける者は誰もいなかった。
45 そこで、下役たちは祭司長たちとファリサイ派の人々のところに戻って来た。この祭司長たち、ファリサイ派の人々が彼らに言った、「どうして彼を引いてこなかったのだ」。下役たちは答えた、「いまだかつてあのように語る人はありませんでした」。するとファリサイ派の人々が彼らに答えた、「まさか御前たちまでたぶらかされているのではあるまい。指導者たちの中で、あるいはファリサイ派の人々の中で、彼を信じた人などまさかいるまい。それにしても、律法を知らないこの群衆は呪われた奴らだ」。ニコデモが彼らに向かって言う。この人は、以前に彼のところに来たことがあり、指導者たちの一人であった。「われわれの律法は、まず先に本人から聴取してその人が何をしているのか知った上でなければ、人をさばくことはしないのではないだろうか」。彼らは答えて、彼に言った、「あなたもガリラヤの出か。調べてみよ。ガリラヤからは預言者が出て来ることがないのを見るはずだ」。
新約聖書翻訳委員会訳

§「私が葡萄の木であり、あなたがたは枝である」

  来週から、待降節(アドベント)に入ります。クリスマスが5週間後に近づきました。毎年、この時期に、神さまから主イエスがこの世に与えられた意味を、共に考えつつ迎えることが出来るというのは、幸せなことだと思います。また、純粋な喜びの思いで迎える子供たち、 また子供の心を持った人々と喜びを分かち合うことができることも嬉しいことです。

* ヨハネによる福音書15:5
  私が葡萄の木であり、あなたがたは枝である。人が私のうちに留まっていて、私も彼のうちに留まっているなら、この人は多くの実を結ぶ。

  小さいときに、子供のさんびかで、「主イエスはまことのぶどうの木、つながる私は小枝です〜」と大きな声で歌ったことを思い出します。
  私たち一人ひとり、それぞれ主に出会い、信仰の道を進んでいます。主イエスという木に同じようにつながりながら、誰一人として同じ者はいないのです。そして、主イエスと、どのように出会ったかも、どのように信仰の道を歩んでいくかも、それぞれ違いますが、それぞれに意味が与えられていることを思います。
  
   しかし、神や主イエスにつながる、ということは、お守りをもったり、お祓いをしてもらったりするのとはまったく違う経験です。人々は、本当に大切なことを知り、そのために生きるより、より簡単な満足を得ようとします。安心を簡単に買うことができたら、...。しかし、これは、本当にするべきことの代わりに、いくらかのお金を払うこと、代わりの行動をすることで満足を得ようとしているのです。
  神さまと共に歩くことは、謙虚に生きることです。何が大切か、何が正しいことか、それを神に問いかけながら人生の道を歩むことです。そして、大切なことは、あらゆることが愛からはじまること、愛で人々の接すること、それにより、社会をも変えていこう、よくしていこうという心が生まれてきます。
  他方で私たちの身のまわりの社会は、なかなか理想的にはいきません。これほどまでに東日本大震災とその後の原発事故によって、原子力発電所の危険が明らかになっても、原子力を廃止しようという声は、なかなか政権を担う人々には届きません。また、平和を望んでも、政治的な指導者の多くは、勇ましい姿を求めます。そして、隣国との間に問題が生じたときに、強硬的な態度で臨むような人たちに人気が集まります。
  しかし、本当に強いのは、格好やパフォーマンスではなく、お互いが合意できることは何かを探り、紛争の解決を導くことができるということ、その知恵と忍耐と、そして何よりも愛と理想とがあることなのです。

§「誰でも、渇いている人は」
 
   主イエスの主張には、大変強い愛と理想とがありました。
   人々はそれを感じ、人生が変わってしまうという経験をするのです。

*ヨハネ4:13
13 イエスが答えて、彼女に言った、「この水を飲む人は皆、再び渇くであろう。だが私が与えることになる水を飲むなら、その人は永遠に渇くことがなく、私が与えることになる水は、彼のうちで永遠の生命にほとばしり出る水の泉となることだろう」。

  この水は、神の国の福音に触れること、それによって愛と理想と情熱を得ることだと思います。
  今日の聖書箇所の一番最初の部分はとても力強いですね。

*ヨハネによる福音書 7:37−
祭りの盛大な最終日に、イエスは立ったまま叫んだ。次のように言って、「誰か渇いている人があれば、私のところに来ていつでも飲むがよい。私を信じる人は、聖書が言った通り、その人の内部から活ける水の川が(何本も)流れ出る。

   ヨハネによる福音書には、「水」についてのエピソードが多いですね。そしてこの、「誰でも渇いている人があれば、私のところに来ていつでも飲みなさい」、というのは素晴らしいですね。そういう人生を歩けたらなあ、と思います。
  そして、実際主イエスと共に歩む人生を選ぶと、そのように求められ、信頼されるようになるのだと思います。ちょうど、愛と信仰の充電ステーションのような存在ですね、会って、顔を見たら元気が出たり、前向きに生きる姿勢を得られたり。
  さて、この力強く純粋なイエスの叫びの後に続く記事は、ここのところずっと続いている、人々の無理解ですね。
  「いまだかつてあのように語る人はありませんでした」、と感動して聞く人もいる反面、社会を大きく変えてしまう非常に自由な主張を持って、すべての人々が平等で、貧しい人たち、病気の人たち、弱い人たちこそ大切なのだ、という主張が、強硬な反対派を生んでしまうのです。

・「まさか御前たちまでたぶらかされているのではあるまい。指導者たちの中で、あるいはファリサイ派の人々の中で、彼を信じた人などまさかいるまい。それにしても、律法を知らないこの群衆は呪われた奴らだ」。

 そこに、ニコデモという人が登場します。そして、人々に冷静に行動するように諭します。

・ニコデモが彼らに向かって言う。この人は、以前に彼のところに来たことがあり、指導者たちの一人であった。「われわれの律法は、まず先に本人から聴取してその人が何をしているのか知った上でなければ、人をさばくことはしないのではないだろうか」。

  自分たちが正しいといい、主イエスを認めない人々は、知らず知らずのうちに自分たちの目標のためには、実際には法律をも曲げ、策略の限りをつくしているのです。さて、このニコデモという人は、3章で、密かにイエスのところ会いに来た人です。
  そして、イエスはニコデモに掛け値なしに大切なことを語ります。

*ヨハネによる福音書 3:1−10
 ファリサイ派に属する一人の人がいた。その名はニコデモ、ユダヤ人たちの指導者であった。この人が夜、彼のもとに来て言った、「ラビ、あなたが神のもとから来られた教師であることが私たちにはわかっています。あなたのなさっているこれらの徴は、神が共におられなければ、誰一人なしえないからです」。
 イエスは答えて彼に言った、「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」。ニコデモが彼に向かって言う、「人間が年老いていながら、どのようにして生まれることができるでしょう。母の胎内にもう一度入り、生まれて来ることができるというのですか」。
  イエスは答えた、「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は、水と霊によって生まれなければ、神の王国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは上から生まれなければならない』とあなたに言ったからといって驚くことはない。風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く。しかし、それがどこから来てどこへ往くのかはわからない。霊から生まれている人は皆このようである」。ニコデモが答えて彼に言った、「どのようにしてそれが起こりうるのでしょうか」。イエスは答えて彼に言った、「あなたはイスラエルの教師ではないか。それなのにこれを知らないのか。

   「人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」は、人は神と出会って生まれ変わらなければ、という意味です。そして、その時に大変大きな力を得るのです。 ここで強調されているのは、大切なのは形式的なことじゃないよ、宗教の儀式や儀礼などでもないよ、いかに生きるかだよ、ということです。

*「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は、水と霊によって生まれなければ、神の王国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは上から生まれなければならない』とあなたに言ったからといって驚くことはない。風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く

   「風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く」、という表現も興味深いですね。当時は風には神に息であると思われていました。神を見ることはできませんが、神の働きの痕跡を私たちは感じることができるのです。そして、神の存在を感じながら生きることができるのです。


*マルコによる福音書10章13−16節

 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスがこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない。」そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。  


     2012年 11月25日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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