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日本キリスト会川崎教会コミュの「人々の欲することと本当に必要なこと」待降節

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「人々の欲することと本当に必要なこと」

*マタイによる福音書1章18ー25
イエス・キリストの誕生の次第は、次のようであった。彼の母マリヤはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、彼女は聖霊によって身重になっていることがわかった。彼女の夫ヨセフは義しい人で、また彼女を晒し者にしたくなかったので、彼女とひそかに離縁しようと思った。彼がこれらのことを悶々として思いめぐらしていると、主の御使いが夢で彼に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、お前の妻マリヤを受け入れることを恐れるな。なぜなら、彼女が孕んでいるのは、聖霊によるものだからである。彼女は男の子を産むであろう。お前はその子をイエスと名づけるであろう。なぜなら、彼こそが、彼の民をそのもろもろの罪から救うからである」。このことすべてが生じたのは、預言者を通して主によって言われたことが満たされるためである。すなわち、「見よ、乙女が身重になって男の子を産むであろう、そして人々はその名を『インマヌエル』と呼ぶであろう」。この名は訳すれば、「神、我らと共に」という意味である。そこでヨセフは眠りから起きて、主の御使いが彼に言い渡したようにし、その妻を受け入れた。そして彼女が男の子を産むまでは、彼女を知ることはなかった。そしてその子を「イエス」と名づけた。
                                         新約聖書翻訳委員会訳

§「事故や失敗から学ぶこと」

  先週から、すっかり冬らしくなり、昨日などは木枯らしが吹き荒れていました。子供たちと教会の庭の落ち葉を掃き、すっかりきれいになったところで突風が吹き、雨のように紅葉が降り注ぎました。元の木阿弥、という程ではないものの、それに近い感じでしたが、あまりの風の勢いに、みんなで笑ってしまいました。
  落ち葉掃きなどという単純な作業でも、自然相手ですから、私たちの思い通りにはいかないことも多いし、必ずしも注いだだけの努力が報われないこともあります。その中でできるだけのことをしっかりして、できたことを素直に喜ぶことができる、ということは、長い時間をかけて継続的に努力をしていく姿勢の基礎のなりますね。また、葉っぱの集め方にしても、箒(ほうき)や熊手の使い方にしても、工夫しながら様々なコツを習得していくのは楽しいものです。
  原子力発電所の事故のことを考えても、また先日の笹子トンネルの事故についても、建築家が規則通りに強度計算をして、その時に信頼できると思った技術で作っても、思いがけないこと事故が起きることもあるのだ、という認識は、とても大切なことだと思います。過信しないこと、謙虚であることは、主イエスが私たちに神が共にいる、と教えてくれた生き方の基礎であると思います。
   今年、天に召された今野さんが、昨年の原発事故の後に、73年頃、福島第2原発の建設にたずさわった経験を話してくれました。「東電の仕事は大変」、そしてその理由が、注文された製品を作ることに付随する書類が膨大にあること、チェックが非常に細かいこと、そして不備があるとすぐ責任を取らされて、その会社は工事から外されてしまうことなのだそうです。失敗は成功のもとですから、何か問題があったら、直していく、正していく、そして共に働く人や会社を育てていく、そしてそのことで自分たちも育てられる、というのでなければ、仕事はうまく行きません。
  今、様々な職場で働きにくい、という意見が出る背景には、これと同じような問題があります。失敗したら、それを叩いてその担当者を外すのではなく、再発しないように寄り添って協力するほうが、ずっと建設的です。
  そして、今野さんが実際に第2原発の現場に行ったときの驚きは、工事のあまりのずさんさであったそうです。東電の担当者は技術的な知識は何も持たず、ただ、どの会社を使うかを選定する強い権限を持っているので、工事から外されることを心配する下請け会社が、失敗したことなどを東電側に連絡しないのだそうです。
   権力を持つ立場の人が、部下などに何か過ちや問題点があったら、その責任を追及して糾弾(きゅうだん)し責任を取らせるのではなく、共に歩んで問題解決に努めることでお互いの経験やノウハウを蓄積し合うことができます。
   これは、40年近く前のことですが、平成の時代になって、多くの場所で働きにくい、という感想がでる背景には、これと似たようなことがたくさんあります。何か問題があったら、トカゲの尻尾切りように誰かに責任を負わせて、それで終わらせるのではなく、みんなで協力してきちんと問題を解決する、というのがいいですね。
  「あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」、ということの実践は、こういうことでも、私たちの行動の指針になりますね。

§「人々の欲することと本当に必要なこと」

   新約聖書の中での、大きなキーワードは、メシア(キリスト、救い主)です。そして、大きなメッセージはイエスがメシアである、ということです。
   しかし、人々が求めているメシア像と、イエスのメシア像とは、全く違うのです。そこで、人々の心が揺れ、疑ったり、離反したりという様々なできごとが聖書の中で報告されています。
  人々が求めていたメシアは、政治的、経済的、軍事的に強力なリーダーです。この人に任せたら、社会の問題や外交の問題、軍事の問題が一気に解決する、というスーパーマンのような存在です。派手なパフォーマンスで人々を魅了し、長年侵略を続け、自分たちの国に駐留し、まるで主人かのように振る舞うローマ軍やローマ人を追い出し、彼らの支配を終わらせて、再び自分たちの独立国としてのイスラエル(ユダヤ)国を復興し、人々に豊かな暮らしをもたらしてくれる存在です。
  これは、現在の人たちが、選挙の時に、政権政党や国会議員、総理大臣に期待しているものと変わりませんね。また、彼らが公約として言う内容も、あまり変わらないように思います。
  しかし、これには大きな問題があるのです。解決は、メシア(救い主)がすべきことで、自分たちの役割は、付いていくぐらいのことしか考えていないのです。
  そして、実際のイエスのメシアとしての姿は、病で悩む人、家族の病を心配する人に寄り添い、病を癒すのです。そして、女性とも、病気の人とも、子供とも、異邦人とも共に集い、すべての人が神の子であること、神から愛されている存在であることを教え、そういう人生を生きてみせるのです。クリスマスの物語で言われたのは、インマヌエルと呼ばれるであろう、ということでした、これは、「神、われらと共に」ということです。
  イエスは生きて、社会に渦巻く様々の問題の解決を、私たち自身が主体的に解決していく、という生き方を示したのです。リーダーや施政者に任せるのではない、時代の潮流に任せるのではない、軍事力、剣に頼るのでもない、ただ、愛と、人々が皆、等しく神の目に子として大切であることを教え、神の国という理想を見せ、神の愛を実践することで、イエスのように生き、世界を変えていくことができると信じるものたちを生みだし、その道を行くことを教えたのです。
  新約聖書のメシア、救い主の論争は、人々が欲していることと、人々が本当に必要なことは違うのだよ、ということなのです。
  こう考えると、現在の社会を理解する上にも、聖書で学んだことが応用でします。
  今度の衆議院議員選挙ひとつ取ってみても、人々は、候補者や政党に、自分たちの都合のいいことだけ耳を傾ける傾向にあることに気づきます。 脱原発、社会の本質的な改善は可能なのに、簡単に、一時的な景気回復を期待して、再びバブルを作る約束をしてくれる党や党首に好感度を持って支持率が上がったりするのです。それが、日本の国や通貨の信用を著しく傷つけるかも知れない、大変リスクの高いギャンブルのような政策であることは、見ようとしないのです。平和を求めなければならないときに、強さをアピールします。
  「剣を持つ者は、剣に滅びる」とは、軍事力や力で迫ってくる者に、軍事力や力で対抗することの愚かさを語っています。彼らには、交渉によって、平和に解決することが正しいと言うことや、戦わないで問題を解決することから生まれるお互いの利益を示すことで、解決に導くことができるはずです。

§「イエスがメシアであるということ」

  今日最初に読んだ、マタイによる福音書のクリスマス物語の根底にあるメッセージも、神が私たちと共にいてくださる、ということです。
   マタイによる福音書は、イエスの到来によって、讃美歌98番「あめにはさかえ」の英語版(HARK! THE HERALD ANGELS SING)で歌われているとおり、神と人(罪人)との間を隔てている溝を埋めて和解させ、かつての預言者の時代のように、神が常に人と共にあるようになったのだ、と主張しています。
  イエスのもたらした救いとは、神がいつも私たちと共にいてくださる、ということの実現と捉えています。このエピソードではじまったマタイによる福音書は、一番最後も、この言葉で締めくくります。しかし、そこでは、主語が「私」すなわち、神の子であるイエスになっています。

*マタイによる福音書28:20
 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。

  イザヤ書に 「まことに神はわれらと共に」(8章10節)とありますが、 マタイによる福音書1章のイエス誕生物語は、物語のかたちをもった「神の子」イエスに対する信仰の表明でした。マタイは、超自然的な生まれ方の描写によって、イエスの誕生には神の意志が働いているのだ、ということを主張しています。このエピソードにより、私たちは、イエスが私たちに与えられたことにより、「神が我らと共に」おられることを知り、与えられた福音を思いおこします。
  この誕生の物語の背景には、旧約聖書の記述があります。

*イザヤ書7章14節
 それゆえ、主自らがあなたたちに徴をお与えになる。見よ、若い女(アルマー:既婚の若い女性)が身ごもり、男の子を産み、その名をインマヌエル(「神はわれらと共に」/「まことに神はわれらと共に」イザヤ書8章8,10節)と名づけるであろう。

   「あなたはその子をイエスと名づけるのだ。なぜなら、彼こそが、彼の民をそのもろもろの罪より救うからである」とあるのは、イエスという名前のヘブライ語形「イェホーシュアー」が、「ヤハ(=ヤハウェ、即ちイスラエル の神)は救い」を意味するためです。これは、メシアのなすべきこと、人を救うことを表した名前です。 ちなみにイェホーシュアーという名前は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)では、モーセの後継者だった、ヨシュアにあたります。
   さて、パウロは、主イエスについて、 「神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった」のだと語っています。これはイエスの誕生について、新約聖書の中で最も古い記述です。ここには、超自然的な誕生の物語はありません。

*ガラテヤ人への手紙4章4〜7節
 しかし、時が満ちた時、神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。それは、律法のもとにある者たちを彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。さて、あなたがたは神の子たちであるので、神は、自らの子の霊、「アバ、父よ」と叫ぶ霊を、私たちの心の中へ送って下さった。かくして、あなたは、奴隷でなく、むしろ子なのである。そしてもしも子であるのなら、神による相続人でもある。    

  人間社会が古来からずっと抱えてきた「私たちの罪」には、古い因習や、力や暴力、権力の乱用、不平等、人々の経済的格差、性別や病気や障害、宗教による差別などがあります。これらの「私たちの罪」からの解放こそが、本当に私たちに必要なことなのです。そして、イエスは、その最も大切なことを、私たちにもたらし続けているのです。
  
*ガラテヤ人への手紙1:4  そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちを現在の悪の世から解放するためである。その神に世々限りなく栄光があるように、アーメン。
*ガラテヤ人への手紙5:1 キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない。

* ガラテヤ人への手紙5:13 実際あなたがたは自由へと召されたのだ、兄弟たちよ。ただその自由を、肉へと向かう機会のために用いず、むしろ、愛を通してあなたがたは互いに仕え合いなさい。
                                                  2012年 12月 9日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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