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日本キリスト会川崎教会コミュの「人生の転機」待降節

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「人生の転機」

*ヨハネによる福音書 7:53−8:11

 そして各々自分の家に帰って行った。
8:1  イエスは、オリーブ山へ行った。早朝、彼はまた神殿にやって来た。民は皆次第に彼のもとへ来た。彼は座って彼らに教えていた。
  律法学者たちとファリサイ派の人々が、姦通のさ中に捕らえられた女を連れてくる。そして彼女を真ん中に立たせ、彼に言う、「先生、この女は姦通している現場で捕らえられました。モーセは律法に、このような女どもは石で撃つようにと、私たちに命じました。さて、あなたは何と言われますか」。これは、彼を訴えることができるよう、彼を試みて言っていたのである。イエスはかがみ込んで、指で地面に書きつけていた。
7  彼らがしつこくたずね続けていると、彼は身を起こして彼らに言った、「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。そして、再び身をかがめて地面に書いていた。彼らには聞いて、年長者たちから始め、一人また一人と去って行った。そして、彼だけが、真ん中にいた女と共に残された。
10 イエスは身を起こして、彼女に言った、「女よ、彼らはどこにいるのか。誰もあなたを断罪しなかったのか」。彼女は言った、「主よ、誰も」。イエスは言った、「私もあなたを断罪しない。行きなさい。そしてこれからはもう過ちをやめなさい」。
新約聖書翻訳委員会訳

§「人生の転機」

  今日から待降節、アドベントがはじまりました。とても寒い朝になりましたね。アドベント・クランツという燭台に、毎週ひとつずつ火が灯って、クリスマス礼拝の時に火が四つそろいます。子供たちが幼稚園似通っていた頃に歌っていた歌を、懐かしく思い出します。

アドヴェント・クランツに
*アドヴェント・クランツに あかりがつくと/神の子イエスさまの おたんじょうがちかくなる
まことの光 イエスさまの おたんじょうは /みんなが待っています みんなが待っています

  昨日の午前中、とてもきれいな青空で、子供たちと教会の庭の落ち葉を掃いたり、柿を収穫したりして楽しんでいましたが、その後、急に風が強くなり、一気に曇って寒くなりました。落ち葉が吹雪のように舞っていました。冬の到来を感じましたね。
  寒くて、日が落ちるのが早いこの時機をクリスマスのことを思って楽しみに過ごせるのは、嬉しいことだと思います。クリスマス・トゥリーには、もみの木が使われます。常緑樹です。「もみの木」というクリスマス・ソングの英語の歌詞では、「ああ、クリスマス・トゥリーよ。あなたの枝は、なんといつも緑色なことでしょう。夏の日差しが明るい時にも緑、そして冬の雪が白い時にも緑」と歌われていますが、常緑樹は、生命の象徴でもあります。
   しかし、落葉樹も素晴らしいですね。春には新緑があり、夏の深い緑色の葉があり、秋には紅葉し、冬には落葉し、そして葉が落ちた後の枝には、もう新しい芽、冬芽を見いだすことができます。新たな生命の息吹です。
  もともと、主イエスの誕生日についての記録はありません。四世紀になって、当時の教会でクリスマスをこの時期に祝い始めたのは、冬至を過ぎて、太陽が出ている昼の時間が長くなり始める時に、太陽の復活を祝う太陽信仰のお祭りがありました。そのお祭りを転じてクリスマスにしたのですが、それほどまでに祝いたい、そして喜びを分かち合いたい想いが大きかったのでしょうね。
    イエスと出会った人々の衝撃の大きさは、聖書にでてくる人々それぞれのイエスとの出会いによくあらわれています。その中で、マルコによる福音書1章の、シモンとシモンの兄弟アンデレ(アンドレアス)との出会いも凄まじいですね。

*マルコによる福音書1:16ー20 
 そして彼は、ガリラヤの海辺を歩いていたとき、シモンとシモンの兄弟アンドレアスとが海で投げ網をしているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「さあ、私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」。そこで彼らはすぐに網を棄てて、彼に従った。
 また少し進んで行くと、彼はゼベダイの子のヤコブとその兄弟のヨハネを見た。すなわち、彼らは、舟の中で網を繕っているところだったのである。そこで彼はすぐに彼らを呼んだ。すると彼らは、その父ゼベダイを雇い人たちと共に舟の中に棄て、彼の後について去って行った。

  ここでは、どれほどの感動があって、彼らがイエスに従うことになったかははっきりわかりませんが、余程の感動がなければ、自分たちの仕事と、父親をも棄てて従っていくということはありません。世界を変えてしまうほどの革命的なメッセージ、そしてそれをそのまま体現しているイエスという人との出会いとは、どのようなものだったのでしょうか。

*ガラテヤ人への手紙3:26ー28
...あなたがたは、キリスト・イエスにある信仰をとおして、すべて神の子たちなのである。実際キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだからである。

 これは、パウロの言葉ですが、厳格なユダヤ教徒であったパウロが、イエスの福音に出会って、変えられてしまいます。安息日を守る、ということと、そのときに困っている人を助けることと、どちらが大切か。宗教の戒律を守ることと、困っている人の隣人としてその人を助けることと、どちらが喜ばしいか。戒律を守って、その他の人々よりも優れているものだ、と自分を捉えることと、戒律を守れないほど貧しい人々に彼らも神に愛されていることを伝えて、共に歩むことと、どちらが素晴らしいか。さらには、その宗教の戒律や、その宗教の社会的な成り立ち自体が、差別を生みだし、不義を生みだし、争いを生みだし、平和を乱す原因になっていたら、変えなければいけない。正さなければならない。神の想い、愛と平和を求める神の想いを第一に考え、それによってひとつひとつのことを吟味して、こうあるべき、というその理想に生きる、という、新しく、純粋で、愛と平和に満ちた生き方を、イエス自身が生きて示したのです。
  それは、自由で、素晴らしいことですが、大変困難なこと、また大変危険なことでもあります。今、イエスとまったく同じ改革を、イスラム教の社会でしても、中国の社会でしても、戦争に国民を送り出そうとするあらゆる国でしても、きっと命があぶないですね。
  一例を挙げると、イスラエルのラビン元首相は、それまでの方針を変えて、パレスチナを国として承認すること、戦いをやめることを選択して、パレスチナとの和平の道を歩み、凶弾に倒れました。以来17年間、イスラエルは間違った道を突き進みました。先週、パレスチナのハマスとイスラエルの停戦合意がなされ、国連でパレスチナが国と承認されたことは、よかったと思いますが、本当の平和への道はまだまだ続きます。
  このように、今の社会においてさえ、神の愛以外に何の束縛もない、恐れない、自由な生き方を示したのですから、パウロは、このように語っています。

*ガラテヤ人への手紙4章4〜7節
 しかし、時が満ちた時、神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。それは、律法のもとにある者たちを彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。さて、あなたがたは神の子たちであるので、神は、自らの子の霊、「アバ、父よ」と叫ぶ霊を、私たちの心の中へ送って下さった。かくして、あなたは、奴隷でなく、むしろ子なのである。そしてもしも子であるのなら、神による相続人でもある。      


§「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」

  さて、今日の箇所も、このような生き方、価値観の持ち主であることがよく表れているところです。

* 律法学者たちとファリサイ派の人々が、姦通のさ中に捕らえられた女を連れてくる。そして彼女を真ん中に立たせ、彼に言う、「先生、この女は姦通している現場で捕らえられました。モーセは律法に、このような女どもは石で撃つようにと、私たちに命じました。さて、あなたは何と言われますか」。

   これは緊迫した場面ですね。当時の律法と人々の習慣とでは、まさにこの人は石で撃たれて人々の殺されてしまうところです。ただ、それを止めさせたら、律法をないがしろにして、不道徳を罰さないとんでもないヤツ、という烙印を押されて、信用を貶(おとし)められてしまうでしょう。
  しかし、イエスは、こんなことにも動じる様子はありません。そして、このように言います。

*「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。

   すると、ひとり、ひとりとその場を去っていきます。

*「女よ、彼らはどこにいるのか。誰もあなたを断罪しなかったのか」。彼女は言った、「主よ、誰も」。イエスは言った、「私もあなたを断罪しない。行きなさい。そしてこれからはもう過ちをやめなさい」。

   イエスは、この女性に、今後間違ったことをしないように言います。生き方を改めることは、この人にとって必要なことに違いありません。そして、集まった人々が、「正義」の名の下に、殺人という恐ろしいことに手を染めてしまうことをも止めました。
  でも、それだけではありません。イエスの、言葉にしていない批判は、この律法や、人々のその律法の運用、社会の常識にも向けられているのです。
   ここでの問題の一つは、この事件、浮気の事件では、当事者は男の人と女の人の二人いるにもかかわらず、断罪されているのは女性です。また、当時のように社会的に女性の立場が弱ければ、この浮気を主導しているのは男性の方に違いないのです。
  しかし、その責任は女性にだけ取らせる、ということ、男性はその責任を追及すらされていないこと、その男女差別を浮き彫りにしているのです。
  また、人は、律法などで正しいという理由付け、正当であることの裏付けをされると、断罪される側の人に対する同情心が薄れたり、なくなってしまうこともあります。非常に愚かなことに思えますが、これが戦争の時に、敵に対して残虐になる兵士がでる理由でもあるのです。イエスは、そのような人々の弱さ、そして社会の未熟、人間社会のあり方にも、再び考え直すこと、再考を求めているのだと思います。

*「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。

  この言葉を聞いて、一人ずつ去っていった、ここに集まっていた人々も、イエスの言葉によって、自らの心に問いかけ、反省をしたのだとしたら、この人たちもなかなか根はいい人たちですね。制度や習慣、宗教的な教義にも間違っていることはあるかもしれない、もし間違っていることを見つけたら、正さなければ、と思う人が、そこからまた生まれていったかも知れませんね。
  現代の社会でも、自分たちの凝り固まった狭い世界の偏見の中に暮らし、それからはずれる者、はずれること、は決して認めない、というような人々が、お互いに暴力の連鎖を引き起こし、憎しみの連鎖の渦の中に自身を滅ぼそうとしています。
  最後に、自分が神さまに変えられてしまった、今までとは全然違う、ということがよく表現されている、パウロが書いたガラテヤ人への手紙、19−20をお読みします。

*ガラテヤ2章19b-20a節

私はキリストと共に十字架につけられてしまっている。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちで生きているのである。




        2012年 12月 2日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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