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日本キリスト会川崎教会コミュの「思い煩うな、というメッセージが伝えようとしている心」

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「思い煩うな、というメッセージが伝えようとしている心」

① ルカによる福音書12章22−32節
 そこで彼は弟子たちに言った、「このゆえに、私はあなたたちに言う、命のために何を食べようか、また体のために何を着ようか、と思い煩うな。なぜなら、命は食物以上のものであり、体は着物以上のものだからだ。
 烏(からす)たちをつぶさに見よ。蒔かず、刈らず、納屋もなければ、倉もない。しかし神は彼らを養って下さる。あなたたちは鳥たちよりもどれほど優れた者であろうか。あなたたちのうちの誰が、思い煩ったからといって、自分の背丈を一ペキュスほどでも伸ばせるだろうか。
 もしもこのように、最小限のこともなし得ないのならば、なぜあなたたちはほかのことで思い煩うのか。草花がどのように育つか、つぶさに見よ。労することもせず、紡ぐこともしない。しかし私はあなたたちに言う、栄華の極みのソロモンですら、これらの草花の一つほどにも装ってはいなかった。もし、今日野に生えていても明日は炉に投げ込まれる草をすら、神はこのようにまとわせて下さるのであれば、ましてあなたたちをまとわせて下さるのはなおさらのことであろう。信(頼)の薄い者らよ。
 そこであなたたちは、何を食べようとか、何を飲もうかとか、求めるな。またあくせくするな。なぜなら、これらのものはすべて、この世の異邦人たちが必死に求めるものだ。しかし、あなたたちの父は、あなたたちにはこれらが必要だということを知っておられる。かえって、彼の王国を求めよ。そうすれば、これらのものはあなたたちに付け加えられるであろう。
 もう恐れるな、小さい群れよ。あなたたちの父は、あなたたちに王国を与えることをよしとされたのだから。

②マタイによる福音書6:25−34節
 このゆえに、私はあなたたちに言う、あなたたちの命のために何を食べようか、何を飲もうか、またあなたたちの体のために何を着ようか、と思い煩うな。命は食物以上のものであり、体は着物以上のものではないか。
 空の鳥たちをよく見よ。蒔かず、刈らず、倉に納めることもしない。しかし天のあなたたちの父は彼らを養って下さる。あなたたちは彼らよりもなお優れた者ではないか。あなたたちのうちの誰が、思い煩ったからといって、自分の背丈を一ペキュスほど(約45センチ)でも伸ばせるだろうか。
 また、なぜあなたたちは着物のことで思い煩うのか。野の草花がどのように育つか、よく見つめよ。労することをせず、紡ぐこともしない。しかし私はあなたたちに言う、栄華の極みのソロモンですら、これらの草花の一つほどにも装ってはいなかった。もし、今日生えていても明日は炉に投げ込まれる野の草をすら、神はこのように着飾って下さるのであれば、ましてあなたたちをなおいっそう着飾って下さらないはずがあろうか、信の薄い者らよ。
 だから、『何を食べようか』とか、『何を飲もうか』とか、『何を身につけようか』と言って思い煩うな。なぜなら、これらのすべてのものは、異邦人たちが必死に求めるものである。というのも、天のあなたたちの父は、あなたたちにはこれらすべてが必要であることを知っておられるからである。むしろまず、神の王国と彼の義とを求めよ。そうすれば、これらすべてのものはあなたたちに付け加えられるであろう。
 だから明日のことを思い煩うな。なぜなら、明日は明日自身が思い煩ってくれる。今日は、今日一日の苦しみで、もう十分である。                                                     新約聖書翻訳委員会訳

§「変革と希望と」

  先週の日曜日の午後、子供達と大田区の野鳥公園に行きましたら、しっかりとかなり長い時間雪が降りました。濃いグレーの雪雲を見ると、ちょうど川崎の上空あたりで雪雲は切れ、青空が見えていました。すぐそばの川崎ではほとんど降りませんでしたね。
  2月になって、梅や川津桜が咲き始め、本当に私たちの思いを越えて、自然のひとつひとつが神さまに守られて生かされていることを思います。
  デモが続くエジプト情勢は、一週間で大分進展しているようです。平和と愛と希望とが人々に分かち合われ、持ち続けることができるような変革となることを願うばかりです。

§「空の烏(からす)を見よ」

  今日お読みした聖書の、「空の鳥を見よ」という箇所は、マタイによる福音書とルカによる福音書とにあります。マルコによる福音書にはありません。マタイとルカに共通した箇所は、Q資料という、マタイ・ルカの両福音書ができる前にあった、イエスの言葉集です。
 ここでは、主イエスは、私たち一人ひとりが、どんなに神さまから愛されているかを、また、私たち一人ひとりの命を、神さまが、いかに大切にされているかを、身近な自然の中にいる、空の鳥と、野の花にたとえて、語っておられます。

*マタイによる福音書6:26−27
 空の鳥たちをよく見よ。蒔かず、刈らず、倉に納めることもしない。しかし天のあなたたちの父は彼らを養って下さる。あなたたちは彼らよりもなお優れた者ではないか。あなたたちのうちの誰が、思い煩ったからといって、自分の背丈を一ペキュスほど(約45センチ)でも伸ばせるだろうか。

 ルカによる福音書との大きな違いは、ルカ12章では、鳥ではなく、烏(からす)になっています。烏の方が、具体的な鳥の名前ですね。しかも、烏は、旧約聖書の時代から、穢れた鳥とされ、食べることを禁じられていました。他に、穢れているとされた鳥は、鷹や鷲の類、フクロウの類、こうもり、アオサギ、こうのとり(レビ11:15など)。そのカラスと、あなたたち、を対比して語るというのは、かなりショッキングなことでしょう。このように、人間たちに穢れたものとされるカラスを、神さまから愛され、養ってもらっている存在として挙げているのです。主イエスは、このように、人間社会で培われる先入観から自由な方だったことが、こういうところからも窺うことができますね。
  そして、普段人々が穢れていると考えていると言うことは、当然自分たちよりもかなり下の存在として、差別していることになります。すると、次の「あなたたちは彼らよりもなお優れた者ではないか」は、強烈な皮肉として、活きますね。そのカラスたちが、神さまを信頼して、あんなにのびのび生きてるのに、カラスを蔑んでいるあなたたちの神さまへの信頼の度合いは、どうなんだ?という問いかけです。
  また、「天のあなたたちの父」は、ルカでは「神」です。マタイは、「神」という言葉を、極力避けているので、「天の/父」という表現をします。
  この27節、「自分の背丈を一ペキュスほど(約45センチ)でも伸ばせるだろうか」の部分は、おもしろいですね。逆に45センチも伸びてしまったら、驚きですよね。新共同訳では、ここは、「寿命を少しでも伸ばすことができるだろうか」となっています。原語は、そのように読むこともできるのだそうです。
  このような小さい存在である、鳥、あるいは烏さえも、神さまは生かしてくださっている。

*マタイによる福音書6:28−30
 また、なぜあなたたちは着物のことで思い煩うのか。野の草花がどのように育つか、よく見つめよ。労することをせず、紡ぐこともしない。しかし私はあなたたちに言う、栄華の極みのソロモンですら、これらの草花の一つほどにも装ってはいなかった。もし、今日生えていても明日は炉に投げ込まれる野の草をすら、神はこのように着飾って下さるのであれば、ましてあなたたちをなおいっそう着飾って下さらないはずがあろうか、信(頼)の薄い者らよ。

   「炉に投げ込まれる野の草」は、燃料として使われるという意味だそうです。おそらく、ハムシーンという、恐ろしく暑い季節風でパリパリに乾燥した野の草は、とても良く燃える燃料だったのでしょう。そのような野の草花さえ、美しく咲き誇るときには、なんと美しいことでしょうか。この花は、百合や、アネモネや、アザミなど、様々な花のことを言っていると考えられますが、「(紫)アザミとソロモン王の服を対照させたと思われる」(荒井献)という指摘があります。アザミはトゲが多く、おそらく農作業などには邪魔な草であったことでしょう。ですから、カラスとアザミなら、共に普通の人間たちからは疎まれる存在ということで、主イエスが取り上げたのではないかという主張です。そして、そのアザミの美しさを認め、ソロモン王の装いと比較し、ソロモン王もこうした草花ほどには着飾ってはいない、というのです。
  Globe Thistle(球アザミ)という、紫色で花が球状に咲くアザミは、王の服の色である、ロイヤル・パープルを思わせます。また、一方は燃料にされるような草、もう一方はダビデ王の息子であるソロモン王。それでも、神は、そのソロモンでさえ、「これらの草花の一つほどにも装ってはいなかった」、というのは、これも大変な対比ですね。さらに、「ましてあなたたちをなおいっそう着飾って下さらないはずがあろうか」とは!
  神さまの恵みの大きさを、このように表現されるとは!
 
*マタイによる福音書6:31ー34
 だから、『何を食べようか』とか、『何を飲もうか』とか、『何を身につけようか』と言って思い煩うな。(なぜなら、これらのすべてのものは、異邦人たちが必死に求めるものである。というのも、)天のあなたたちの父は、あなたたちにはこれらすべてが必要であることを知っておられるからである。むしろまず、神の王国と彼の義とを求めよ。そうすれば、これらすべてのものはあなたたちに付け加えられるであろう。
 だから明日のことを思い煩うな。なぜなら、明日は明日自身が思い煩ってくれる。今日は、今日一日の苦しみで、もう十分である。

 32節の「なぜなら、これらのすべてのものは、異邦人たちが必死に求めるものである。というのも、」については、マタイとルカとに共通するQ資料ですが、イエスご自身は、異邦人に対して、偏見や、否定的な言い方をなさらないので、(マルコ2:17など)主イエスまでは、遡らない表現だと考えられます。
  また、34節の「だから明日のことを思い煩うな。なぜなら、明日は明日自身が思い煩ってくれる。今日は、今日一日の苦しみで、もう十分である」は、マタイによる福音書だけにあって、ルカによる福音書にはありません。これも興味深い表現ですね。「明日のことを今心配してもしようがない。今日をしっかり生きなさい」、ということですが、「明日のことは、明日心配すればいい」、というのではなく、「明日は明日自身が思い煩ってくれる」、というのは、思い煩いすらも、神さまに委ねてしまうほどの信仰、信頼と思えますね。
   「神の王国と彼の義とを求めよ。そうすれば、これらすべてのものはあなたたちに付け加えられるであろう。」は、Seek Ye Firstで歌っている通りですね。ちなみに、ルカによる福音書は、「彼の王国を求めよ、そうすれば、これらのものはあなたたちに付け加えられるであろう。」となっています。
   「神の王国と彼の義とを求めよ」、あるいは、「神の王国を求めよ」ということが、いかに大切か、ということを思いますね。主イエスが教えてくださった愛、「あなたの隣人を、あなた自身として愛せよ」を実行して生きるなら、そして、神様が示された正しいことを実行して生きるなら、食べ物、飲み物、着る物など、みな与えられる、というのは力強いメッセージですね。ここで一つ大切なのは、「正しいこと」は、人間がそれぞれ勝手に思う正しいことではなく、神と共にあるものだ、ということです。
  また、主イエスは、財産を何も持たないことに、意義を見いだしておられたようです。 それは、神さまへの信頼の現れであり、神の国がどのようなものか、を説明する上でも、大変わかりやすい表現です。「あなたたちの命のために何を食べようか、何を飲もうか、またあなたたちの体のために何を着ようか、と思い煩うな。命は食物以上のものであり、体は着物以上のものではないか。 空の鳥たちをよく見よ。蒔かず、刈らず、倉に納めることもしない。しかし天のあなたたちの父は彼らを養って下さる」(マタイによる福音書6章)
   最も大きな宝は、神への信頼、神をお父さん、と呼び、共に生きることができるということです。共に生き、神の思いに生きる。それは決して、利己的な理由で利用する対象としての神ではないのです。 「私に対して、『主よ、主よ』と言う者がすべて天の王国に入るのではない。そうではなく、天におられる私の父の意思を行う者こそが天の王国に入るのである」(マタイによる福音書7:21)

*マタイによる福音書5:14−16節
 あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべての者を照らすのである。このように、あなたたちの光が人々の前で輝くようにせよ。そうすれば彼らは、あなたたちの良い行ないを見て、天におられるあなたたちの父を賞め讃えるであろう。

2011年 2月 6日  礼拝   高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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