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日本キリスト会川崎教会コミュの「あなたの敵を愛せ」マタイ5:43−48

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「あなたの敵を愛せ」 

* マタイによる福音書 5:43−48節
   『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。なぜならば父は、悪しき者たちの上にも、善き者たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである。
  (46 とういうのも、あなたたちを愛してくれる者たちを愛したとて、あなたたちは何の報いを受けるというのか。徴税人たちでも、同じことをしているではないか。また、あなたたちの兄弟たちだけに挨拶したとて、あなたたちは何の優れたことをしているというのか。異邦人たちでも同じことをしているではないか。)
48 だから、あなたたちは全き者となれ、あなたたちの天の父が全き者であるように。

§「兄弟愛=友愛」 
   この一週間は、国連での鳩山首相の演説の内容が頻繁に報道されていました。彼が掲げる「友愛」の政治、この言葉を、fraternity(兄弟愛、友愛、同胞の愛)と表現していました。これが社会に定着し、文字通りの意味で広がれば、素晴らしいと思います。
  先日、ボブ・ディランのTheme Time Radio Hourというラジオ番組の録音を聞いていましたら、彼がニーチェが友について語った言葉を、引用していました。「行って、あなたの友に近づきなさい。しかし、友にのしかかるようなことはするな。私たちは、友の中にいる敵を敬うべきなのだ。(Go up close to your friend, but do not go over to him. We should respect the enemy that is in our friend.)」(フレデリック・ニーチェ)この敵は、意見が食い違い、議論をする敵であり、また、自分の至らないところを諭したり、過ちを指摘したりする者を言っているのだと思いますが、なかなかユーモアのある、味わい深い表現ですね。
  さて、このfraternityは、言い換えれば、love between brothers and sisters(兄弟姉妹の間の愛)で、愛情や友情を表す言葉です。なぜ、兄弟愛か、といえば、見返りを求めない、変わらない深い友情、愛情を指します。新約聖書でも使われているギリシャ語で、フィリア(名詞:愛)、 フィレオー(動詞:愛する)というのが、この言葉の語源です。フィラデルフィア(今はアメリカに、そして主イエスの時代には、小アジアとヨルダンにこの地名がありました。)は、兄弟愛の町(the city of brotherly love)という意味です。 また、フィレモンへの手紙のフィレモンは、「愛情に満ちた者」、そしてキスは、フィレーマといいます。とすると、イスカリオテのユダが、主イエスを裏切って、ユダヤ教神殿勢力の祭司長らに引き渡すときの、「接吻による裏切り/引き渡し」は、大変皮肉な表現ですよね。
   余談ですが、アメリカの大学で、greek(ギリシャ人)というと、fraternityという、友愛クラブに入っている学生を指します。なぜかと言えば、どういうわけか、この友愛クラブの名前は、ギリシャ語のアルファベットを三つ並べて作ることになっているからです。(例:ΑΓΔ)
  「愛」を表すギリシャ語は、 あと二つあります。エロース(名詞:自然の愛)という、自然にわき上がる愛、親子の愛や、家族の愛、恋人の愛、芸術や学問に対する愛、そして、アガペー(名詞:神の愛)という、神の愛、無差別な、条件を持たない愛です。普通、ギリシャ語では、愛情を表すのに、先ほどのフィリアを使っていました。しかし、新約聖書のギリシャ語、コイネーでは、次第にアガペーが使われるようになったそうです。
  私見ですが、これは、主イエスが愛の定義を根本的に変えてしまわれたこと、神の愛の大きさを語り、愛する対象としての隣人を、同胞、同じ民族、そして同じ宗教を持つ者に限定せず、すべての人に広げられたことにあると思います。そして、その神の愛を言い表すには、フィリアでも足りなかったのだと思います。

§「あなたの敵を愛せ」

 主イエスの愛のメッセージの基礎は、ここにあります。

*マルコによる福音書12:29〜31
 「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主 は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを 尽くし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい。』(申命記6:4)第二の掟はこれである。『隣人を あなた自身のように愛しなさい』。この二つにまさる掟は 他にない。    

  そして、ルカによる福音書10章(25節以下)の、「良きサマリア人」で、隣人というのは、同じ家族、同じ民族、同じ宗教を持つ者、同じ共同体に住む者に限定される者では決してなく、その広がりは無限で、あらゆる人々が私たちの隣人であることを教えて下さいました。人種的な偏見や、人間社会の地位と関係なく、今、困っている人の隣人であるということはどういうことかを、教えて下さいました。

*ルカによる福音書10章30〜37節
  イエスは〔この問いを〕取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取り、彼をめった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだって来た。しかしその人を見ると、道の向こう側を通って行った、また同じように一人のレビ人も現れ、そのところへやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。
 さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の思いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を彼の傷に注いで、その傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿屋へ連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。この額以上に出費がかさんだら、私が戻ってくる時、あなたにお支払いします』。この三人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。
 すると彼は言った、「彼に憐れみの業を行った者です」。するとイエスは彼に言った、「行って、あなたもまた同じようにしなさい」。

主イエスは、当時、ユダヤ教徒から尊敬されていた祭司やレビ(下級祭司)が、このけがをした人の隣人としてふさわしいのではなく、この状況に、自分の都合や立場、また死人に触ると「穢れる」という心配なども関係なく、この人を助けた、当時ユダヤ人たちが差別し、蔑んでいたこのサマリア人こそが、この人の隣人としてふさわしい行いをしたのだ、と言ったのです。
  旧約聖書には、隣人を愛せ、ということは出てきますが、その隣人は、必ず同胞でした。他民族の人々も大切にしていましたが、彼らは「寄留者」と呼んで、ユダヤ教で、ユダヤ人となるすべての条件を受け入れ、ユダヤ人となって初めて、隣人となるのです。

* レビ記19:17〜18  
  心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうそれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。

  また、43節に、敵を憎め、という表現がありますが、これは旧約聖書にはありません。ながらく、この言葉がどのような背景を持っているのか、謎でした。しかし、20世紀の中頃、死海のほとりのクムランの遺跡から出てきた文書に、この表現が見つかりました。

・ 宗規要覧(死海文書)1:9〜11  
 すべての光の子らをおのおの神の会議に入るべきその地位に応じて愛し、すべての闇の子らをおのおの神の報復に入るべき、その罪に応じて憎むこと。 

  自分の大切な宗教を中心としたコミュニティーを守る熱心のあまり、その他の者、また敵対する者たちを憎むようなことはあったのであろうと容易に想像できます。特に一世紀中頃から後半にかけての、クリスチャンに対する弾圧や粛正などを考えると理解できるように思います。そして、現代の社会に至るまで、敵と味方とに分けて戦う、争うという感覚は世界中に広まっています。
   しかし、主イエスは言います。 「あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ」。なんと力強い言葉でしょうか。
   さて、この続きに、「そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう」とありますが、これはマタイが編集したときに挿入した言葉だと思われます。その理由は、主イエスは、もうすでに、私たちが、神の子であると、無条件で神の子であると言っておられるからです。これは、主の祈りの冒頭で、「天におれられる、私たちの父よ、あなたの名が聖なるものとされますように」( マタイによる福音書6:9)、と言っていることで、はっきりしています。また、私たちが得る救いも恵みも、私たちの行いによって勝ち取るものではなく、神によって、無条件に与えられているのことは、次の文でも、明らかです。「 なぜならば父は、悪しき者たちの上にも、善き者たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである」。   
  そして、46−47節は、異邦人や取税人に対する偏見があります。主イエスの思想には、このような偏見がまったくありません。ですから、この部分も、マタイによる挿入です。ルカでは、異邦人、取税人という言葉ではなく、「罪人」と表現しています。ルカは、異邦人や取税人、それに職業柄、また社会的な地位の低さや貧しさ、また病のために、戒律が守れない人々、これを「地の民(アムハアーレツ)」とよびますが、こうした人々を、「罪人」と呼んでいて、主イエスは、このような人たちのために来たのです。では48節はどうでしょうか。「だから、あなたたちは全き者となれ、あなたたちの天の父が全き者であるように」目標として、これも素晴らしいと思いますが、マルコによる福音書で、主イエスは、このように言っておられます。

*マルコによる福音書2章17節
  そこでイエスはこれを聞いて彼らに言う、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」

   ということを考え、マタイの5章43−48節の中で、マタイに挿入と考えられるところを括弧に入れると、主イエスまで遡ることができる言葉が浮き上がってきます。

*マタイによる福音書 5:43−48節
 『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。(そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。)なぜならば父は、悪しき者たちの上にも、善き者たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである。
 (46 とういうのも、あなたたちを愛してくれる者たちを愛したとて、あなたたちは何の報いを受けるというのか。徴税人たちでも、同じことをしているではないか。また、あなたたちの兄弟たちだけに挨拶したとて、あなたたちは何の優れたことをしているというのか。異邦人たちでも同じことをしているではないか。)
48 (だから、あなたたちは全き者となれ、あなたたちの天の父が全き者であるように。)



*ガラテヤの信徒への手紙3:26〜28 「あなたがたは 皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なの です。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キ リストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人も ギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女 もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」


2009年 9月 27日  礼拝
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

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