ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「恐れることはない」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「恐れることはない」
今野茂雄さんを記念して

*ヨハネによる福音書 6:16−35
 日暮れになると、弟子たちは海辺に降りて行った。そして舟に乗り込み、海の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。すでに闇になっていたのに、イエスはまだ彼らのところに来ていなかった。大風が吹いており、海は荒れていた。漕ぎだして二十五から三十スタディオン(約5キロ)ばかり行った時だった。イエスが海の上を歩き、舟の近くに来るのが彼らに看える。彼らは恐れた。彼が彼らに言う、「私だ。(もう)恐れることはない」。そこで彼を舟に迎え入れようとした。すると舟は往こうとしていた地にすぐに着いてしまった。
22 その翌日、海の向こう岸にいた群衆は、一艘(いっそう)のほかにはそこに小舟のないこと、またイエスがあの舟に弟子たちと一緒に乗らず、弟子たちだけがでかけたことを見た。ところが主が感謝を捧げ、彼らがパンを食べたその場所の近くに、他の小舟が数艘ティベリアから来た。群衆はイエスも弟子たちもそこにいないのを見ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込み、イエスを求めてカファルナウムに来た。そして海の対岸で彼を見つけると「ラビ、いつここに着かれたのですか」と彼に言った。
26 イエスは彼らに答えて言った、「アーメン、アーメン、あなたがたが私を求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。なくなっていく食べ物のために業をなすのはやめて、永遠の命にまで留まる食べ物のための業をなしなさい。それは、将来人の子があなたがたに与えることになるものである。その人の子は父である神が確証したからである。すると彼らは彼に向かって言った、「神の業をなしていくために、私たちは何を行なえばよいのでしょうか」。イエスが答えて、彼らに言った、「神が遣わした者を信じること、これが神の業である」。すると、彼に言った、「それでは私たちが見て、あなたの言うことを信じることができるように、あなたはどんな徴を行なってくれるのですか。どんな業をなそうというのですか。私たちの父祖は荒野でマナを食べました。天から彼らにパンを与えて食べさせたと書かれている通りです」。
32 すると、イエスは彼らに言った、 「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。モーセがあなたがたに天からパンを与えたのではない。私の父があなたがたに天から本物のパンを与えつつある。神のパンは天から降って、世に命を与えつつあるのだからである」。そこで、彼に向かって「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい」と言った。イエスが彼らに言った、「私がその命のパンである。私のところに来る人は、決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない。         新約聖書翻訳委員会訳  

§「受け継いだ愛と希望という恵みと共に生きる」

  今週の木曜日の朝に、今野さんの声で教会に電話がかかってきました。「もしもし」と言った瞬間に、「あっ、今野さん!」と言うと、電話の相手は驚いて、「どうして今野だってわかったのですか?」それは息子の正(ただし)さんでした。その前日、10月10日、 60年以上にわたり、川崎教会に通われた今野茂雄さんが静かに天に召されました。 安らかに80年の人生の最後を迎えられました。
  長い闘病生活を送る、奥様の美枝子さんの看病と介護の毎日を過ごして織られました。お会いするたびに、ご自身の脳梗塞や心臓の病気、そして眼の病気のことなどについてや、人生の終末が近いことを、よく話しておられましたが、このようにはやく、天に召されるとは、ご家族の皆さんも含め、だれも思っていなかったので、突然のお別れでした。10日、ご自宅で倒れておられるところを、正(ただし)さんが発見されたのだそうです。(診断は、静脈瘤破裂による失血死だそうです。)
  今野茂雄さんは、昭和7年、1932年2月23日に、青森で生まれ、 戦後、中学を卒業してすぐ、兄の茂さんの勤めていた川崎の福島鉄工所に勤め、私共の教会、日本基督会川崎教会と高田英語学園に通われました。そこで美枝子さんと出会い、結婚され、廣さん、正さんの二人が生まれました。
  お仕事では、職人気質で、とても勤勉に勤められたと伺っております。私が職を得た80年代、朝7時前、当時の国鉄の川崎駅に向かって歩いていますと、よく今野さんとすれ違い、人なつっこいほほえみで挨拶して下さったことを覚えております。昨年の震災の後には、70年代、福島第二原発の建設に携わった時の苦労話と、東電が持つ体質的な問題について細かく教えて下さいました。
  イエスの言葉、そして生き方を愛し、正義感に満ちていました。教会では、讃美歌の伴奏のオルガンを永年つとめられました。音楽を深く愛しておられました。また、64年に礼拝堂を建てたときには、今野さんの図面にしたがって、礼拝堂の椅子が作られました。この木製、ラワン材の椅子は大変丈夫で座りやすく、48年経った現在も使っております。また、礼拝堂の外壁にステンレス製の大きな十字架があるのですが、これも今野さんの作られた作品です。
  ここのところ、お会いできるのは二ヶ月に一度ぐらいになっておりましたが、お会いするたびに、教会に通うひとりひとりの消息を気に掛けておられました。
  ここに集う皆様にも、おひとりおひとり、今野さんとの思い出がたくさんあることでしょう。
  お人柄があらわれる思い出の数々には、 強い意志や、深い思いやり、そして奥さまの介護に心を込めて勤めた勤勉なお人柄を感じます。そしてそれは、今野茂雄さんが、生きて、私たちと時を分かち合い、時には苦労や心配をも分かち合い、家族や友人たちと寄り添う、ということ、人生を共に歩くということを、日々実践されていた生涯でした。
   人生には、苦労や悲しみ、あるいは病など、様々な悩みがあります。それにもかかわらず、私たちは愛し、希望を持って生きることが出来ます。しかし、その時に、自分一人ではない、という気持ち、支えていてくれる人がいる、という気持ちがあると、私たちはさらに力を得て生きることができます。寄り添うべき時に寄り添いながら、それぞれの人生を生きる。
  人々の思いやり、愛の背後には、神がいます。それが、私たちに与えられた恵みです。
ですから、たとえ一人でいても、愛情でつながっている人たちがいて、そのすべての支えとして、神がおられる、というのが私たちの信仰なのです。
   今野さんとも、礼拝の後によく歌った黒人霊歌、ニグロ・スピリチュアルに、「平和な思いをもって、谷を歩く」という歌があります。

We shall walk through the valley and the shadow of death
We shall walk through the valley in peace
If Jesus himself shall be a leader
We shall walk through the valley in peace
私たちは、死の影の谷を歩きます
私たちは、死の影の谷を、穏やかな心で歩きます
イエスご自身が、リーダーになって共に歩いてくださるなら、
私たちは、死の影の谷をも、穏やかな心で歩きます

 主イエスは、「私のもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこの私が、あなたたちに安らぎを与えよう」、と言われました。神さまと共に、生きるなら、たとえ、一人で立たなければならないことがあったとしても、また、一人で旅立たなければならないときも、平和な心が与えられるのです。
   ヨハネによる福音書に、「私は甦りであり、生命である。私を信じている人は、たとえ死んでも生きる。」(11:25)という言葉があります。「たとえ死んでも生きる」とは、どういう意味だろう、と感じると思います。私も、ずっとそれを考えてきました。
 私たち、一人ひとりは決して完璧な存在ではありません。それでも、神さまは私たちを愛していて下さいます。私たちには一人ひとり、与えられている賜物があります。それぞれが与えられている恵みです。その恵みを生かすよう、懸命に生き、後は神さまに委ねるしかありません。
    そして、私たち一人ひとりの人生は、私たちだけで完結しているのではないのです。受け継いだ大切なこと、福音を伝えていくこと、受けた愛を伝えていくことで、生命が受け継がれていくのです。
  主イエスは、私たちと同じ人間として、この世界に生命を与えられました。その上で、神の国とは、どのようなものであったかを、教えて下さいました。当時も、戦前の日本や今の中東の社会と同じように、男中心の社会にあり、また、特定の宗教や、その宗教の定める様々な戒律や祭儀をまもるだけの富がある人たちが、敬われていた時代に、貧しい人たちも、女性も、子供も、老いも若きも、病人も、障害を負っている人も、健康な人も、またどんな民族だって、皆等しく、神にとっては大切なのだ、と教えました。そして、「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」と言われました。言っただけでなく、そのように生きました。「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」、とまで言われました。
   しかし、この世の権力者たちは、これほど根源的で急進的な理想主義を受け容れることができませんでした。そして、主イエスは、十字架に架けられ、人間としての死を迎えます。埋葬された後、マグダラのマリヤたちが墓に向かうと、天使は言いました。「あなたがたは、なぜ、生きている方を、死人の中にたずねているのか。その方はここにはおられない。よみがえられたのだ」。
  弟子たちは、イエスの死に、最初は絶望し、力を落としますが、やがて、イエスから受け継いだ魂、愛、そして心の平和は、彼らの心の中で死んでいないことに気付くのです。
 そして、主イエスは今も、私たちの中に生き続けておられます。
 ですから、私たちの、この世の基準で、心臓が止まって、呼吸が止まって、脳の機能が止まって死を迎えたとしても、共に分かちあった愛があるなら、「たとえ死んでも生きる」のです。
   愛する者の死に際し、家族も友人も、もちろん悲しみにくれますが、しかし、そこにあるのは、悲しみに塗りつぶされた暗い情景ではありません。そこには、愛と、希望と、喜びと、心の平和があるのです。
   昨日の告別式に、今野さんの兄、茂さんと、妹の愛子さんも来ておられました。お兄さんは、お話を聞いた後、「先生はよく茂雄を理解しておられる。茂雄の勤勉さや思いやりの深さ、芯の強さは兄弟にしか分からないと思っていたのにそれをおっしゃった。このように教会で理解してくれる人たちと出会っていたのはありがたいことです」、という言葉をかけて下さいました。
  
§「恐れるな」

 さて、今日の聖書箇所は、イエスが湖の上を歩いたという、奇跡の物語です。
  主イエスが超自然的な力を発揮する「自然奇跡」は、エリヤやエリシャなどの預言者のエピソードなどをアレンジして、後の弟子達や教会の人たちが、主イエスが神に近い存在だと言うこと表すために作られていったものです。しかし、だからといって、ただの作り話だとか、嘘だとか、ねつ造だとして終わってしまっては、何も生み出しません。例えば、童話の「オズの魔法使い」を読んで、「ただの作り話ジャン」、などというのがナンセンスなのと同じことだと思います。「オズの魔法使い」といえば、このお話の中で、主人公のドロシーという女の子は故郷へ帰る方法を、わらでできている案山子は脳みそを、ブリキの木こりは心を、臆病ライオンは勇気をもらうために、オズの魔法使いに会いに行くのですが、この魔法使いはインチキな偽物だということが判明します。しかし、懸命に追い求めていた、自分が本当に欲しいと思っていたもの、故郷、脳みそ(知恵)、心、勇気、そしてこれらをすべて総合したものとしての愛も、もうすでに備えられている、与えられていることに気がつくのです。
  この1900年に書かれた物語は、39年にミュージカルになって、ジュディー・ガーランドが主演し、Over the Rainbowという名曲を生みました。また、この物語を元に、75年には、全てが黒人のキャストのミュージカルThe Wizが作られました。(後に映画化もされました。)チャールズ・スモールズという人が書いた歌詞のなかにこのような箇所がありました。

・Living here in this brand new world might be a fantasy.
But it taught me to love so it’s real, real, real to me.
  ここ、この新しい世界(オズの世界)に住んでいるって言うことは、まぼろしなのかも知れない。
でも、私に愛することを教えてくれた、だから、私には、本物、現実なの。

  これは、フィクションや想像力を使いながら、大切な人生の真理を得られると言うことと、共通していますね。逆に言えば、いかに現実の社会の問題を目にしたり耳にしたりしても、想像力を働かせて、それを自分に結びつけて、深い同情、思いやり(compassion)を感じることができなければ、それは何の意味もないのです。
  ですから、これらの奇跡物語に込められた、メッセージを読み解くということが大切なのです。弟子たちが嵐によって荒れた湖を舟で渡って苦労しているときに、主イエスはすぐそばを歩いて行かれるのです。そして、「恐れるな」、と声をかけて下さいます。まるで、私たちの人生の旅路に、今も主イエスが共に歩んでいて下さる、

 2012年 10月14日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング