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日本キリスト会川崎教会コミュの「死から生命へ、今がその時」

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「死から生命へ、今がその時」

*ヨハネによる福音書5:19ー47

 ところが、イエスは答えた。そして彼らに言い始めた、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。子は父が行なうのを目にする以外、自分からは何もできない。つまり父が行なうことであれば、子も同じように行なうのである。父は子にほれこんでおり、自分の行なうことをすべて子に見せるからである。そしてこれらのことよりもっと大いなる業を彼に見せることになる。あなたがたが驚くためである。
 父が死人たちを起こし生かすように、子も自分の望む人々を生かすからである。つまり父はだれもさばかず、一切のさばきを子に与えているのである。すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない人は彼を派遣した父を敬っていない。
 アーメン、アーメン、あなたがたに言う。死人たちが神の子の声を聞くこととなり、聞いた人々が生きるようになる、そのような時が来ようとしている。今がその時である。
 父が自らのうちに命を有するように、子にも自らのうちに命を持つようにさせたからである。そしてさばきを行なう権能を彼に与えた。人の子だからである。
 次のことに驚いてはならない。時が来ようとしている。その時になれば、墓にいる人たちが皆彼の声を聞くこととなり、善いことをした人たちは命への甦りのために、悪いことをした人たちはさばきへの甦りのために出て来ることとなる。
 私は私自身からはなにもできない。聞く通りにさばく。そして私のさばきは義しい。私が自分の意志ではなく、私を派遣した方の意志を求めているからである。
 私が私自身について証ししているなら、私の証しは真実ではない。私について証しする方がほかにおり、その方が私について証ししている、その証しが真実であると、私にはわかっている。
 あなたがたはヨハネのところに人を遣わし、彼は真理のために証しした。だが、私はその証しを人間からは受け入れない。これを言うのは、あなたがたが救われるためである。彼は燃えて輝くともし火であった。あなたがたはしばらくの間、彼の光を楽しみにしたいと思った。
 だが、この私にはヨハネのよりも大いなる証しがある。父が私に、成し遂げるようにと与えて下さっている業、私の行ないつつあるそれらの業こそが、私について、父が私を遣わしたことを証ししているからである。また私を派遣した父、この方が私について証ししてきた。その声をいまだかつてあなたがたは聞いたこともないし、その姿を見たこともない。その方のことばをあなたがたは自分のうちに留まるものとして持ってはいない。この方が遣わした者の言うことをあなたがたは信じようとしないからである。
 聖書を調べてみるがいい。あなたがたは自分がその聖書のうちに永遠の命を持っていると思い込んでいるのだから。だが、それは私について証しするものなのである。それなのに、あなたがたは命をえるために私のところへ来ようとしない。
 私は人間からの栄誉を受け入れない。しかし私は、あなたがたのうちには神への愛のないことを知った。私が自分の父の名において来ているのに、あなたがたは私を受け入れない。ほかの人が自分の名において来るなら、あなたがたは受け入れるのであろう。あなたがたは互いに栄誉を受け入れ合っていて、どうして信じることができようか。あなたがたは唯一の神からの栄光を求めないのか。
 私が父に対してあなたがたを告発するだろうと思い込むな。あなたがたを告発する人は、あなたがたが望みをかけているモーセである。というのは仮にあなたがたがモーセの言ったことを信じたとすれば、私の言うことも信じたことであろう。彼は私について書いたのだからである。彼の文字を信じなかったなら、どうして私の言葉をしんじることになるだろうか」。                       新約聖書翻訳委員会訳  
      
§「生命を得る、ということ」
秋分の日あたりから秋らしくなり、この一週間で礼拝堂をきれいに掃除することができました。いつもより一週間以上遅れていた教会の庭の彼岸花も元気に咲き始めました。季節の変化を感じられるのは嬉しいですね。
  今年、とても嬉しいことは、新しくこの教会に通う人たちが、共にずっと継続して親しく交わりを続けていることですね。共に喜びを分かち合い、共に祈りあうことができることは嬉しいことです。
  この世に生を受け、人々は皆、生活を続けますが、それぞれが与えられた人生の中で、イエスを通して、神と出会うことによって、新たな生命を得ます。
 イエス・キリストのしようとしたことは、神の国がどのようなものであるかを、この地上に、イエスの周囲に実現しようとしたことです。人々のうち、最も小さい者に愛と平和と希望を与えることであり、律法の呪縛や病気から人々を解放することでした。

*「あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛しなさい』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい』」(マルコ12:28−34)

  イエスの言う「隣人」とは誰を指すのでしょうか。当時、普通は家族や同じ宗教や民族のグループにいる人を指していましたが、イエスは違っていました。「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:30〜)のように、当時のユダヤ人たちが普段付き合うことなく、偏見を持って接する相手であるひとりのサマリア人こそが、隣人になりうることを教えてくれました。ということは、隣人となるのに垣根がないことになります。そしてさらに、「あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。 (マタイ5:43)とまで言われます。
 そして、男性社会の当時にあって、女性たちをも、まったく平等に見ておられました。

*ルカによる福音書 10:38−39
 さて、彼らが進んで行くと、彼はある村に入っていった。そこでマルタという名の、ある女が彼を迎えた。またその彼女には、マリヤムと呼ばれていた姉妹がいたが、彼女は主の足もとに座って彼の言葉をじっと聞いていた。
 
 この箇所に、マルタの妹のマリヤが「主の足もとに座って彼の言葉をじっと聞いていた」という表現がありますが、「足もとに座る」というのは、弟子となるということを指します。ですから、イエスは男だけを弟子だとは考えていなかったのです。また、イエスの教えを反映して、パウロは以下のように書いています。

*ガラテヤ人への手紙3:27−28
 「実際、キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだからである。」

 奴隷と自由人は全く別で、男女の差別は非常に大きく、異邦人かユダヤ人かも大きな問題であった社会の中で、 イエスもパウロもこうした発言をしています。大変な改革者、革命的な指導者ですね。
 しかし、パウロの手紙の中で、この考えに正反対の箇所があります。 コリント人への第一の手紙14章33bー35節です。

*コリント人への第一の手紙14章33bー35節
 聖なる者たちのすべての教会においてそうであるように、女性たちは教会においては黙りなさい。というのも、彼女たちには語ることがゆるされていないからである。むしろ律法も命じているように、彼女たちは服従しなさい。もしも彼女たちが何か学びたいと欲するなら、家で自分たちの夫にたずねなさい。女性たちにとって教会において語ることは恥ずべきことだからである。 

  これは、後世にテモテへの第一の手紙2:11ー12を改変して挿入した箇所だと思われます。当時の常識を反映し、保守化した当時の教会の教義に合わせたのです。「もしも彼女たちが何か学びたいと欲するなら、家で自分たちの夫にたずねなさい」というなら、マルタの姉妹、マリアがイエスの弟子として、教えを受けることもできないはずです。
 主イエスの神の国の福音、神の恵みは、善行を積んだり、律法を守ったりする行動から得られるものではありません。ある民族に属することでも、ある性別を持つことでもなく、健康な体を持つことでもなく、無条件に与えられているものです。

*マルコによる福音書1章14−15節
 さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来て、神の福音を宣べ伝えながら言った、「(定めの)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で(神を)信ぜよ」。

 価値観も考え方もすっかり変え、福音の中で神を信ずることが求められます。そして、他人と比較したり、競ったりするのではなく、神の王国を子供が受け取るように受け取ることを求められているのです。

*マルコによる福音書10章13〜16節
 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスはこれを見て、激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはできない」。そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。 

 ここでイエスに叱られた弟子たちは、自分たちを高く評価し、子供たちを取るに足らないものとして排除しようとしたのです。世の中の常識を見、まっすぐ子供を愛の目で見ることをわすれているのに、自分は気がついていないのです。しかし、子供たちは、母を求めるように、父を求めるように、イエスを求めました。他のことは目に入っていないのです。
 反対に、イエスが激しく批判したのは、貧しい人たちや、女性や、子供たちや、病人や、異邦人などを差別して、自分たちを清い、あるいは正しいという人たちでした。

*マルコによる福音書2章17節
 そこでイエスはこれを聞いて彼らに言う、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」

 そして、このイエスの伝えてくださった神の国の福音を得て、その福音に生きることこそが、生命を得るということなのです。 「私は世の光である。私についてくる者は闇のうちを歩むことはなく、生命の光を持つ」(ヨハネ 8:12)
  しかし、このような考えは、当時の社会の中核をなす人々や勢力にとっては、大変危険なものであったに違いありません。彼らの考える社会の秩序を覆すものだからです。
 社会の秩序は、社会階層のピラミッドによって構成されていました。一番上に、「神」である、ローマ皇帝が君臨し、その下にローマの支配層が、そしてその下にヘロデ・アンティパスなどの王など、そしてユダヤ教をローマに公認宗教にしてもらった祭司長ら、神殿勢力。主イエスは、「神殿を壊して三日後に建てる」と言いましたが、建てた人々の権力や経済力を誇示するような建物、建築に数十年の年月をかけていた神殿を、そのまま三日後に建てるといわれたのではありません。そのようなものは必要ないのです。求めるすべての者たちに、神の国はもはや開かれているのです。こうしたことが、主イエスを十字架につけた理由になっていたことは間違いありません。

§「死から生命へ、今がその時」

  さて、今日の箇所は大変長いのですが、ここで語られていることは、私たちがする行い、語る言葉の後ろに、しっかりと神がいることが大切であることが強調されています。イエスが行ったこと、言ったことが当時の人たちにとって、どんなに革命的、驚くべきことであっても、それが神の想いとともにあるので、正しいのです。
   それとは反対に、戦前の日本のように、社会の常識がいかに困ったもので、変えることができないように思える時に、その中にただあきらめて流されて生きるのでは、私たちは活き活きしていません。聖書は、このような状態を「死」と呼び、反対に、たとえ今、生物学的に死んでいる過去の人でも、私たちの心に愛と希望との灯火をともした人は、今も生きているのです。
  私たち自身も、日々の生き方を、福音に触れることで変えることができます。ため息をほほえみに変えることができます。声を掛け合い、ほほえみ合い、愛を分かち合うことができます。共に座って、語り合うことができます。共に歩むことができます。共に、嵐に立ち向かうこともできます。喜びや悲しみ、心配や経験を分かち合うこともできます。
  愛は、対立を生むものではなく、愛はお互いに成長するものです。ですから、自分や自国の利益だけを強調して強硬姿勢に出るのが「国を愛する」姿だと思うのは間違っています。「国を愛する」なら、隣国の人とも愛によって結ばれ、共に成長し、共に高め会えるようによい関係を構築することだと思います。個人も、国も、進むべき道は、同じですね。
 2012年 9月30日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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