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日本キリスト会川崎教会コミュの「父(神)は今に至るまで、働いておられる」

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「父は今に至るまで」

? ヨハネによる福音書5:9bー18
 ところが、その日、それは安息日であった。そこで、その癒された人にユダヤ人たちが言い始めた、「安息日だぞ。お前の寝床を担ぐことは、お前には許されていない」。彼らに答えた、「俺を元気にしてくれた人が言ったのさ、『あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ』ってね」。彼にたずねた、「お前に『担ぎなさい、そして歩くのだ』などといったヤツは誰だ」。癒された人は、それが誰であるのかわからなかった。その場所に群衆がおり、イエスは姿を隠してしまったからである。
  この後、イエスは神殿境内で彼を見つける。そして彼に言った、「ご覧、あなたは健やかになった。罪を犯すのはもうやめるのだ。より悪いことが身に起こらぬように」。この人は立ち去って、自分を元気にしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに告げた。安息日にこれらのことをしていた、そのためにユダヤ人たちはイエスを責めていた。
  ところが、イエスは彼らに答えた、「私の父は今にいたるまで業をなしている。私も業をなす」。それで、安息日を破っていたばかりか、自身を神と等しいものにし、神を自らの父とまで言っていた。そのことのために、ユダヤ人たちはますます彼を殺そうと狙うようになった。

?マルコによる福音書3章 1−6節
 そして彼は再び会堂に入った。するとそこに、片手の萎えてしまった一人の人がいた。そこで人々は、イエスが安息日にこの人を癒すかどうか、うかがっていた。彼を訴えるためである。すると彼は、萎えた手を持った人に言う、「起きなさい、そして真ん中へ行きなさい」。そして彼らに言う、「安息日に許されているのは善をなすことか、悪をなすことか、命を救うことか、殺すことか」。しかし、彼らは黙っていた。そこで彼は怒りをもって彼らを見まわし、彼らの心の頑なさを悲しみながらその人に言う、「手を伸ばしなさい」。そしてその人が手を伸ばすと、その手は元通りにされた。
   するとファリサイ人たちは出て行き、すぐにヘロデ党の者たちと、どのようにしてイエスを亡き者にしようかと、彼に対する協議をし始めた。
 新約聖書翻訳委員会訳

§「父は今に至るまで」

   昨日は秋分の日でした。ちょうど秋分の日から、秋風が吹き、今までより、大分過ごしやすくなりました。雨も降り始めましたね。これで、水不足の解消に向かうといいと思います。しかし、ずっと暑かったせいか、いつも秋分の日には咲いている、教会の庭の彼岸花はまだ咲きそうな兆候もありません。来週には咲いているでしょうか。
  今日まで、一階の教室で礼拝し、夏の暑い時期には使わなかった二階の礼拝堂は、きれいにして来週から使いたいと思います。
  今年は、とても嬉しいことがあります。それは、教会に新しく来られた人たちの多くが、一度や二度だけではなく、ずっとよい交わりを続けていてくれることです。
  私たちの人生の歩みは、いつも順風満帆というわけにはいきません。いろいろなことが起こりますし、自分や家族の健康の問題が生じることもあります。人間の歩みはいつも、見知らぬ世界への地図のない旅のようですが、その中で、自分の弱さを知り、助けがいることを知り、その助けを求めることをでき、共に歩む兄弟姉妹が与えられていることは、大きな恵みです。

*マルコによる福音書2章17節
そこでイエスはこれを聞いて彼らに言う、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」

  神が、そして主イエスが共に生きて下さるということは、大変大きな恵みです。また、私たちひとり一人が神と共に働く者として生かされる、ということを知ることも大きな喜びです。私たちは、強がることも、取り繕うこともする必要がなく、ありのままで主の前に立つことができるのです。

§「 父は今に至るまで、働いておられる。私も業をなす」

  さて、今日の箇所は、先週の続きです。ベトザタの池で、イエスに癒してもらった人に対して、ユダヤ人たちが、クレームをつけるのです。

* ところが、その日、それは安息日であった。そこで、その癒された人にユダヤ人たちが言い始めた、「安息日だぞ。お前の寝床を担ぐことは、お前には許されていない」。彼らに答えた、「俺を元気にしてくれた人が言ったのさ、『あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ』ってね」。彼にたずねた、「お前に『担ぎなさい、そして歩くのだ』などといったヤツは誰だ」。

  では、どうしてこのような問題が起きたのでしょうか。
   イスラエルの民は、紀元前597年から539年のバビロン捕囚を経験して、遠く、メソポタミアの地、バビロニアで奴隷としての長い期間を過ごすうちに、ユダヤ教を中心として、自分とは何か、イスラエルの民とは何かを、確立するためにミシュナーという、モーセ五書に書かれた律法を、変わりゆく時代に則して細かい決まりができ、またそのミシュナーの引用と解釈によるタルムードができ上がります。バビロニアの文化のただ中で生活する中で、自分たちの民族のアイデンティティーを守るには、かなりのエネルギーが必要であったことでしょう。そして、律法などの規則を守ることが、イスラエル民族が、イスラエル民族であることの証しになって行くうちに、本末転倒な問題が起きて来るのです。
   安息日は、人々や家畜を休ませるためにあった、神のよって与えられたはずなのに、その安息日の規定を守ること自体が大切なこととして、その規定が一人歩きをはじめるのです。そして、神と人の方を向くことをやめてしまう人々がでてくるのです。
  規定を守ることができる人々は、規定を守る経済的な余裕があったり、時間的余裕があったりする人たちでした。家畜の世話を自分でする必要がない人たちや、小作人を使っている地主のような人たちが、自分たちを選民として誇り、自分を誇ると同時に、規定を守れない人々を差別することを、なんとも感じなくなってしまうのです。 
  主イエスは、このような人たちを痛烈な皮肉で批判しています。

*マルコによる福音書3章 4節
「安息日に許されているのは善をなすことか、悪をなすことか、命を救うことか、殺すことか」

  主イエスご自身は、神をまっすぐに見据え、人を、それも小さい中の最も小さい者たちをまっすぐに見据えておらえました。ですから、律法主義というものから、かけ離れていました。安息日に、井戸に落ちた人を助けてよいか、家畜ならどうか、などという議論をすることは、主イエスには愚かなことであり、また腹立たしいものでした。

*27b「安息日は人間のためにできたのであって、人間が安息日のためにできたのではない。だから、人の子は安息日の主でもあるのだ」。

  大変力強いですね。 主イエスの言葉は短く、力強く、核心をついています。そして、律法主義の人々から見たら、律法の破戒者(破壊者!) と映ったことでしょう。
  実際、主イエスの生き方は、まさに革命的だったのです。例えば、戦前・戦中の日本で、皆さんが、男も女も平等なので、共に学び、共に寝食を共にしよう、と主張してそれを実践し、 あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい、だから、 戦争に行って殺戮をすることはいけないことだからやめなさい、と言い、徴兵に従わないのは、犯罪だと言われれば、そんなのは間違っている、と公然と主張するようなものです。
  ここで、思い浮かぶ言葉に、マタイによる福音書5章17節の「私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのである」、があります。この言葉はおそらく、私は歴史上のイエスまで遡る言葉だと思います。でも、ここでイエスが意図していることは、神の御心を行うことの他、何ものでもないので、まさに、イエスは律法と預言者たち(神の教え、と預言書)の教えを満たすために来たのです。
   しかし、マタイによる福音書にもすでに、律法主義への回帰、保守化が現れているのです。それは、歴史上の主イエスの死後、超大国、つまりローマによる支配に対する反発から、激しい民族運動の嵐が吹き荒れます。ちょうど、江戸時代の末期に、尊皇攘夷(天皇を大切にして、外国のものを排除する)の運動が猛威をふるったような感じです。この中で、迫害をおそれ、迫害されないようにするなら、保守化して社会に適合できるようにする、ということになります。
  これも、日本に置き換えて考えるなら、第二次大戦中、軍部の指令の通りに、キリスト教会も、戦争協力のために一致団結して国に仕えなければならないので、礼拝の最初に宮城遙拝(きゅうじょうようはい)といって、天皇の住む、皇居に向かって最敬礼し、戦勝祈願をするように言われている時に、神の目には、敵も味方もなく、すべてが大切な神の子なので、戦争はいけませんよ。また、天皇を偶像化して、その威光を利用し、人々を死に追いやるのはまちがっている!と、はっきり主張するようなものです。

*マタイによる福音書5章17−22節
  私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのである。
18 なぜなら、アーメン、私はあなたたちに言う、天と地が過ぎ行くまでは、
律法から一点一画も過ぎ行くことは決してなく、すべてが成るであろう。したがって、これらの最も小さい掟の一つですら破棄し、そのように人々にも教える者は、天の王国において最も小さい者と呼ばるであろう。しかし、これらの最も小さい掟を行い、そのように人々にも教える者、その者こそ天の王国においては大いなる者と呼ばれるであろう。たしかに私はあなたたちに言う、あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ人たちのそれにまさっていなければ、あなたたちは決して天の王国には入ることはないであろう。

   18節から22節までは、先ほどまでのイエス像とまったく違うイエス像ですよね。パウロも、このことを大変危惧して、私たちに自覚を促しています。

*ガラテヤ人への手紙4章4〜7節
 しかし、時が満ちた時、神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。それは、律法のもとにある者たちを彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。さて、あなたがたは神の子たちであるので、神は、自らの子の霊、「アバ、父よ」と叫ぶ霊を、私たちの心の中へ送って下さった。かくして、あなたは、奴隷でなく、むしろ子なのである。そしてもしも子であるのなら、神による相続人でもある。

*ガラテヤ人への手紙2:16
人は律法の業によっては義とされず、イエス・キリストへの信仰によってのみ義とされるということを知って、私もまたキリスト・イエスを信じたのである。 

*ガラテヤ5:1
「キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない。」

   イエスは、神が共にいてくださる、ということを身をもって、人々に教えたかたでした。「私の父は今にいたるまで業をなしている。私も業をなす」、という言葉はいいですね。神さまがよき働きをしてくれているのだから、私も働く、とは、なんとまっすぐな生き方でしょう。
  また、似た表現が、ルカによる福音書の13章にあります。「行って、あの狐(ヘロデ・アンティパス)に言うがよい、『見よ、私は今日も明日も、悪霊どもを追い出し、癒しを行い続ける。(中略)』、と。いずれにせよ、私は今日も明日も次の日も、進まなければならない」。
  洗礼者ヨハネを捕らえて殺した相手への、挑戦状ですね。何があっても、神と共に、私が進むべき道を進み、するべき業をするのだ、という心の表明です。

・イエスは私たちの罪のゆえに、あるいは私たちの罪が原因で死んだのだが、それを私たちの罪のために(引用者注:代償として)死んだのだと誤解してはならないのである。イエスの犠牲の死はイエスが私たちの身代わりとなったので救いをもたらすのではなく、私たちがイエスと同じ生き方をするから救いをもたらすのである。 
 神の根源的なあり方は、イエスにあって受肉し、文明の常識(私たちの罪あるいはこの世の罪)がイエスを処刑した。人類の進化の中で不正が生まれ、(それが)暴力によって保たれてきた。正義は暴力によって抑圧され、踏みにじられてきた。この真理に直面せよというのがイエスの処刑が与える警告なのである。その警告に耳を傾けるならば、それが救いとなるのである。  
                                                                                                              ...J.D.クロッサン

 2012年 9月23日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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