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日本キリスト会川崎教会コミュの「私についてきなさい」

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「私についてきなさい」

?ヨハネによる福音書1:43−51
 その翌日、イエスはガリラヤに出て行こうと思った。そしてフィリッポスを見つける。イエスが彼に言う、私について来なさい」。フィリッポスはベトサイダの人、つまりアンドレアスとペトロの町の出であった。フィリッポスはナタナエルを見つけて彼に言う、「モーセが律法に書き記し、また預言者たちが書き記している人を、俺たちは見つけたぞ。ナザレの人、ヨセフの子イエスだ」。ナタナエルは彼に言った、「ナザレの出で、何か善いものがありうるというのか」。フィリッポスは言う、「来て見ろ。そして見てくれ」。イエスはナタナエルが自分の方へやって来るのを見た。そして彼について言う、「見なさい。本当にイスラエル人だ。あの人には裏がない」。ナタナエルが彼に言う、「どうして私のことを知っておられるのですか」。イエスが答えて彼に言った、「フィリッポスがあなたを呼ぶ前に、あなたがあのいちじくの木の下にいるのを私は見た」。ナタナエルは彼に答えた、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。イエスは彼に答えて彼に言った、「あのいちじくの木の下であなたを見たとあなたに言ったから信じるのか。これらのことよりももっと大いなることをあなたは見ることになる」。
  そして彼に言う、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。天が開いた状態になり、人の子の上に神の御使いたちがのぼったりくだったりしているのを、あなたがたは見ることになる」。

?マルコによる福音書13章21〜23節
21 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、『見よ、ここにキリストがいるぞ』とか、『見よ、あそこだ』とか言っても、信じるな。なぜならば、偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちをも惑わせようと、徴と奇蹟とを行なうであろう。あなたがたはしかし、警戒せよ。私は、あなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。                                      新約聖書翻訳委員会訳

§「しっかりと、心を、魂を、そして生き方を次の世代に」

  珍しく6月に本州に上陸した台風も過ぎ去り、今日は穏やかな日曜日を迎えることができました。昨年の非常に暑かった6月と、今年は大違いですね。  
  思い返せば、昨年の6月は、まだ東日本大震災と原発事故の後で落ち着かない日々を過ごしていました。また、長年、教会で共に礼拝を持った鈴木みち子さんと、吉濱さんのお母様、吉濱千枝さんが天に召され、人生と人と人とのつながりについて、たくさん考えた日々でした。
  先週の礼拝後には、吉濱千枝さんの納骨式を行いました。故人を大切に思って共に集い、語り合い、そして旧交を温める皆さんに仲間入りさせていただき、とても温かい気持ちを得ました。また、吉濱さんは、告別式でのメッセージを冊子にしたものを出席者に配って下さいました。私たちの日々の業ひとつひとつを、大切に思ってくれる人たちがいること、教会に立ち寄って、喜びや安らぎを得て、また出席してくれる人たちが少しずつ与えられていることを、とても嬉しく思います。そしてもちろん、教会と共に歩き、支えている主にある兄弟姉妹がいてくれることも。
  そして、私たちが知ったこと、人生の中で得た大切なことを次の世代に伝えていくこと、神さまとのつながり、人と人とのつながり、こうしたひとつひとつもしっかり伝え、受け継いで行くことの大切さをも感じました。
  しかし、その受け継ぐというと、保守的に捉える人が多いのも事実です。そうではなく、主イエスを通して私たちが得た生き方は、喜びを持って生きること、私たちに神さまからひとりひとりに与えられた小さな光を、精一杯に輝かせることにあります。
  ですから、主イエスが、「私についてきなさい」、と言われても、これは無批判に、ただ言われるままについていくということでは決してないのです。
   かつて作家の大江健三郎氏が、彼が若者達に伝えたい言葉として挙げていた中に、「新しい人」がありました。大江氏は、それを聖書のエペソ(エフェソ)人への手紙から採ったパウロの言葉として紹介していました。偏見や従来の価値観や社会のシステムに縛られた不自由な人間たちが、解き放たれて、新しい世界を作り出していくような業に取り組んでいくような、希望に満ちた人々になって欲しい、という彼の願いには共感いたします。
  では、この「新しい人」は、エペソ人への手紙でどのように描かれているのでしょうか。

* エフェソ人への手紙2:11−16(保坂高殿訳)
 「あなたがたはかつて肉において異邦人であり...(中略)約束の根拠となる契約には無縁の外国人で、この世界で希望を持たず、無神者(注:神を持たない者)だった。
 しかし今ではキリスト・イエスにおいて、あなたがた、かつて遠くにいた人々はキリストの血によって近い者となった。事実、キリストは私たちの平和であり、(ユダヤ人と異邦人)両者を一にし、垣根の隔壁を、つまり敵意を倒壊させた方である、もろもろの戒律の総体であるであるもろもろの掟の律法を自らの肉において無効とすることによって。二人の人をご自身において一つの新しき人に造り上げて平和を創出し、両者を一つの体において十字架を通して神と和解させ、こうしてご自身において敵意を抹殺するために。」

  「和解」、「平和」、「赦し」、「様々な文化や価値観を持った人たちが共に生きる」といった、今日の大きな課題の答えが与えられているような文章ですね。「敵意を倒壊させ」、「ご自身において一つの新しき人に造り上げて平和を創出」する、というのは大変大きな思想です。文章は大分理屈っぽくなっているものの、福音書を通して私たちに語りかけてくださるイエスの姿としっかり重なります。

*「幸いだ、平和を造り出す者たち」(マタイによる福音書5:3〜)、
*「あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者たちのために祈れ」(マタイによる福音書5:43〜)。

  さて、このエフェソ人への手紙の箇所には、この「パウロの名によって書かれた」エフェソ人への手紙が、コロサイ人への手紙と同様に、パウロではなく、第二パウロと呼ばれるパウロの後継者が書いたとされる根拠のひとつである、パウロとの明らかな考え方の違いがいくつか表れています。 
  「垣根の隔壁」、「掟の律法」というように、同じ意味の言葉を二つ重ねる文体や、「掟の律法を自らの肉において無効とする」、という考え方、パウロが好んで使った表現、「兄弟達よ」、がないことなどですが、もう一つパウロは、「神」が和解の主体と考えていたのに対し、エフェソでは、「キリスト」が主体となっています(保坂高殿)。では、パウロが書いたコリント人への第二の手紙と読み比べてみましょう。

*コリント人への第二の手紙5:17−18
 「もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。見よ、新しくなってしまったのである。しかし、すべてのものは、キリストをとおして私たちをご自身に(=神)和解させ、そして私たちに和解のための奉仕を与えられた神からでている」 。

  パウロは、イエスが神の福音を伝えていたので、神が大切であることを、語っていることがよくわかりますね。イエスに従うことによって、パウロの言葉によれば、「新しくなってしまった」私たちは、この世の中の力の論理、数の論理とはかけ離れた価値観を持つことになります。
  このようにして、たとえば、戦争を理解するなら、戦争自体を非難することでしょう。歴史から学ぶ時は、スポーツを観るときにサッカーや野球の贔屓(ひいき)のチームに自分を置いて応援するのとは違うのです。ひとつひとつのできごと、そして全体の流れを、どちらの側に立つこともなく、吟味することも大切なのです。

§「私についてきなさい」

  さて、今日、最初に読んだヨハネによる福音書1章では、先週の箇所に続いて、弟子となった人たちが、イエスとの運命的な出会い、特別な出会いを興奮して喜んでいる様子がうかがえます。また。ナタナエルの発言として、「ナザレの出で、何か善いものがありうるというのか」、という言葉があります。これには、田舎の小さな村の人に対する偏見があらわれています。聖地エリサレムや、ダビデの故郷ベツレヘムなどではない、まったく無名の小さな村です。しかし、このナタナエルの考えは、ひとつのできごとで吹き飛んでしまいます。

*イエスはナタナエルが自分の方へやって来るのを見た。そして彼について言う、「見なさい。本当にイスラエル人だ。あの人には裏がない」。ナタナエルが彼に言う、「どうして私のことを知っておられるのですか」。イエスが答えて彼に言った、「フィリッポスがあなたを呼ぶ前に、あなたがあのいちじくの木の下にいるのを私は見た」。ナタナエルは彼に答えた、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。イエスは彼に答えて彼に言った、「あのいちじくの木の下であなたを見たとあなたに言ったから信じるのか。これらのことよりももっと大いなることをあなたは見ることになる」。

   ヨハネによる福音書のイエスは、このように不思議な行いで人々を驚かせて惹きつけますが、その驚くできごとで惹きつけられる惹きつけられ方には、批判的ですね。おそらく、このような書き方は、実際には、出会った人たちが、イエスの生き方、考え方、人柄に惹かれ、大好きになっていった様子を、このような文学形式で書いているのだと思います。そして、イエスの言葉自体が神から与えられているもので、イエスを通して語られる、神の言葉の働きが素晴らしいのだという主張です。
  マルコによる福音書では、徴や奇跡によって惹きつける、エンターテインメント(娯楽)や手品に近いものが生み出す、一時的熱狂に真実はないことを強調しています。

*マルコによる福音書13章21〜23節
21 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、『見よ、ここにキリストがいるぞ』とか、『見よ、あそこだ』とか言っても、信じるな。なぜならば、偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちをも惑わせようと、徴と奇蹟とを行なうであろう。あなたがたはしかし、警戒せよ。私は、あなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。

  マルコは、一時的な驚いて従うのではなく、私たちが受けつくべき生き方を受け継いだために従うのです。

*マルコによる福音書1:14〜
 さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。そして「神の福音」を宣べ伝えながら言い続けた、「(この)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。
 そして彼は、ガリラヤの海辺を歩んでいたとき、シモンとシモンの兄弟アンドレアスとが海で投げ網をしているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「さあ、私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」。そこで彼らはすぐに網を棄て、彼に従った。
 また少し進んで行くと、彼はゼベダイの子ヤコブとその兄弟のヨハネを見た。すなわち彼らは、舟の中で網を繕っているところだったのである。そこで彼はすぐに彼らを呼んだ。すると彼らは、その父ゼベダイを雇い人たちと共に舟の中に棄て、彼の後について去って行った。



            2012年 6月 24日
  高橋   誠
  日本キリスト会川崎教会牧師

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