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日本キリスト会川崎教会コミュの「世の罪を取り除く神の小羊」というイメージを読み解く

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「世の罪を取り除く神の小羊」というイメージを読み解く

*ヨハネによる福音書1:29−34

 その翌日、彼はイエスが自分の方へ来るのを目にして言う、「見よ、世の罪を取り除こうとしている神の小羊だ。『一人の人が私の後から来ようとしている。その人は私よりも先にいたから、私より優れたものとされている』と私が言ったのはこの方だ。私にも彼がわからなかった。しかし、彼がイスラエルに顕れるため、そのためにこそ、私は水で洗礼(バプテスマ)を授けに来たのである」。
 またヨハネは次のように言って証しした。「私は霊が鳩のように天から降(くだ)ってくるのをしかと観た。それは、彼の上に留まった。私にも彼がわからなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるようにと私を派遣した方、その方が私に言われた、『霊が降(くだ)ってきて、誰かの上に留まるところを、あなたが見るなら、その人こそが、聖霊で洗礼を授ける者である』。私はそれを見た。それで『この人こそ神の子だ』と証ししてきたのである」。
新約聖書翻訳委員会訳

§「誤った宗教の姿、オウム事件に見る」

   毎年3月と6月は、特別な想いで迎えます。私たちの子供たちが生まれた月です。その度に、その時の気持ちや、今までに至る日々を想い起こします。おとなにも、子供にも、常に成長し、反省し、また成長していく、柔軟な心が大切だという思いを日々新たにする十二年間だったと思います。素晴らしいこと、よいことを見いだす眼を育て、それを表現して共有し、喜びを分かち合えることこそ、教育の基本ですが、それを学んだ日々であったと思います。
  教育学者の林竹二が、「教えることは学ぶこと」だと言っていましたが、共に生きて成長することは、学ぶこと、反省しては過ちを修正して新たな一歩を踏み出すことの繰り返しであると思います。そして、学ぶことによって、よく変わっていくことに、大きな喜びがあるのだと思います。
  先週は、敗戦という経験が、日本の人々にとって、大変大切な経験であったことをお話ししました。凝り固まった考え、社会から、反省と理想とによって、全く違う価値観の社会を作り上げる機会になったのです。 東日本大震災と、その後の原発事故についても同様で、今までの生き方や、危険で技術的にも無理がある原子力発電に依存し、安全神話を作り上げてきたことは過ちであり、反省して、脱原発に向かわなければならない、ということを認識して方向転換するチャンスであるにもかかわらず、今までと同じやり方で、今、大飯原発の再稼働を政府が進めようとしているのは、本当に残念で、許せないことであると思います。
  ボブ・ディランのLove Minus Zero/No Limit(無限 分の 愛引くゼロ)というおかしな歌の中に、There’s no success like failure, and the failure’s no success at all.(失敗ほどの成功はない、また、その失敗は全く成功ではない)という言葉があって、十代の頃からずっと心の片隅に引っかかっているのですが、失敗をきっかけに、反省し、生き方を見直すことができる、と言う意味で、それほどの成功はないのだけれど、失敗そのものは、全然成功なんかではなくて、その失敗を生かし、それから、学び、新たに立ち上がらなければ、意味がないのだと思います。
  宗教について言えば、多くの場合、特に多くの人や資金を集めようとするインチキな宗教であればあるほど、自分の人生を生き、自分で選択をし、自立していく努力の替わり、代用品を提示して、それをお金で買わせようとするのです。そういうものに惹かれる人たちも、自分の代わりに決めてくれるがいたら、楽だと思うのです。生活を正し、新たな歩みをする代わりに、数万円のネックレスや壺を買いなさい、と言われて、その通りにすることで何かした気持ちになるのです。これは、問題のある英会話学校や、予備校、エステティックサロンなどに、なぜ多くの人が何十万円ものお金を最初に払ってしまったりするのか、の答えでもあります。自分の努力の代わりに、言われるままにお金を払うという違う努力(の代わり)をすることで、何かした気持ちを得られる、という心理的なトリックなのです。
  この数日間、川崎では、オウム真理教の逃走犯の一人が、川崎に潜伏していたということで大騒ぎでした。オウムも、自分で判断する、自分の人生を、しっかり生きることを、人々に止めさせ、言うことを聞き、大人しく従うように、人々を誘導していったのです。そして、従った側も、侵した犯罪は、命じられたことなので、自分の責任であるという意識が低いのです。
  これに対して、イエスの生き方、イエスの言葉は、全く逆でした。「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」、「あなたを迫害する者たちのために祈り、敵を愛しなさい」。ひとつひとつ、そのためにどう生きればよいのか、自分に問いかけ、しっかりと生きなければなりません。
  誰に言われたとしても、してはいけないことはいけない。できないことはできない。たとえ、国家からの軍隊への召集令状を受け取り、戦地へ送られても、私は人を殺すことはできない、というような生き方を選択させるような教えなのです。(渡部良三「歌集 小さな抵抗ーd殺戮を拒んだ日本兵」岩波現代文庫参照)
  主イエスがこの地上に来られた当時のユダヤ人たちは、救い主(メシア、キリスト)を求めていました。ローマの支配から、ユダヤの民を解放してくれる強いリーダー。今の時代でも、人々は相変わらず、魔法のように社会的な問題を解決してくれる強いリーダーを求めています。政治の世界でも同様ですし、また新興宗教などは、必ずと言っていいほど、このような人々が中心になって現れます。
  しかし、主イエスは、そのようなリーダーにはなりませんでした。
  そうではなく、私たちひとり一人に、生きることを、そして愛することを教えられました。その教えに触れた私たちは、主イエスと出会ったのです。私たちは、この出会いによって、新たなる力を得、それぞれが立ち上がり、今、それぞれができることを懸命に取り組みながら生きるのです。そして、その私たちの中に主イエスが生きておられるのです。
  生きなさい、行動しなさい、主イエスが共におられる。

§「世の罪を取り除く神の小羊」

  さて、今日の箇所で、バプテスマのヨハネは、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と言い表しています。このイメージは、旧約聖書のイザヤ書と、エレミヤ書という二つの預言書から引用されています。イザヤ書では、「苦難の僕」についての記述があります。苦難の僕は、救い主を指しているのだとも、苦難を乗り切るために努力するイスラエルの民を指しているのだとも言われていて、クリスチャンたちは、主イエスを指しているのだと捉えますが、それは主イエスの弟子たちの解釈です。
 
*イザヤ書53:6−7
われらは皆、羊のようにさ迷い、おのおの己(おの)が道に向かった。
ところがヤハウェは、彼(苦難の僕)に執り成しをさせた、われら皆の咎(とが)に対して。
虐(しいた)げられたが、しかし彼こそは忍び、口を開かず、屠(ほふ)り場へ引かれる小羊のように、あるいは毛を刈る者の前に黙(もだ)す雌羊のように、口を開くことをしなかった。

  確かに、今私たちが読むと、主イエスが十字架につけられるに至った姿と重なりますね。
  エレミヤ書で、エレミヤは、暗殺計画にも無防備であった自分についてこのように語っています。

*エレミヤ書11:18−20
ヤハウェが私に知らせて下さったので、私は知りました。その時あなたは、彼らのしていること(注:エレミヤ暗殺計画)を、私に見せて下さったのです。この私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい小羊のようでした。彼らが私に対して、「木と実を共に滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、彼の名が二度と思い出されないようにしよう」と陰謀を企てていることを、私は知りませんでした。しかし、義をもって裁き、諸々の思いと、心とを試される万軍のヤハウェよ。彼らにあなたが復讐されるのを、私は見ることになりましょう。まことに、あなたに向かって、私は、私の訴えを打ち明けました。

   エレミヤが、懸命に神の想いを伝え、人々を正そうとする時に、暴力でエレミヤを押さえ込もう、消し去ろうという人々に向かって、エレミヤは、武力によって立ち向かおうとはしません。「屠り場に引かれて行く、おとなしい小羊のよう」であったと、彼は言っています。彼らと同じ「力」で闘おうとはしないのです。エレミヤは、神に訴えることで、物事の解決が図れることを願いました。
  これは、イエスは、神の国の福音を思わせますね。主イエスは、神を持ち、神が共に歩んで下さることを実感し、神が直接支配する、人間社会のような暴力や差別が一切ない、天国の姿をこの地上にも実現できると人々の教えました。「神の国はすぐ、あなたの手が届くところにある」といわれ、私たち一人一人の意識改革によって、平和で平等で希望に満ちた共同体を、そして社会を作ることができるのだということを、生きて示されました。
   しかし、十字架での死後、イエスの教えを受け継いだ人々の意識に変化が生まれます。それはイエスは、神の国の福音を宣べ伝えた者であったにもかかわらず、宣べ伝えられる者に替えられてしまったのです。
  これにより、その福音が、そのメッセージが、どのようなものだったのかがぼやけて、贖罪のキリスト像(世の罪のために屠られた小羊)が強調されるのです。主イエスは、私たちの罪のために犠牲となって死んで下さったのだ、と。私たちの罪のために、身代わりとして殺されたのだ、と。だから、今、私たちは清いのだ、と。
  しかし、イエスが私たちの罪のために犠牲となって死んで下さって、今私たちがただ福音を受けているのだというのなら、私たちは何もする必要も、変わる必要もないのです。しかし、これは間違っているのです。私たちに、生き方を変えなさい、エレミヤや洗礼者ヨハネ、そしてイエスのような、正しい人、正しいことを封殺するような社会の勢力と共に歩んではならない。原発を再稼働して、既得権益を守るためなら、あらゆるウソもごまかしも行う、というような勢力に荷担してはならないのです。

・イエスは私たちの罪のゆえに、あるいは私たちの罪が原因で死んだのだが、それを私たちの罪のために(引用者注:代償として)死んだのだと誤解してはならないのである。イエスの犠牲の死はイエスが私たちの身代わりとなったので救いをもたらすのではなく、私たちがイエスと同じ生き方をするから救いをもたらすのである。 
 神の根源的なあり方は、イエスにあって受肉し、文明の常識(私たちの罪あるいはこの世の罪)がイエスを処刑した。人類の進化の中で不正が生まれ、(それが)暴力によって保たれてきた。正義は暴力によって抑圧され、踏みにじられてきた。この真理に直面せよというのがイエスの処刑が与える警告なのである。その警告に耳を傾けるならば、それが救いとなるのである。  
...J.D.クロッサン

  JDクロッサンの言うように、「イエスの犠牲の死は、イエスが私たちの身代わりとなったので救いをもたらすのではなく、私たちがイエスと同じ生き方をするから救いをもたらす」、のです。よきサマリア人の譬え(ルカ10章)のしめくくりのように、「行って、あなたもまた同じようにしなさい」、ということなのです。

*ルカによる福音書10章30〜37節
 イエスは〔この問いを〕取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取り、彼をめった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだって来た。しかしその人を見ると、道の向こう側を通って行った、また同じように一人のレビ人も現れ、そのところへやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。
 さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の思いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を彼の傷に注いで、その傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿屋へ連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。この額以上に出費がかさんだら、私が戻ってくる時、あなたにお支払いします』。この三人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。
 すると彼は言った、「彼に憐れみの業を行った者です」。するとイエスは彼に言った、「行って、あなたもまた同じようにしなさい」。
            2012年 6月 10日  高橋   誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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