毎年3月と6月は、特別な想いで迎えます。私たちの子供たちが生まれた月です。その度に、その時の気持ちや、今までに至る日々を想い起こします。おとなにも、子供にも、常に成長し、反省し、また成長していく、柔軟な心が大切だという思いを日々新たにする十二年間だったと思います。素晴らしいこと、よいことを見いだす眼を育て、それを表現して共有し、喜びを分かち合えることこそ、教育の基本ですが、それを学んだ日々であったと思います。 教育学者の林竹二が、「教えることは学ぶこと」だと言っていましたが、共に生きて成長することは、学ぶこと、反省しては過ちを修正して新たな一歩を踏み出すことの繰り返しであると思います。そして、学ぶことによって、よく変わっていくことに、大きな喜びがあるのだと思います。 先週は、敗戦という経験が、日本の人々にとって、大変大切な経験であったことをお話ししました。凝り固まった考え、社会から、反省と理想とによって、全く違う価値観の社会を作り上げる機会になったのです。 東日本大震災と、その後の原発事故についても同様で、今までの生き方や、危険で技術的にも無理がある原子力発電に依存し、安全神話を作り上げてきたことは過ちであり、反省して、脱原発に向かわなければならない、ということを認識して方向転換するチャンスであるにもかかわらず、今までと同じやり方で、今、大飯原発の再稼働を政府が進めようとしているのは、本当に残念で、許せないことであると思います。 ボブ・ディランのLove Minus Zero/No Limit(無限 分の 愛引くゼロ)というおかしな歌の中に、There’s no success like failure, and the failure’s no success at all.(失敗ほどの成功はない、また、その失敗は全く成功ではない)という言葉があって、十代の頃からずっと心の片隅に引っかかっているのですが、失敗をきっかけに、反省し、生き方を見直すことができる、と言う意味で、それほどの成功はないのだけれど、失敗そのものは、全然成功なんかではなくて、その失敗を生かし、それから、学び、新たに立ち上がらなければ、意味がないのだと思います。 宗教について言えば、多くの場合、特に多くの人や資金を集めようとするインチキな宗教であればあるほど、自分の人生を生き、自分で選択をし、自立していく努力の替わり、代用品を提示して、それをお金で買わせようとするのです。そういうものに惹かれる人たちも、自分の代わりに決めてくれるがいたら、楽だと思うのです。生活を正し、新たな歩みをする代わりに、数万円のネックレスや壺を買いなさい、と言われて、その通りにすることで何かした気持ちになるのです。これは、問題のある英会話学校や、予備校、エステティックサロンなどに、なぜ多くの人が何十万円ものお金を最初に払ってしまったりするのか、の答えでもあります。自分の努力の代わりに、言われるままにお金を払うという違う努力(の代わり)をすることで、何かした気持ちを得られる、という心理的なトリックなのです。 この数日間、川崎では、オウム真理教の逃走犯の一人が、川崎に潜伏していたということで大騒ぎでした。オウムも、自分で判断する、自分の人生を、しっかり生きることを、人々に止めさせ、言うことを聞き、大人しく従うように、人々を誘導していったのです。そして、従った側も、侵した犯罪は、命じられたことなので、自分の責任であるという意識が低いのです。 これに対して、イエスの生き方、イエスの言葉は、全く逆でした。「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」、「あなたを迫害する者たちのために祈り、敵を愛しなさい」。ひとつひとつ、そのためにどう生きればよいのか、自分に問いかけ、しっかりと生きなければなりません。 誰に言われたとしても、してはいけないことはいけない。できないことはできない。たとえ、国家からの軍隊への召集令状を受け取り、戦地へ送られても、私は人を殺すことはできない、というような生き方を選択させるような教えなのです。(渡部良三「歌集 小さな抵抗ーd殺戮を拒んだ日本兵」岩波現代文庫参照) 主イエスがこの地上に来られた当時のユダヤ人たちは、救い主(メシア、キリスト)を求めていました。ローマの支配から、ユダヤの民を解放してくれる強いリーダー。今の時代でも、人々は相変わらず、魔法のように社会的な問題を解決してくれる強いリーダーを求めています。政治の世界でも同様ですし、また新興宗教などは、必ずと言っていいほど、このような人々が中心になって現れます。 しかし、主イエスは、そのようなリーダーにはなりませんでした。 そうではなく、私たちひとり一人に、生きることを、そして愛することを教えられました。その教えに触れた私たちは、主イエスと出会ったのです。私たちは、この出会いによって、新たなる力を得、それぞれが立ち上がり、今、それぞれができることを懸命に取り組みながら生きるのです。そして、その私たちの中に主イエスが生きておられるのです。 生きなさい、行動しなさい、主イエスが共におられる。