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日本キリスト会川崎教会コミュの「『恵みと真理』とは?」

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「『恵みと真理』とは?」

*ヨハネによる福音書1:10−18

 その光であることばは世にあり、世は彼を介してきたが、世は彼を知るにいたらなかった。
  自分に属するもののところに来たが、彼に属する人々は彼を迎え入れなかった。
 だが、彼を受け入れた人々、彼の名を信じる人々には、神の子供たちとなる権能を与えた。
  彼らは血(統)からではなく、肉なる人の意思からでもなく、男の意思からでもなく、
  神から生まれたのである。
 
   ことばは肉なる人となって、われわれの間に幕屋を張った。
   ー われわれは彼の栄光を、父から遣わされたひとり子としての栄光を観た ー 
   彼は恵みと真理に満ちていた。

  ヨハネは彼について証しし、次のように言って叫んだのであった。
 「私が『自分の後から来ようとしている人は私より優れたものとされている。
  私より先にいたから』といったのは、まさにこの人のことであった」。
 なぜなら彼の充満の中から、われわれは皆、恵みに代わる恵みまでも受けたからである。
 律法はモーセを介して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを介して来たからである。
   神をいまだかつて誰も見たことがない。父の胸中にいる、ひとり子なる神、
   この方こそが解き明かした。                                                         新約聖書翻訳委員会訳

§「ペンテコステ(聖霊降臨日)」

   今日は聖霊降臨日、イースターから数えて五十日目、ペンテコステです。
   12年前、私たちには、特別なペンテコステがありました。その日の朝、ちょうど礼拝がはじまる直前に、娘の香菜が生まれたのです。この子が神さまに与えられた時に、確実に私の心の中に、ひとつの目覚め(awakening)が与えられました。親になったということ、この子を守り育てるという、大きな責任を負ったということ、そして、愛のために、その責任の重さは、大きな喜びに変えられること...それまでの、自分とはまったく変えられてしまう、という経験でした。
   使徒行伝で伝えられているペンテコステも、イエスの十字架による死と、そして復活という経験の後、弟子たちが新たに経験した目覚めだったのだと思います。

*使徒行伝2章1〜14節
  そして、五旬節の日が満ちて、皆の者が一団となって共に集まっていた。すると突然、烈風吹きすさぶがごとき音響が天から湧き起こって、彼らが座っていた家全体を満たした。また、火のごとき数々の舌が分かれて彼らに現れ、その一人一人の上にとどまった。すると、皆の者は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、異なる言葉で語り出した。
  さて、エルサレムには、天の下のあらゆる国々出身の信仰深いユダヤ人たちが住んでいたが、この音が起こったので大勢の人々が集まってきて、その一人一人が、自分の国の言葉で皆が話しているのを聞いて、あっけにとられた。そこで彼らは驚き怪しんで言った、「見よ、話しているこの人たちは皆ガリラヤ人ではないか。それなのに、私たちがそれぞれ、私たちの生まれた国の言葉で聞くとは、いったいどういうことなのか。私たちはパルティア人とメディア人とエラム人、またメソポタミア、ユダヤとカッパドキア、ポントスとアシア、フリュギアとパンフィリア、エジプトとリビア地方ーキュレネに沿うーに住む者、またここに寄留しているローマ人、ユダヤ人と改宗者、クレタ人とアラビア人なのに、あの人々が私たちの言葉で神の大いなる業を述べるのを聞くとは」。皆の者は驚き、惑って、互いに語り合った。「これはいったい、どういうことなのだろう」。しかし、他の者どもはあざ笑って言った、「彼らは新酒に酔っているのだよ」。  荒井献訳

   ペンテコステ(五旬節)は「50番目」という意味で、ユダヤ教の「過越の祭りの安息日の翌日から満七週数えたその翌日すなわち五十日目に行われる(レビ記23:15〜16)」七週祭(出エジプト記34:22)という収穫祭の呼び名だったのが、弟子達の上に聖霊が降った、という使徒行伝2章に記されている この事件を記念して、キリスト教では、教会が誕生した記念日になっています。
   この出来事が起こった場所は、最後の晩餐と同じ、ヨハネ・マルコの家の二階だと伝えられています。ヨハネ・マルコは、使徒行伝で度々「マルコと呼ばれるヨハネ」と呼ばれている人で、彼の母もマリヤと言います。(cf.使徒行伝12章12節) おそらく、主イエスがエルサレムに来られた時も、支援をしていたのだと思います。そして、後に、ペテロがヘロデ・アンティパスに捕らえられて、天使によって奇跡的に助け出されたと伝えられる事件の後、ペテロが向かうのも、彼の家です。また、彼は、パウロやバルナバと行動を共にして、キプロスまで伝道旅行にでかけたこともあります。
   使徒行伝では、このペンテコステのできごとを期に、イエスの十字架による死の後、立ち直れないでいた弟子たちが、生まれ変わったかのように、力強く福音の伝道を開始します。そして、ルカによれば、その力の源となったのは、主イエスが約束してくれた聖霊です。

*ルカによる福音書 24:49
  そして見よ、私はあなたたちの上に、私の父の約束したもの(=聖霊)を遣わす。あなたたちは、いと高きところからの力をまとうまで、都の中に座しているよい。

*使徒行伝 1:8
   しかし、聖霊があなたたちに降るとき、あなたたちは力を受けるであろう。そして、エルサレム、ユダヤとサマリア全土、さらには地の果てに至るまで、私の証人となるであろう。

   ヨハネによる福音書では、この霊はパラクレートス(同伴者、弁護者)と呼ばれでいます。私たちと共に歩み、私たちを見まもり、導くパラクレートスが与えられている、というのは素晴らしいことです。主が、いつも共にいて下さる、という信仰です。

*ヨハネによる福音書15:26
   私が父のもとから将来あなたがたに派遣することになる弁護者、父のもとから出てくる真理の霊が来るとき、その方が私について証しするであろう。

   私たちも、信仰生活にあって、聖書を読み、教会に通い、祈り、学ぶなかで、「あっ、わかった!」(Eureka!)と叫びたくなるような、素晴らしい時が与えられます。まさに、いままでの自分とはもう違う、まったく新しくされる思いです。

*ガラテヤ2章19b-20a節
  私はキリストと共に十字架につけられてしまっている。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちで生きているのである。

  この、「見よ、話しているこの人たちは皆ガリラヤ人ではないか。それなのに、私たちがそれぞれ、私たちの生まれた国の言葉で聞く」、という奇跡は、どういうことなのでしょうか。
  これは、創世記11章のバベルの塔の事件の裏返しのような出来事ですね。バベルの塔については、バビロニア捕囚を経験したイスラエルの民によって伝えられたものですが、これは現代にもしっかり当てはまる批判です。

・人類はかつて、頂が天に届く塔(ジックラット)のある町を建造し始めたが、これを見た神は人類の言語を混乱させた(バーラル)のでバベル(バーベル)と呼ばれた。(中略)物語はこのようなバビロニアの都市文明に神にもなろうとする人間の高ぶりを見、その中央集権的な体制は結果的に人間相互の意志疎通を阻害する結果をもたらす、と洞察する。弱小の民イスラエルならではの文明批判がここにある。(月本昭夫)

   神とのつながりを失い、施政者が思うとおりに人々を動かし、行動を規定し、規制していこうとする。政治力、経済力、軍事力を背景に、傲り高ぶっていく人々...。また、行動や考え方を規定されることに慣れてしまい、自主性を失ってしまう人々...。圧政や愚政の中に絶望していく人々。そこには混乱が生じますが、他方で、目覚め、立ち上がる人たちが生まれて、自分たちにふさわしい生き方を選択するために、行動を起こし始めるのです。
  一人ひとりが神とのつながりのなかで、湧き上がってくる愛の行いとしての日々の業と人生を取り戻す必要性は、当時も今も変わりません。
  ペンテコステの出来事は、復活の主イエスと出会い、聖霊を得て、喜びに満たされ、神の前で一つにされるという経験です。私たちが、自分たちの生き方を決め、力強く歩いて行く第一歩です。約2000年後の現在、私たちは同じ聖霊と教会とを受け継ぎ、愛と信仰とによって生きていく基盤を受け継いでいます。

§「『恵みと真理』とは?」

  さて、先週から学んでいるヨハネによる福音書ですが、1章の10節からは、イエスが十字架の死で人生を終えたように、世の中に受け入れられなかったことを、こう記しています。「その光であることば(神/キリスト)は世にあり、世は彼を介してきたが、世は彼を知るにいたらなかった」。
  そして、イエスがこの世に与えられたことを 「ことば(神、キリスト)は肉となった」と表現しています。この「肉」といく言葉には、サルクスという言葉が使われていますが、これはただの肉体(ソーマ)ではなく、(人間としての)罪の姿(サルクス)となって我々のところに来た、ということを宣言しているのです。まさに、罪を背負い、 悩みを持つ生身の人間として来たのだと。すなわち、人間としての成長や、病、そして死に至るまで、人間の持つ避けて通れない歩みを、すべて私たちと同じように経験された、と強調しているのです。また。洗礼者ヨハネを捕らえ、そしてついには殺してしまうヘロデ・アンティパスに対する批判や、エルサレムの神殿を否定する行動、そのひとつひとつを、イエスは私たち普通の人間が持つのと同じリスク、危険があるにもかかわらず、ためらわずに行動にでているのです。
  これは決して、イエスがスーパーマンのように、不死身の存在であったり、特別な神のような力を得ていて、それが使える、というような存在ではない、ということを言っているのです。しかし、主イエスは、「彼は恵みと真理に満ちていた」、のです。
 ですから、これは大変現実的な話しですが、権力や支配者、あるいは、社会通念となっている宗教的思想や、その中心人物たちに対する批判、あるいは、直接的は抗議行動に対しては、多くの場合、弾圧が加えられます。主イエスの場合も、そうでした。しかし、それにもかかわらず、しなければならないと信じたことをして生き、その生き方を私たちに示したのです。

* 14: ことばは肉なる人となって、われわれの間に幕屋を張った。
   ー われわれは彼の栄光を、父から遣わされたひとり子としての栄光を観た ー 
   彼は恵みと真理に満ちていた。

   主イエスがこの世に来られたことは、大変大きな恵みでした。それを、このように表現しているのは、大変力強いですね。「彼は恵みと真理に満ちていた」。

*  なぜなら彼の充満(恵みと真理が満ちている)の中から、われわれは皆、恵みに代わる恵みまでも受けたからである。律法はモーセを介して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを介して来たからである。

    まず、神さまは、モーセを通じて人々に十戒という、人間として生きるために大切な戒めを下さいました。これが一つ目の恵みです。そして、人々は、律法を守ることを大切にするあまり、神の愛を忘れ、律法を守ることが神や人より大切な、律法主義の社会を作ってしまったのです。そこで、主イエスが神の国の福音を携えてこの世に来て、律法に代わる新しい生き方を、私たちに生きて示してくれたのです。

 *神をいまだかつて誰も見たことがない。父の胸中にいる、ひとり子なる神、
   この方こそが解き明かした。

  主イエスがなさったことは、誰も見たことがない神、神がどのような方か、何を 私たちに下さり、どのように生きることを望んでおられるのか。イエスはそれを解き明かして下さったのです。

           2012年 5月27日 ペンテコステ礼拝   
高橋   誠
  日本キリスト会川崎教会牧師

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