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日本キリスト会川崎教会コミュの「なぜローマはイエスを」

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「なぜローマはイエスを」

*マルコによる福音書 15章1〜15節

 そして、夜が明けるとすぐに、祭司長たちは長老たちや律法学者たちと共に、すなわち最高法院全体として協議し、イエスを縛って連れだし、ピラトゥスに引き渡した。
 そこでピラトゥスは彼に尋ねた、「お前がユダヤ人どもの王か」。しかし彼はピラトゥスに答えて言う、「それはあなたの言うことだ」。また祭司長たちはさまざまに彼を告発し出した。そこでピラトゥスは再び彼にたずねて言った、「お前は何も答えないのか。見よ、彼らはやっきになってお前を告発しているのだ」。しかしイエスは、もはや何一つ、まったく答えなかった。そのためにピラトゥスは驚くほどであった。
 さて、ピラトゥスは祭りのつどに、彼らの願い出る囚人を一人、彼らのために釈放するようにしていた。ところで、反乱を起こして殺人を犯した叛徒たちと共に、バラバと呼ばれる者が鎖につながれていた。そこで群衆は立ち上がり、いつものように彼らにしてくれるように願い始めた。するとピラトゥスは、答えて彼らに言った、「お前たちは、『ユダヤ人たちの王』を釈放してもらいたいのか」。というのも彼は、祭司長たちが妬みのゆえにイエスを引き渡したのを承知していたのである。しかし、祭司長たちは、群衆を扇動し、バラバの方を彼らに釈放してくれるように要求させた。そこでピラトゥスは、再び答えて彼らに言った、「では、『ユダヤ人の王』と[お前たちがいっている男]をどのようにしてもらいたいのか」。すると彼らはまた叫んだ、「十字架につけろ」。そこでピラトゥスは彼らに言った、「では、こいつはどんな悪事を働いたのか」。しかし彼らはなおいっそう激しく叫んだ、「十字架につけろ」。
 そこでピラトゥスは群衆を満足させようと思い、彼らにバラバを釈放した。そしてイエスを鞭打った後、十字架につけるため兵士たちに引き渡した。
                新約聖書翻訳委員会訳
§「『神』と祀りあげるその陰で」

  今日の午後、川崎リトルライト・シンガーズのコンサートがあります。とても楽しみですね。子供もおとなも一緒になって心をひとつにして愛や希望を歌い、讃美することはとても楽しいことです。共に集う人たちの心に、愛と希望の灯火が灯りますように。
  受験のシーズン近くになると、合格鉛筆とかを持っている子が増えます。なかでもよく目立つのは、湯島天神の鉛筆です。どうして、湯島天神に受験の時に学生たちが向かうのかと聞けば、学問の神さま、菅原道真が祀られているからだ、という答えが返ってきます。
  日本では、多くの歴史的な人々が、神社に祀られています。そして、その人たちは多くの場合、生前に気の毒な目に遭っている人たちなのです。菅原道真も、ずるい人の策略によって地方に左遷され、そこで人生の最後を迎えてしまうのです。そして、死後、様々な天変地異や火事などの災害が起きると、きっと菅原道真の怨霊が祟っているのだ、と思い、菅原道真を神にして大切にすることによって、その祟りを押さえ込もうとしたのです。このように、怨霊を鎮めるために作られたのは神社ばかりでなく、仏教のお寺も同様でした。法隆寺が、聖徳太子の怨霊を抑えるために造られていることを詳細に解き明かした、「隠された十字架」(梅原猛)という本を学生時代に、大きな衝撃を受けながら読んだことを想い起こします。
  鑑真をはじめとする多くのお坊さんたちの高い理想をよそに、時の権力者たちが仏教を擁護したのも、自分たちが征服した地域の豪族や地方の英雄たちの怨霊を鎮めて、それらの力をそぐことにありました。大切に祀ることで、その力をそぐことが目的なのです。
  キリスト教では、このようなことはないでしょうか。
  戦争協力などにキリスト教が利用されるたびに、おかしいぞと思われている方も多いと思います。戦争は、平和と愛に満ち、殺すことを許されなかったイエスの福音とかけ離れていますよね。
  ヨーロッパにキリスト教が広まる際に、豪華な教会や巨大な教会が造られるようになりました。そして、イエス・キリストを大切にまつりあげ、人間性はあまり強調されず、神の子、あるいは神であることを強調し、私たちと切り離し、そのメッセージを薄めたのです。アメリカのキリスト教も、福音派などが戦争の擁護や、戦争に対する協力、また保守政党の票集めの場として用いられ続けています。そこには、イエスのメッセージは大変希薄なのです。
   そういうものに惑わされず、私たちもまっすぐにイエスが伝えて下さった神の国の福音とともに生きることが大切なのです。

*マルコによる福音書12章28〜31節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、『聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう』。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

*マタイによる福音書 5:43−45
 『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。
父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる。


§「なぜローマはイエスを」

さて、今日のテキストは、ローマの第五代ユダヤ総督、ピラトが職権によって、イエスを審理する場面です。2〜5節は、最高法院(サンヘドリン)によるイエスの裁判の場面、14書60節以下と非常によく似ています。イエスは基本的に、ピラトの問いに答えません。唯一、「それはあなたの言うことだ」と答えています。この答え方は、「答えないぞ」という意思表示ととらえることができます。しかし、「お前は讃(ほ)むべき者の子キリストか」という問いに対して「私だ」という、神顕現をあらわす言葉を14章61−62節で使った後としては、この意味を受けて、「その通りだ」と言っているとも捉えられます。 テモテ第一の手紙6章13節には、「ポンティオ・ピラトゥスの前で立派な告白をもって証ししたキリスト・イエス」という表現があるように、一世紀のクリスチャンたちは、主イエスが、キリストとして、十字架にかけられ、その後復活して今私たちと共にあることを強く意識していました。
  さらに、この、「それはあなたの言うことだ」(That’s what you say.)には、相手に対しての皮肉とも捉えられます。ローマは、そしてピラトは、イエスが救い主であり、解放者であるからこそ、恐れて抹殺しようとしているのです。あなたたち自身が主イエスをキリストだと思い、キリストが民をローマの支配から解放することを恐れているからこそ、十字架につけようとしているのだから。
  それほどまでに恐れたのは、イエスの教え、生き方が、軍事力、経済力、政治力によって占領地や属国を増やし、統治していくローマの価値観と正反対であるために、理解することができずに恐れを募らせたのだと思います。

*マルコによる福音書15章

 そこでピラトゥスは彼に尋ねた、「お前がユダヤ人どもの王か」。しかし彼はピラトゥスに答えて言う、「それはあなたの言うことだ」。また祭司長たちはさまざまに彼を告発し出した。そこでピラトゥスは再び彼にたずねて言った、「お前は何も答えないのか。見よ、彼らはやっきになってお前を告発しているのだ」。しかしイエスは、もはや何一つ、まったく答えなかった。そのためにピラトゥスは驚くほどであった。
 さて、ピラトゥスは祭りのつどに、彼らの願い出る囚人を一人、彼らのために釈放するようにしていた。ところで、反乱を起こして殺人を犯した叛徒たちと共に、バラバと呼ばれる者が鎖につながれていた。そこで群衆は立ち上がり、いつものように彼らにしてくれるように願い始めた。するとピラトゥスは、答えて彼らに言った、「お前たちは、『ユダヤ人たちの王』を釈放してもらいたいのか」。というのも彼は、祭司長たちが妬みのゆえにイエスを引き渡したのを承知していたのである。しかし、祭司長たちあ、群衆を扇動し、バラバの方を彼らに釈放してくれるように要求させた。そこでピラトゥスは、再び答えて彼らに言った、「では、『ユダヤ人の王』と[お前たちがいっている男]をどのようにしてもらいたいのか」。すると彼らはまた叫んだ、「十字架につけろ」。

  イエスは、神の権威を信じ、神だけを畏れていましたので、ローマ帝国の皇帝の権威も、軍事力も、権力も、ユダヤ教を中心とした人間の上下関係も認めていませんでした。
   愛とすべての人が神に愛されているという思い。そしてそのような社会を作って生きて見せた人生。人々の価値観、生き方が変わってしまいます。すべての人々がイエスのように生き、行動したら、どんなに力強い運動に発達していくことでしょう。
  現に、今日に至るまで、占領者に対する抵抗運動の心の支えには、イエスの生きた姿、メッセージがあります。
  また、ここで、不自然で問題になるのが、ピラトがイエスを十字架につけることを避けようとしているように描かれていることです。群衆におされて、やむなく十字架につけるために兵士たちに渡しています。実際のピラトは、ティベリウス帝の執政官で反ユダヤ主義者セヤーヌスの腹心の部下(川島貞雄)で、「ユダヤ人に対しては残酷かつ侮蔑的行動を重ねた」(佐藤研)人として知られています。このような人が、果たしてイエスの処刑を避けようと努力するでしょうか。
  聖書学者の多くは、「イエス断罪の責任をローマ人からユダヤ人に転嫁し、同時にキリスト教がローマ帝国にとって危険な宗教でないことを示そうとする初代教会の護教的意図」(川島貞雄)があったのではないか、と疑っています。
 そしてもう一つ、6節の「ピラトゥスは祭りのつどに、彼らの願い出る囚人を一人、彼らのために釈放するようにしていた」という慣行も確認されていません。
 マルコは、「ユダヤ人の王」「イスラエル人の王」を、キリスト、救い主、という意味で使っています。そして、ここでは、イエスとバラバとが対照的に描かれています。イエスは、私たちの救い主であり、ローマに対する叛乱分子として、処刑されようとしている。他方、バラバは、彼こそが叛乱分子であるにもかかわらず、釈放されます。これは、マルコによる福音書10章45節の「人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ。そしてまた、自分の命を多くの人のための身代金として与えるために来たのだ」というイエスの言葉を思い起こさせます。
   もう一つ付け加えるとすれば、バラバのような抵抗運動は、武力を使います。おそらく、強大なローマ帝国を相手にするには、ゲリラ戦略で闘うにしても、剣を取る者であることに変わりはないのです。行動や思考の根底に、力や暴力があるので、お互いに理解しやすいし、共にイエスが言ったように『剣を取るものは剣で滅びる』(マタイ26:52)存在なのです。
   しかし、武器を持たず、平和そのもののイエスは、彼らの価値観では計り知れない、その分、恐ろしいのです。
  十九世紀の終わり、アメリカで騎兵隊がインディアンの民衆を最後に虐殺した事件が、サウス・ダコタ州で起こりました。騎兵隊は、インディアンの踊るゴースト・ダンスという踊りを恐れたのです。暮らしていた土地を追われ、不毛な土地を居留地として与えられたインディアンたちは、飢餓に苦しみます。圧倒的な武力の騎兵隊や白人のアメリカに対して、一矢報いることは、ほぼ絶望的となった時に、このゴースト・ダンスは広がりました。祈りながら人々が共に踊ると、彼らの服は白人の銃弾を通さなくなり、やがて、バッファローの大群が戻って来て、白人が来る前の大平原が取り戻されると信じたこの踊りと、踊る人々を白人たちは大変恐れたのです。
  自分たちと全く違う価値観に出会った戸惑い、一心に祈る人々への恐れ。
  この15章でいよいよ、イエスの十字架刑が決定してしまいます。15節で言われている鞭打ちもかなり凄惨なものでした。そして十字架刑。
 しかし、絶望のどん底にいて、逃げ出した弟子たちは、その後、それぞれが復活のイエスに出会うことになります。そして、彼ら自身も絶望の淵から立ち上がります。そして私たちもまた、日々、新たなる力を得て、主と共に歩んでいくことが許されています。

   2012年 4月22日 礼拝   高橋   誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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