ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「ゲッセマネの園での祈り」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「ゲッセマネの園での祈り」

*マルコによる福音書 14章32〜42節

32 さて彼らは、ゲッセマネという名の場所にやって来る。そして彼はその弟子たちに言う、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」。そこで彼は、ペトロとヤコブとヨハネとを自分と共に連れて行く。すると彼は、ひどく肝をつぶして悩み始めた。
34 そして彼らに言う、「私の魂は死ぬほどに悲しい。ここに留まって、目を覚ましていなさい」。そして少し先に行って大地にひれ伏し、もしできることならこの時が彼から去っていくようにと、祈り始めた。そして言うのであった、「アバ、お父さん、あなたには何でもおできになります。この杯を私から取り除いて下さい。しかし、私の望むことではなく、あなたの望まれることを」。そして戻ってくる。すると彼らが眠っているのを見つける。そこでペトロに言う、「シモンよ、眠っているのか。あなたはひと時も目を覚ましてはいられないのか。あなたたちは目を覚ましておれ、そして祈っておれ。試みに陥らないためだ。霊ははやっても、肉は弱いのだ」。そして再び行って同じ言葉を口にしながら祈った。また再びやって来ると、彼らが眠っているのを見つけた。彼らの眼は重く垂れ下がっていたのである。そして彼らは、何と彼に答えたらよいか、わからなかった。そこで彼は、三度目にやって来て、彼らに言う、「なお眠っているのか、また休んでいるのか。事は決した。時は来た。見よ、人の子は罪人らの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を引き渡す者が近づいた」。
                                                                                                     新約聖書翻訳委員会訳
§「共に生きる」

   日差しが大分春めいてきました。遅かった梅もやっと開花して、いい季節になるかと思えば、まだまだしっかり寒い日が続きます。教会の門の所にある豊後梅をも、通りがかりの人々の多くが楽しんでいます。梅の花には気がつきますが、そこにメジロが来ていても、気付く人はほんの一握りです。メジロは大胆な鳥で、人の目の前でも平気で飛んでいきますが、動きが速いので、なかなか目で追うのはたいへんです。
  いつも思うのですが、川崎区のように,緑がほとんどないところでも、鳥たちが住んでいて、蜜がある木を見つけると鳥たちがやってきます。そして、ほんの少ししか土がなくても、そこに生命の営みがしっかり続いていくのです。
   自然を見ていると、どの生き物、どの植物も、それだけで生きてはいないのだと感じます。人間も同じですね。自分の力だけで生きていると思うと、そこに傲りが生まれるのです。正しい謙虚さは、神さまがいて、私たち一人一人が生かされ、お互いに愛を分かち合って生きている、ということです。愛は、与えるだけでも、受けるだけでもなく、お互いに分かち合うことが大切なのです。
   私たちは、東日本大震災を経験しました。多くの人が傷つき、多くの人の心が傷つきました。その傷を癒すのは、愛です。イエスは、羊飼いのない羊のような人々を前に、心を愛でいっぱいにし、みんなに食べさせようとしました。パウロも、このように言っています。

*コリント人への第二の手紙11:29ー31
 誰かが弱っている。そうだとしたら、この私も弱らないでおられようか。誰かが躓いている。そうだとしたら、この私も燃えないでおられようか。
 もし誇らねばならないとするなら、私の弱さのゆえのことがらを、私は誇ろう。神であり、そして主イエスの父なる方、永遠の賞むべき方は、私が偽りを言っていないことを知っておられる。

  共に生きることは、お互いに愛し合い、愛を分かち合って生きることです。

§「ゲッセマネの園での祈り」
 
 さて、今日のテキストは、マルコによる福音書14章32節からの、ゲッセマネの祈りの箇所です。

*マルコによる福音書 14章32〜36節
 さて彼らは、ゲッセマネという名の場所にやって来る。そして彼はその弟子たちに言う、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」。そこで彼は、ペトロとヤコブとヨハネとを自分と共に連れて行く。すると彼は、ひどく肝をつぶして悩み始めた。そして彼らに言う、「私の魂は死ぬほどに悲しい。ここに留まって、目を覚ましていなさい」。そして少し先に行って大地にひれ伏し、もしできることならこの時が彼から去っていくようにと、祈り始めた。そして言うのであった、「アバ、お父さん、あなたには何でもおできになります。この杯を私から取り除いて下さい。しかし、私の望むことではなく、あなたの望まれることを」。

 ゲッセマネは、ヘブライ語で、油搾り器(ガト・シェマニム)に由来する地名で、オリーブ山にあったオリーブ農園だと思われます。現在、オリーブ山の麓近くに、教会とオリーブ園があり、樹齢600年ほどのみごとなオリーブの木があります。エルサレムからベタニアへ抜ける時にも通ります。
 「ひどく肝をつぶして悩み始めた」は、新共同訳では、「ひどく恐れてもだえ始めた」となっています。このように、十字架を目前にして、打ちひしがれて悲しむイエス像に、マルコは「旧約聖書の苦難の歌の実現を見たに違いない」(川島貞雄)と考えられます。ここでも、イエスの人生と受難と十字架での最期とが、預言者のそれであり、また、メシア(救い主)の到来についての旧約聖書の預言の成就であること、そしてすべてが神の意志であることが強調されます。

詩篇42:10ー12
 私は言おう、わが巌(おごそか)なる神(エル)に、なにゆえ、あなたは私をお忘れなのか、
なにゆえ、ふさぎ込んで私は歩くのか、敵にさいなまれて。
わが骨が砕けると、私を攻める者らは私を嘲った。
彼らは私にひねもす言ったのだ、「お前の神はどこだ」と。
なぜ、お前はくずおれるのか、わが魂よ、なぜうめくのか、私に対し。
神を待て、私はなお、かれを讃えたいのだ、わが顔の救いを、わが神を。

 イエスが弟子たちを離れて祈る場面も、旧約聖書のアブラハムやモーセと似ています。
 
*創世記22:5
 「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って礼拝をしてまた戻ってくる。」

*出エジプト記24:13b-14
 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは神の山へ登っていくとき、長老たちに言った、「わたしたちがあなたたちのもとに帰ってくるまで、ここに留まっていなさい。」

 そして弟子たちには、「目を覚ましていなさい」と命じます。これは、「マルコの黙示録」の最期、13章の終わりを思いおこさせます。

*マルコによる福音書13章33〜37節
 警戒せよ、目を覚ましておれ。その定めの時がいつであるか、あなたたちは知らないからだ。それはちょうど、旅立つ一人の人が自分の家を去ろうとし、自分の僕たちのおのおのにその仕事を与えて権限を持たせる時、門番にも目覚めているようにと指示するようなものだ。だから目を覚ましておれ。家の主人がいつ来るか、夕方か、真夜中か、鶏の啼く頃か、早朝か、あなたたちは知らないからだ。彼が突然やって来て、あなたたちの眠っているところを見つけたりしないためだ。あなたたちに言うことは、すべての者に言うのだ。目を覚ましておれ」。

 そして、これから来るであろう苦難の杯を、取らなくて良いように祈ります。「アバ、お父さん、あなたには何でもおできになります。この杯を私から取り除いて下さい。しかし、私の望むことではなく、あなたの望まれることを」。アバは、アラム語で「パパ」、マルコによる福音書の記者は、すぐ後にギリシャ語で説明しています。神さまを、このように親しく呼ぶ呼びかけは、イエスがはじめてしたことで、それだけ神さまを身近に感じていること、祈りが率直であることを示しています。そして、この祈りの内容も、「この杯を私から取り除いて下さい」、という、人間として自然で、私たちの誰もが願う気持ちだと思います。できることなら、避けたいと思うこと。
  主イエスのように、ただ純粋に神の愛を実現した世界をこの地上にも実現させようという、ただそれだけの想いにもかかわらず、現実の社会に住む保守的な人々や、施政者に危機感を覚えさせ、彼らは主イエスを消し去ろうとしているのですから、人間としての思いとしては、「この杯を私から取り除いて下さい」、というのがまっすぐ正直な気持ちだと思います。
  そして、大変美しい祈り、「しかし、私の望むことではなく、あなたの望まれることを」、で祈りを締めくくります。生も死も、そしてあらゆる困難に遭遇するとき、私たちは、このように神に委ねる祈りを知り、そしてその祈りを口にすることができることは、心にいくばくかの安らぎと、そして困難に直面する覚悟とが与えられます。
 一方で、「あなたが望まれることを」という言葉により、歴史上の主イエスがどう感じられていたかにかかわらず、マルコによる福音書は、信仰により、これらすべてが神の意志でなされた、ということを強調しているのです。では、このような理不尽な十字架刑でイエスが命を奪われることを、果たして神は望まれたのでしょうか。すべては神が予定し、その意志のもとになされたと信じる人たちは、そうだということでしょう。より大きな救いを私たちに与えるために、ご自分の身を献げられたのだと。でも、もしそうであれば、本当に神はそのように戦略的に人を貶めるのでしょうか。そして、そのような神を、大切に想い、命をかけて愛すると言えるでしょうか。答えは、Neverです。
  イエスを十字架の死に追いやったのは、神ではなく、人間の罪です。でも、善良な人々の心の奥に潜む誰にでもある罪の救いのための身代わりとして十字架にかかられたのでもありません。このような教えは、世界中の多くの教会で続けられてきました。そして、悪や罪を、自分の心に向けさせ、見つけ出させ、イエスの死による贖いがなかったら、あなたは救われなかったと思わせるのです。これは、問題のすりかえでしかありません。大きな、そして明白な悪を、「悪い」、「間違っている」、と指摘して、変えていく力としての個人を育てようとするのではなく、その反対に、様々な問題を自分の至らないせい、自分の罪のせいなのだという、間違った謙虚さを持つ、従順な人々を作り出そうという意志による問題のすり替えなのです。これでは、イエスの生きた生き方と、まったく反対ですね。
  イエスを十字架の死に追いやったのは、社会の不平等を固定化し、貧しい人や病のある人、また外国人を差別して社会の底辺に追いやることをよしとし、それを宗教によって正当化し、力や恐怖によって人々を抑圧する、大変大きな人間の罪なのです。また、神の愛に基づいて、社会を変化させ、改革を求める者を排除しようとする、宗教的、政治的支配者、侵略者の傲りこそが、人間の罪なのです。
   さて、マルコによる福音書14章に戻ります。イエスが祈りを終えて戻ってくると、イエスの真剣な祈り、そして大きな葛藤とはかけ離れた弟子たちの様子が描かれています。

*マルコによる福音書14:37ー42
 そして戻ってくる。すると彼らが眠っているのを見つける。そこでペトロに言う、「シモンよ、眠っているのか。あなたはひと時も目を覚ましてはいられないのか。あなたたちは目を覚ましておれ、そして祈っておれ。試みに陥らないためだ。霊ははやっても、肉は弱いのだ」。そして再び行って同じ言葉を口にしながら祈った。また再びやって来ると、彼らが眠っているのを見つけた。彼らの眼は重く垂れ下がっていたのである。そして彼らは、何と彼に答えたらよいか、わからなかった。そこで彼は、三度目にやって来て、彼らに言う、「なお眠っているのか、また休んでいるのか。事は決した。時は来た。見よ、人の子は罪人らの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を引き渡す者が近づいた」。   

  ここで、弟子たちは「眠り」、イエスは「祈る」という対比になっています。マルコによれば、イエスは祈りによって神の意志を知り、身を委ね、十字架の道を進み続けます。そして、ここでも、マルコは、弟子たちの無理解を描きました。祈らず、神の意志を理解せず、そして、弟子たちは、逃げ出してしまいます。
 そしてこのように頼りない彼らも、後に復活のイエスに出会って祈り、自分の十字架を負って歩く日を迎えるのです。

*コリント人への第一の手紙 16:13−14
 「あなたがたは目覚めていなさい。信仰において堅く立ちなさい。雄々しくありなさい。力強くありなさい。あなたがたのすべてのことが愛において為されるようにしなさい」                
                     

   2012年 3月18日 礼拝   高橋   誠  日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング