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日本キリスト会川崎教会コミュの「たとえ天と地が過ぎ去っても」

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「たとえ天と地とが過ぎ去っても」

*マルコによる福音書13章14〜32節
さて、あなたたちは、荒らす忌むべきものが立ってはならぬところに立ったのを見るとき ー 読む者は悟れ ー、そのとき、ユダヤにいる者たちは山に逃れよ。また屋根の上にいる者は、下に降りるな、自分の家から何かを取り出そうと中に入るな。また畑にいる者は、自分の着物を取ろうと後ろを振り向くな。禍いだ、それらの日々に身重になっている女たちと乳飲み子を持つ女たちとは。
そこで、これらのことが冬起こらぬように祈れ。なぜならそれらの日々は、神が造られた創造の世界の始めより今に至るまで、絶えてなかったような、またこれからも決してないような患難となるだろう。そして、もし主がその日々を縮めて下さらなかったならば、肉なるものは一人たりとも救われることがないだろう。しかし主は、自らのために選んだ者たちのゆえに、その日々を縮められたのだ。
 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、『見よ、ここにキリストがいるぞ』とか、『見よ、あそこだ』とか言っても、信じるな。なぜならば、偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちをも惑わせようと、徴と奇蹟とを行なうであろう。あなたがたはしかし、警戒せよ。私は、あなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。
しかしそれらの日々、かの患難の後に、太陽は陰って日を失い、月は光を放たぬようになるだろう。そして星辰は天から落ちるだろう。そして天にある諸力は揺り動かされるだろう。
そしてそのとき、人々は人の子が多くの力と栄光を伴い、雲に囲まれて到来するのを見るだろう。そしてその時、彼は御使いたちを遣わし、彼のために選ばれた者たちを地の果てから天の果てまで、四方から呼び集めるだろう。
そこでいちじくの木から、次の譬えを学べ。その枝がすでに柔らかくなり、葉が生じると、夏が近いことをあなたたちは知っている。このようにあなたたちも、これらのことが起こるのを見たならば、彼が入り口のところまで近づいていることを知れ。アーメン、私はあなたたちに言う、これらすべてのことが起こるまで、この世代は過ぎ行くことがない。天と地とは過ぎ行くだろう。しかし私の言葉は決して過ぎ行くことがないだろう。
しかし、かの日ないしかの時については、誰も知らない。天にいる御使いたちも、子も知らない。ただ父のみが知っておられる。   新約聖書翻訳委員会訳

§「子供はその人の父である」

   クリスマスの頃から、ずっと晴天が続いています。暮れには皆既月食もありましたね。夕焼けや、日没や、自然の美しさや大きさを子供たちと楽しむ機会がある度に、子供たちの心の純粋さを感じ、親や周囲の人たちを信頼する姿に感動します。ちょうど、上の娘が七ヶ月ぐらいの時に、あまりに幸せそうなのでそのことを話していましたら、「まだ半分天国に住んでいるんだ。」と父が言ったことを思い出します。見る者すべてが珍しく、水を飲めることも、食事ができることも、ただ座ることすらも当たり前のことではなく、喜びに満ちたできごとですし、会う人、会う人と微笑みを分かち合って、幸せを振りまいているのです。そして、子供たちは、かなり成長しても、この心を持ち続けているのに、彼らを社会に順応させることばかりに熱心な周りのおとなたちは、もしかしたらそれに気付いていないのかもしれないのです。
 イギリスの詩人ワーズワースは、「子供はその人の父である」(The Child is father to the man./W.ワーズワース「我が心は躍る」より)と表現しました。この意味は、辞書を引くと、この言葉は「三つ子の魂百まで」に相当すると書かれています。子供時代の過ごし方こそが、その人の大人になってからの人格を形成するのだ、ということですが、それ以上に、神や自然と非常に強いつながりを持っている子供時代。しかし、人はそこからどんどん離れていってしまう。子供こそ、あるいは、子供の時に持っている、神から与えられている純粋な喜びや信頼、そして愛こそが、その人を育てるのだ、そして、それを保ち続けることが大切なのだ、ということなのだと思います。
 カリール・ジブランの作品、「預言者」の中の「子供たちについて」の章に、親に対して、「あなたたちは、彼ら(子供たち)のようになろうと努力する(strive)ことはできても、彼らをあなたのようにさせようとはできません」、という一節がありますが、子供たちを見ていると、まさに、年を経るに従って遠ざかってしまった大切な喜びを再発見して、子供たちと共に、純粋に喜びを分かち合いたくなります。
 イエスはこのような小さい者、小さい中の最も小さい者の友として一生を送られました。そして、イエスが伝えた福音も、小さい者と常に共にあるものでした。

§「天と地とは過ぎ行くだろう。しかし私の言葉は決して過ぎ行くことがないだろう」

  それに対して、人間社会の中に生まれる、強い者の支配欲や、そうしたものが生み出す戦争や紛争、またそれを恐れるために陥る不安と恐怖と疑心暗鬼に煽られた軍備拡張競争などは、大変空(むな)しいものです。パウロは、「肉の思いは死である」、と言いましたが、まさにその通りです。
  さて、今日の聖書箇所でも、人々が戦争による困難を強いられることが緊迫感を持って記されています。「荒らす忌むべきものが立ってはならぬところに立ったのを見るときー読む者は悟れー、そのとき、ユダヤにいる者たちは山に逃れよ。」(13節)というのは、戦争や侵略による恐怖や緊迫感が表れていますね。
  「荒らす忌むべきもの」は、ダニエル書(11:31,12:11など)や、1マカバイ記(1:54)では、前168年にシリアの王、アンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿の祭壇の上に建ててしまった異教の祭壇を指していました。ここでは、この同じ「荒らす忌むべき者」という表現で、ローマ人が神殿の丘に立つ、あるいは、ローマの偶像が神殿の丘に建つことを表現しています。ここでは、マルコらが経験してきた恐ろしいユダヤ戦争と、その後のローマによる占領を反映して、マルコの福音書の中で、イエスの口を借りて語らせています。

・13章のいわゆる「小黙示録」が終末の「前兆」としてイエスの口に入れているもの(5−23節)。ここには確かに後70年の(ローマ軍による)エルサレム陥落がマルコにとって既成の事実であることを明示する文言はないものの、ユダヤ戦争との関連は否定し難い。(大貫隆)
 
 また、ローマの偶像が神殿の丘に建つ、ということも非常に現実味を帯びた問題でした。後70年ごろのユダヤ戦争のはるか以前、後40年にも「カリグラ危機」と呼ばれる事件が勃発しました。「第3代ローマ皇帝カリグラがエルサレム神殿に自分の立像の建立を命令したが、時のシリア総督ペテロニウスの諫言(かんげん)によって辛うじて阻止された事件」(大貫隆、「荒野の誘惑マタイ4:1−11/ルカ4−1−13」の記事の背後にこの事件が反映されていることが指摘されています)がありました。
 そして、64年には、ローマの大火と呼ばれる、一週間も燃え続け、ローマの半分を焼いてしまう大火災がおきました。「原因は正確には不明であったが、民衆はネロが放火を命じたと信じる者が大部分であった。ネロはこの風説をもみ消すために、スケープゴートをこしらえあげた。その標的が、当時人々に反共同体的・反社会的というレッテルを貼られ、忌避されていたローマのキリスト教徒であった。彼らはカエサル家の庭園でなぶりものにされて殺された。」(佐藤研)そして、ユダヤ地方においては、66年5月にユダヤ戦争が勃発し、遂に70年春、ローマ軍のパレスチナにおける最高司令官ウェスパシアヌスの息子ティトスがエルサレム総攻撃を開始。6月〜7月には、ローマ軍に包囲壁をつくられてしまい、兵糧責めにあい、恐ろしい飢餓状態のなか、8月30日にはとうとう神殿が炎上して占領されてしまいます。これに続き、ローマ軍の略奪と虐殺が猛威をふるい9月26日にはエルサレムは滅亡してしまいます。 
 このことを頭に入れて、14〜20節を読むと、よりよく理解できます。

 戦火の中では、まさに、「山に逃れよ」ということ以外に、逃れようがありません。しかも一時を争いますから、家の中になにかを取りに行ったりしないで、とにかく逃げろ、ということになります。「禍いだ、それらの日々に身重になっている女たちと乳飲み子を持つ女たちとは」も、逃げるのが大変なお母さん達の様子を表しています。「これらのことが冬起こらぬように祈れ」は、冬には雨が降り、普段渇いているユダの荒野の山々では雨水が鉄砲水になって普段は渇いている川、ワジ(英語ではwashあるいはdry wash)や、普段道として使っているワジを駆け抜けるので逃げて行くには危険ですね。19節「神が造られた創造の世界の始めより今に至るまで、絶えてなかったような、またこれからも決してないような患難」も、このユダヤ戦争の悲惨な状態をよくあらわしています。この戦争の数々のエピソードは、フラフィウス・ヨセフスの「ユダヤ戦記」のIV〜VIIに詳しく報告されています。
 しかし、興味深いのが20節以下で、「もし主がその日々を縮めて下さらなかったならば、肉なるものは一人たりとも救われることがないだろう。しかし主は、自らのために選んだ者たちのゆえに、その日々を縮められたのだ」という記述があることで、これはこのユダヤ戦争のエルサレム攻撃がもう終わってしまって、もはや続いてはいない、そしてマルコやその周囲の人たちが生き残っていることを示しています。

*マルコによる福音書14章21〜23節
 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、『見よ、ここにキリストがいるぞ』とか、『見よ、あそこだ』とか言っても、信じるな。なぜならば、偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちをも惑わせようと、徴と奇蹟とを行なうであろう。あなたがたはしかし、警戒せよ。私は、あなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。

 ここで、5節にあった、「警戒せよ」がくり返されて、この苦難についての記述が締めくくられまます。実際、ユダヤ人達はユダヤ戦争時、抗戦派、穏健派らが激しく対立し、血で血を洗う抗争をくりひろげます。その際、それぞれのグループのリーダー、例えば、ギスカラ出身のヨハネや、シモンの子エレアザル、ギオラの子シモンと言ったひとたちが、レジスタンス(抵抗運動)のリーダー、メシアとしての期待を背負いますが、マルコによる福音書は、こういう人たちに惑わされないように、「警戒せよ。私は、あなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。」これらの人たちの間には、そして、武力闘争には、答えはないのだ、と説きます。
 これは、現在の政治や、強いリーダーを待望する世論、ポピュリズムの台頭とよく似ていますね。大阪で橋下徹や維新の会が選挙で大勝をおさめたりするのもよく似た現象です。そして、わっと人気を博したセンセーショナルなリーダーにスーパーマンのような活躍を期待し、やがて幻滅し、新たな、またもセンセーショナルなリーダーを求める、という繰り返しには、救いはないのです。では、希望はどこにあるかと言えば、私たちひとり一人が神さまと共に、愛と希望とをもって最善をつくして、懸命に生きることにあるのです。(ジャン・ジオノの短編、「木を植えた男」!)
二世紀、ローマ皇帝ハドリアヌスは、エルサレムをアエリア・カピトリーナと変え、神殿があったところにはハドリアヌスの像と、ゼウス(ギリシア神話の最高神、ローマ神話ではユピテル/ジュピター)の神殿が置かれました。
  また、この頃、イエスが埋葬されたお墓の上にも、アフローディテの像が建てられました。おそらく、地元のキリスト教徒たちがこの場所を覚えて大切にしている気持ちをうち砕こうとしたのでしょう。

・ハドリアヌスの時代(在位117−138年)からコンスタンチヌスの時代まで(約180年間)、エルサレムの十字架が立てられた岩の上に、礼拝の対象となっていた大理石のヴィーナス(美と愛の女神、ギリシャではアフローディテ)像があった。これは、聖墳墓教会が建てられ、335年に献納された時に取り払われた。(ジャック・フィネガン)

 13章は、これから終末の接近と人の子の到来を語り、読者に三度、その時に備えて「警戒せよ、目を覚ましておれ」(33節)と私たちを促します。正義感と熱い心を持った人たちの多くは、レジスタンス、武力による抵抗運動に向かっていくことでしょう。しかし、イエスは、そしてマルコによる福音書は、それを解決への道だとは思っていません。 「天と地とは過ぎ行くだろう。しかし私の言葉は決して過ぎ行くことがないだろう」と、ずっと豊かで、時代の潮流に流されない、神と共に生きる生き方をすすめています。

*マルコによる福音書4章26−29節
 「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝起きることをくり返している。すると彼自身の知らないうちに種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶのであって、まず新芽、次に穂、次にその穂の中に豊かな穀粒をもたらす。そして、実が収穫を許す時になると、すぐに鎌を入れる。刈り入れが来たからだ」。

                                              2012年 1月8日 礼拝 高橋   誠   日本キリスト会川崎教会牧師

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