クリスマスの頃から、ずっと晴天が続いています。暮れには皆既月食もありましたね。夕焼けや、日没や、自然の美しさや大きさを子供たちと楽しむ機会がある度に、子供たちの心の純粋さを感じ、親や周囲の人たちを信頼する姿に感動します。ちょうど、上の娘が七ヶ月ぐらいの時に、あまりに幸せそうなのでそのことを話していましたら、「まだ半分天国に住んでいるんだ。」と父が言ったことを思い出します。見る者すべてが珍しく、水を飲めることも、食事ができることも、ただ座ることすらも当たり前のことではなく、喜びに満ちたできごとですし、会う人、会う人と微笑みを分かち合って、幸せを振りまいているのです。そして、子供たちは、かなり成長しても、この心を持ち続けているのに、彼らを社会に順応させることばかりに熱心な周りのおとなたちは、もしかしたらそれに気付いていないのかもしれないのです。 イギリスの詩人ワーズワースは、「子供はその人の父である」(The Child is father to the man./W.ワーズワース「我が心は躍る」より)と表現しました。この意味は、辞書を引くと、この言葉は「三つ子の魂百まで」に相当すると書かれています。子供時代の過ごし方こそが、その人の大人になってからの人格を形成するのだ、ということですが、それ以上に、神や自然と非常に強いつながりを持っている子供時代。しかし、人はそこからどんどん離れていってしまう。子供こそ、あるいは、子供の時に持っている、神から与えられている純粋な喜びや信頼、そして愛こそが、その人を育てるのだ、そして、それを保ち続けることが大切なのだ、ということなのだと思います。 カリール・ジブランの作品、「預言者」の中の「子供たちについて」の章に、親に対して、「あなたたちは、彼ら(子供たち)のようになろうと努力する(strive)ことはできても、彼らをあなたのようにさせようとはできません」、という一節がありますが、子供たちを見ていると、まさに、年を経るに従って遠ざかってしまった大切な喜びを再発見して、子供たちと共に、純粋に喜びを分かち合いたくなります。 イエスはこのような小さい者、小さい中の最も小さい者の友として一生を送られました。そして、イエスが伝えた福音も、小さい者と常に共にあるものでした。