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日本キリスト会川崎教会コミュの「この世界がイエスと出会ったということ」

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「この世界が主イエスと出会ったということ」

①ガラテヤ人への手紙4章4〜7節
 しかし、時が満ちた時、神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。それは、律法のもとにある者たちを彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。さて、あなたがたは神の子たちであるので、神は、自らの子の霊、「アバ、父よ」と叫ぶ霊を、私たちの心の中へ送って下さった。かくして、あなたは、奴隷でなく、むしろ子なのである。そしてもしも子であるのなら、神による相続人でもある。

②ガラテヤ1章1−5節
 人々からでもなく、人を介してでもなく、むしろイエス・キリストと、その彼を死者たちの中から起こされた父なる神による使徒パウロ、そして私と共にいるすべての兄弟が、ガラテヤの諸教会にこの手紙を書き送る。恵みと、そして平安とが、私たちの父なる神から、そして主イエス・キリストから、あなたがたにあるように。
 そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちの父なる神の意思に従って、私たちを現在の悪の世から解放するためである。その神に世々限りなく栄光があるように、アーメン。

③ルカによる福音書2章6−7節 
 ところが以下のようなことが生じた、すなわち彼らがそこにいるうちに、彼女が産するに至る日々が満たされたのである。そこで彼女はその初子の男の子を産み、産着にその子をくるんで、その子を飼い葉桶の中に横たえた。旅籠の中には、彼らのための居場所がなかったためである。
                                                                                                    新約聖書翻訳委員会訳

§「クリスマス」

  クリスマス、おめでとうございます!今日は、25日、クリスマスの日がちょうど日曜日にあたるのは、6年ぶりですね。前回は2005年でした。23日に行われた「クリスマス・イブの集い」では、とてもあたたかい、心の通ったひとときを過ごすことができました。教会のみなさん、子供たちや、川崎リトルライト・シンガーズのメンバーも、準備から片付けまで協力し合ってとてもいい雰囲気でした。主イエスが、そして神さまが、共にいてくださる、というメッセージが、これからを生きていく人々の心に宿りますように!
 クリスマスは、今から2000年ほど前に生まれた、イエスという人の誕生日のお祝いです。でも、先週、先々週と、マタイによる福音書やルカによる福音書のクリスマス物語を読み、これらの物語が、事実を起こった通りに記しているのではなく、信仰告白なのだ、ということを学んだように、実際は、世界が、この神さまの愛と希望のメッセージに生きたイエスという人と出会ったことを祝っているのです。
  それはいったい、どういうことなのでしょうか。イエスは、「神さまを愛しなさい、そして、あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」、と教えてくれました。
  神さまを愛しなさい、ということは、人は傲ってはならない、ということです。自分の力を過信したり、お金や権力に溺れたりしないためには、自分よりも高い存在、大切なことを常に思い起こさせる存在、人を過ちから立ち返らせる存在を認め、共に生きることが必要なのです。
  では、「あなたの隣人を愛しなさい」、というのは、どういうことなのでしょうか。
 イエスがこの世界に来る前は、強い人、強い国、この世の中でお金や地位を持っているひとびとが大切にされ、その反対の人たち、弱い人、小さい国に住む人、お金や地位のない人が苦しんだりすることに、ほとんど関心は向けられませんでした。自分の国、民族だけと仲良くし、その他の人たちとは戦争をすることも平気でしたし、男だけで社会をつくって女の人を仲間はずれにすることもあたりまえでした。
  これは、とてもわかりやすい例ですが、病気の人や、不幸な人がいると、「ああ、この人か、この人の祖先が、罪を犯したのだ」、と周りの人が思うのが常識だったとしたら、その人に対する同情や、もし私がその人だったら、という想いは、生まれてきませんよね。これは、当時のユダヤの人たちの価値観でしたが、現代の社会とあまり変わっていませんね。主イエスは、こうしたひとつひとつの根源的な人間の過ちを、間違いである、正すべきことであると、生きて示されたのです。
  現代でも、同じ過ちが繰り返されています。ナチス・ドイツや、戦前の日本、今のイスラエルなど、民族主義国家というものは、特定の人たちの優越感を煽り、その人たちの差別心を利用して特定の民族や階層の人たちへの利益誘導を計っているのです。また、特定の宗教的なドグマ(教義)の強制、あるいは、それを受け入れるか否かによって、人々を差別するということも、明確に誤りであることを、一言付け加えておかなくてはなりません。このような誤った生き方を持つことにより、クリスチャンであっても、他の宗教に熱心な人たちであっても、民族主義や、選民主義にコロッとはまってしまう精神的な土壌を作ってしまっているのです。
  すごくまじめな人たちが、すべての人や物を「清い」か、「穢れている」かに分けてしまうような、価値観、そんな社会。しかし、こうしたことがすべて間違いで、「あなたの隣人を愛せよ」といったら、その隣人は、世界中のどんな人でもあなたの隣人になることがあるし、弱い人や、悲しんでいる人こそ、大切にしなければいけないことを、一生懸命伝えることに命をかけたのが主イエスでした。
  私たちみんな、子供も大人も、女性も男性も、どこの国の人でも、どんな宗教の人でも、貧乏でも、社会的な名誉なんてなくても、元気でも、病気をしていても、障害を持っていても、かつて大きな過ちをしていても、神様は同じように愛していてくださる、ということを教えてくれたのです。
  それから、さらに、自分以外の人を支えること、大切にすること、愛することが、私たち自身にとっても、大きな喜びになり、生きる力になることを教えてくれました。
  私たちみんなが、お互いに愛して、お互いを大切にしたらどんなに素晴らしいかを教えて、私たちに、希望と勇気と愛と平和の種を蒔いてくださったのです。

§「イエスとの出会い」

  私たちはそれぞれ、人々と特別な出会いを経験します。その中で、主イエスとの出会いはとても大切です。みなさんは、どのような出会い方をされたのでしょうか。
  もしかしたら、夕べサンタさんのが来るのを待ちながら寝た子供たちにも、これから特別な出会いがあるかもしれませんね。
  新約聖書のひとつひとつを書いた編集者たちも、それぞれの思いを記しています。
  ヨハネによる福音書には、こんな言葉が書かれています。

*ヨハネによる福音書1章14節
 ことばは肉(サルクス)となって、われわれの間に幕屋を張った。ー われわれは彼の栄光を、父から遣わされたひとり子としての栄光を観た ー 彼は恵みと真理に満ちていた。

 ことば(筆者注:つまり、神)は肉となった、これはサルクスという言葉が使われていますが、これはただの肉体(ソーマ)ではなく、罪の姿(サルクス)となって我々のところに来た、ということを宣言しているのです。まさに、罪を背負い、 悩みを持つ生身の人間として来たのだと。とすると、人間としての成長や、病、そして死に至るまで、人間の持つ避けて通れない歩みを、すべて私たちと同じように経験されたのです。また。洗礼者ヨハネを捕らえ、そしてついには殺してしまうヘロデ・アンティパスに対する批判や、エルサレムの神殿を否定する行動、ひとつひとつが、私たち普通の人間が持つのと同じリスク、危険があるにもかかわらず、ためらわずに行動にでているのです。
  これは決して、イエスがスーパーマンのように、不死身の存在であったり、特別な神のような力を得ていて、それが使える、というような存在ではない、ということを言っているのです。しかし、主イエスは、「彼は恵みと真理に満ちていた」、のです。
 ですから、これは大変現実的な話しですが、権力や支配者、あるいは、社会通念となっている宗教的思想や、その中心人物たちに対する批判、あるいは、直接的は抗議行動に対しては、多くの場合、弾圧が加えられます。主イエスの場合も、そうでした。しかし、それにもかかわらず、しなければならないと信じたことをして生き、その生き方を私たちに示したのです。
  クリスマス物語の、「旅籠の中には、彼らのための居場所がなかった」にも、Beatitudesとして知られる、「幸いなるかな」の後半には、この現実が滲み出ています。

*ルカによる福音書6:20〜23
 そして彼は、その弟子たちに向かって目を上げ、語り始めた。「幸いだ、乞食たち、神の王国はあなたたちのものだ。
幸いだ、いま飢えている者たち、あなたたちは満腹するだろう。
幸いだ、いま泣いている者たち、あなたたちは大笑いするだろう。
 幸いだ、あなたたちは。人々があなたたちを憎む時、そして人の子ゆえにあなたたちを排斥し、侮辱し、あなたたちの名を悪しき者として唾棄する時は。その日には喜べ、そして跳ね回れ。見よ、あなたたちの報いは天において多いからだ。実際、彼らの父祖たちは、預言者たちにも同じようにしていたのだ。

   さて、新約聖書の中で、一番古いのは、パウロによって書かれた手紙で、50年頃から書かれたものです。その中で、主イエスがこの世界に生まれたことを、以下のように書いてあります。

*ガラテヤ人への手紙4章4〜7節
 しかし、時が満ちた時、神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。それは、律法のもとにある者たちを彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。さて、あなたがたは神の子たちであるので、神は、自らの子の霊、「アバ、父よ」と叫ぶ霊を、私たちの心の中へ送って下さった。かくして、あなたは、奴隷でなく、むしろ子なのである。そしてもしも子であるのなら、神による相続人でもある。

 パウロが主張しているのもまた、神が私たちと共にいて下さる、ということです。主イエスが十字架につけられた後も、神は、復活の主イエスを私たちの心に送って下さっているのです。また、ヨハネによる福音書の表現によれば、主イエスの聖霊(パラクレイトス/同伴者、寄り添う者、弁護者)を、私たちの心の中へ送って下さっているのです。そして、私たちが、神より子として認められているのです。ですから、神さまに、主イエスと同じように、祈りによって「お父さん(アバ)」、と語りかけ、共に歩むことが許されているのです。

*ガラテヤ人への手紙1:4
そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちを現在の悪の世から解放するためである」。

  これは、決して、ただ私たちの身代わりになって犠牲になってくれた、という意味ではないのです。主イエスが、私たちと共に生き、語り、生き方を示して下さったのです。私たちも、主イエスの教えて下さったように生きること、それ自体が、「悪の世からの解放」なのです。
  しかし、折角、主イエスとの出会いによって、解放されても、また人間の常で、同じ過ちに逆戻りすることもあります。人間や、人間のグループが、放っておくとどんどん保守化することをパウロは知っていたのでしょうね。

*ガラテヤ人への手紙5:1
 キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない。

  これからの一年、また私たちは新しい人生の歩みを進めていきます。さて、皆さんは、その歩みの中で、どのような主イエスとの出会いを、迎えるのでしょうか。
  世界中の人々と、そして私たち一人一人が、愛と、平和と、喜びで満たされる日々が与えられますように。

*マタイによる福音書7:13  狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入っていく者は多い。しかし、命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そして、それを見いだす者はわずかである。

                         2011年 12月 25日  クリスマス礼拝 高橋   誠   日本キリスト会川崎教会牧師

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