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日本キリスト会川崎教会コミュの「貧しい女性の献金」

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「貧しい女性の献金」

*マルコによる福音書12章38〜44節

38 そしてその教えの中で、イエスは言った、「律法学者たちに警戒せよ。彼らの望むのは長衣を着て歩きまわることと市場で挨拶されること、それに会堂での最上席と食事においての特等席だ。彼らは寡婦たちの家々をむさぼり、見せかけだけのながながとした祈りをする者どもだ。この彼らこそ、いっそう厳しいさばきを受けるだろう」。
                                *並行箇所:マタイ23:5−7,ルカ20:45−47
41 さて、イエスは賽銭箱に向かい合って座りながら、群衆が賽銭箱に銅銭を投げ入れるのを見ていた。すると多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこへ一人の貧しい寡婦がやって来て、二レプトン、すなわち一クォドランスを投げ入れた。すると彼は弟子たちを呼び寄せて、彼らに言った、「アーメン、私はあなたたちに言う、この貧しい寡婦は、賽銭箱に金を投げ入れたすべての者のうちで、最も多く投げ入れた。なぜならば、すべての者はそのありあまる中から投げ入れたが、彼女はその乏しい中から持てるもの一切を、つまり彼女の生活の糧すべてを、投げ入れたからだ」。                          *並行箇所:ルカ21:1−4
  新約聖書翻訳委員会訳

§「現場の力、個人の力」

  震災の後、心に大きな傷を負った人が非常に多くいることを、日々の生活で実感します。先日、ルカによる福音書10章の、よきサマリア人の譬えを読みながら、まさに、このようなことが現実に起きていることを感じました。
  困っている人、助けを必要としている人がそこにいるのに、気がつかない、あるいは気がつかないふりをして通り過ぎる。原発事故の被災地では、文部科学省の人たちが、防護服を着て車の中から放射線量を量って、そこに留まることの危険を知りながら、政府の安全だという発表のまま、そこに留まる住人に危険を知られたり、放射線量を伝えることを拒否し続けた人たちが多くいたことを報道で知りました。その理由は、上司からの指示だったり、省の通達だったりするのですが、その日、その時、その瞬間に、いったい人として、どのような行動を取るべきなのかは、その人個人が、神さまが共にいることを感じながら、決めるべきことです。
   indifference(無関心)からの脱却、手をさしのべる人々がたくさんいる社会を作ることは、とても大切です。
  先ほどのエピソードの反対は、現場で独自の判断で、人々を避難させたり、また、上司や省庁の中止命令にもかかわらず、科学者としての信念を貫いて、放射線量の計測のために現地に向かった人々、観測を続けた人たちもいました。このように、特殊な場面でなくても、私たちは日々の生活で、よき行いができることを、切に望みます。


§「貧しい女性の献金と、社会的な地位を誇示する人々、
      そして荘厳な神殿との対比」

 さて、マルコによる福音書12章の最後では、「律法学者」と「貧しい寡婦」が対比が浮かび上がります。人間社会では尊敬され、社会的な地位もある律法学者に徹底的に批判が加えられ、同じく、人間社会では最下層に置かれるであろう貧しい寡婦の行動に賛辞が与えられます。

*マルコによる福音書12章38〜44節
 そしてその教えの中で、イエスは言った、「律法学者たちに警戒せよ。彼らの望むのは長衣を着て歩きまわることと市場で挨拶されること、それに会堂での最上席と食事においての特等席だ。彼らは寡婦たちの家々をむさぼり、見せかけだけのながながとした祈りをする者どもだ。この彼らこそ、いっそう厳しいさばきを受けるだろう」。

 8章の「心して、ファリサイ人たちのパン種とヘロデのパン種とを警戒せよ」(8:15)に重ねて、ここでは「律法学者たち」に警戒せよ、と語っています。「長衣」は身分を表す服です。このように社会的に高い地位を誇示するような態度は、イエスの姿勢とは大きく違います。イエスはこのように言っています。
*マルコによる福音書10:43b-45a
 あなたたちの間で大いなる者になりたいと思う者は、あなたたちに仕える者となるだろう。また、
あなたたちの筆頭でありたいと思うものは、皆の奴隷になるであろう。
 なぜならば、人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ。

そして、41節以下は、今までのイエスのエルサレム滞在の記事とはかなり違った、ゆったりとした時間の流れを感じます。怒りや緊張感の張りつめた空気ではなく、リラックスして観光を楽しむ旅人のようです。

*マルコによる福音書12:41−44
 さて、イエスは賽銭箱に向かい合って座りながら、群衆が賽銭箱に銅銭を投げ入れるのを見ていた。すると多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこへ一人の貧しい寡婦がやって来て、二レプトン、すなわち一クォドランスを投げ入れた。すると彼は弟子たちを呼び寄せて、彼らに言った、「アーメン、私はあなたたちに言う、この貧しい寡婦は、賽銭箱に金を投げ入れたすべての者のうちで、最も多く投げ入れた。なぜならば、すべての者はそのありあまる中から投げ入れたが、彼女はその乏しい中から持てるもの一切を、つまり彼女の生活の糧すべてを、投げ入れたからだ」。

 1レプトンは、ギリシャの最小の青銅貨幣で、一日の労働に対する賃金、ローマのデナリオン銀貨の128分の1。2レプトンがローマの1クォドランスであると、マルコは説明しています。1クォドランスは、いけにえ用の雀2羽の値段、1アサリオンの1/4。今の日本の通貨で言ったら、100円ぐらいの感じでしょうか。
 この女性は、持っているわずかなお金をすべて捧げている。社会的な地位も財産も何もないが、本人の生活のすべてを捧げている、というところにすべてを捧げて生きるイエスご自身の姿が重ねられているのかも知れません。
 これは、先ほどの律法学者や、続いて批判される神殿体制の象徴で、当時驚くべき壮大さで作られていたエルサレム神殿とも対比されています。

*マルコによる福音書13章1〜2節 

 さて、イエスが神殿境内から出て行く時、彼の弟子たちの一人が彼に言う、「先生、ご覧なさい、なんという石、なんという建物でしょう」。するとイエスは彼に言った、「あなたには、これらの巨大な建物が目に入るのか。ここで崩されることなくほかの石の上に残される石は、一つたりともないだろう」。
            *並行箇所:マタイ24:1−2、ルカ21:5−6
                                 
 当時の神殿は、ソロモンの神殿(前958年〜前586)、第二神殿(前515年〜)に続いて、第二神殿を大幅に拡大してヘロデ大王が紀元前20年(か19年)に作り始め、十年ほどでほぼ完成したが、最終的に完成したのは、紀元64年だったと言われています。そして実際、その6年後、70年には、占領者であるローマ帝国のローマ軍によって滅ぼされてしまうと言う歴史を辿るのです。 
  巨額の富を投入し、今で言うなら、巨大公共事業として非常に多くの労働者を集めて作られたユダヤ教の神殿は、これを建てたヘロデ王の権力の象徴でもありました。
 イエスは、人間の手によって造られた巨大な権力の象徴としての神殿、民衆から神との直接のつながりを奪い、民衆から神の救いを奪おうとする宗教のあり方を、はっきり否定してしまいました。
 マルコによる福音書14章には、イエスが、「俺は手で造られたこの神殿を壊し、三日の後に手で造られない別の神殿を建ててみせる」と言ったと、人々が「偽証して」言ったと記されています。

*マルコによる福音書14:55−59
 一方、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを殺すために、彼に不利な証言を探していた。しかし、見つからないままであった。多くの者が偽って彼に不利な証言をしたが、それらの証言は一致しなかったのである。そこで、ある者たちが立ち上がって、偽って彼に不利な証言をしようとしながら言った、「私どもはこいつが『俺は手で造られたこの神殿を壊し、三日の後に手で造られない別の神殿を建ててみせる』と言うのを聞きました」しかしこのようにしてもなお、彼らの証言は一致しなかった。

 イエスは、この神殿を壊して、同じ神殿を建てるのではなく、人間の手によらない神殿、すなわち、神の国そのものの到来を言っています。マルコは、これが「偽証」だったと言っていますが、出所の違う複数の伝承、マルコによる福音書(14:55−,15:29−)、ヨハネによる福音書(2:19−)などで報告されていますから、実際に言った可能性が高いと思われます。
 しかし、イエスが建て替える神殿の意味について、ヨハネによる福音書は全く違う解釈をしています。

*ヨハネによる福音書2:19−22
 イエスは答えて彼らに言った、「この神殿を壊してみろ、三日のうちに起こして見せよう」。そこでユダヤ人たちは言った、「この神殿は四十六年かかって建てられたのだ。それをお前は三日で起こすと言うのか」。彼は自分の身体という神殿について話していたのであった。
 彼が死人の中から起こされた時、彼の弟子たちはこのことを言っていたのを想い起こした。そして聖書とイエスの話したことばを信じた。          小林 稔 訳

 さて、マルコによる福音書にもどって、15章の、十字架上のイエスが息を引き取る場面にも、この神殿についての記述がでてきます。

*マルコによる福音書15:37−39
 しかしイエスは、大声を放って息絶えた。すると神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた。また彼に向かい合って立っていた百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」。

 マルコによる福音書は、イエスの十字架上での死に、神殿の崩壊を重ね合わせています。イエスは、復活して私たちひとりひとりと共にあって神の国の到来をもたらし、神殿、そして宗教の上になりたっていた社会組織や、それが行っていた不正、不義は滅び、神は民衆と共にあるのです。
そして百人隊長の「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」という言葉で、イエスが神の子であることを宣言します。
 ルカは、これを受け、もうすでに神の王国は私たちのただなかにあるのだ、と考えていました。

*ルカによる福音書17:20ー21

「神の王国は、観察しうるようなさまで到来することはない。人々が『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』などということもない。なぜならば、見よ、神の王国はあなたたちの只中にあるのだ」

 そして、パウロは、神殿を私たち自身が神殿なのだと主張します。

*コリント人への第一の手紙3:16ー17
 あなたがたは神の宮(神殿)なのであって、神の霊があなたがたのうちに住んでいるということを知らないのか。もしも誰かが神のその宮を滅ぼすならば、その者を神は滅ぼすであろう。なぜならば、神の宮は聖なるものであり、あなたがたこそがそれ(=神の宮)なのだからである。                        青野太潮 訳
                                            2011年 11月 13日  礼拝 
高橋   誠   日本キリスト会川崎教会牧師

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