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日本キリスト会川崎教会コミュの「イエスによる神殿を否定する行動の意味」マルコ11:12−

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「神殿を否定する行動」

①マルコによる福音書11章12〜26節
12 さて翌日、彼らがベタニアから出て来た時、イエスは空腹をおぼえた。そして一本のいちじくの木が葉をつけているのを遠くから見て、そこに何か見つかるかも知れないと思い、そこへ行った。しかし木のところに来ても、彼は葉のほかには何も見いだせなかった。いちじくの時節ではなかったからである。そこで彼は語り始めて木に言った、「今から永遠に、誰一人お前から実を食べる者のないように」。そして彼の弟子たちはこれを聞いていた。 
15 こうして彼らはエルサレムにやって来る。そしてイエスは神殿境内に入ると、神殿境内の中で売り買いする者たちを追い出し始め、両替人たちの台と鳩を売る者たちの椅子とをひっくり返した。また誰にも神殿境内を通って道具を運ぶことを許さなかった。そこで教え始め、彼らに言った、「聖書には次のように書かれているではないか、私の家は、あらゆる民族の祈りの家と呼ばれるであろう。
それなのにお前たちは、それを強盗どもの巣にしてしまった」。そこで祭司長たちと律法学者たちはこれを聞き、どのようにして彼を亡き者にしようかと考えた。なぜなら彼らは群衆を恐れたからである。というのも、すべての群衆が彼の教えに仰天していたからである。
 そして、夕方になった時、彼らは都から出て行くのであった。
20 そして彼らは、朝早く通りがかりに、例のいちじくの木が根元から枯れてしまっているのを見た。そこでペトロは思い出して彼に言う、「ラビ、ご覧なさい、あなたが呪ったいちじくの木が枯れてしまいました」。
 するとイエスは答えて言う、「神への信仰を持て。アーメン、私はあなたたちに言う、この山に『引き抜かれて、海に投げ込まれてしまえ』と言い、その心の中で疑わず、ただ自分の語ることは必ず生じると信じる者には、そのようになるだろう。このために、私はあなたたちに言う、あなたたちが祈り、かつ求める一切のことは、もう受け取ったものと信じよ。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。また、祈るために立つときに、誰かに対して恨みごとがあるならばそれを赦せ。そうすれば、天にいるあなたたちの父も、あなたたちのもろもろの過ちを赦して下さるだろう」。

②マルコによる福音書 14章55〜59節
55 一方、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを殺すために、彼に不利な証言を探していた。しかし、見つからないままであった。多くの者が偽って彼に不利な証言をしたが、それらの証言は一致しなかったのである。そこで、ある者たちが立ち上がって、偽って彼に不利な証言をしようとして言うのであった、「私どもはこいつが、『俺は手で造られたこの神殿を壊し、三日の後に手で造られない別の神殿を建てて見せる』と言うのを聞きました」。しかしこのようにしてもなお、彼らの証言は一致しなかった。

③マタイによる福音書26:61
「こいつは、『神の神殿を壊し、三日の後に建てて見せる』と言いました」。
④使徒行伝6:14
「『あのナゾラ人イエスはこの場所を打ち壊し、モーセが私たちに言い伝えた慣例を変えるだろう』と彼が言うのを私たちは聞いたのですから」。
                              新約聖書翻訳委員会訳                 
§「世界を変える」

  今日は、9月11日です。ニューヨークのワールド・トレード・センターに飛行機がぶつかっていったテロ事件から10年が経ちます。度重なるテロと、それに対する報復は、世界を悪い方へ危険な方へと運んでいってしまいました。
  イスラエルによる、パレスチナ人の迫害と差別、ロシアによる、独立を求めるチェチェンのような地域に住む人たちへの締め付け、中国による、ウイグル自治区や、チベット自治区などの人々に対する抑圧、アメリカによるアフガニスタンとイラクへの侵攻...このひとつひとつに、一般の市民の悲しみが溢れ、涙が流され、多くの犠牲者がでています。国はいつも正義を掲げますが、実際はどうでしょうか。抑圧しなければ、ひどい扱いをしなければ、殺さなければ、命をかけてテロに身を投じる人々に、そのような行いのために命を捨てる決心をさせる理由がなくなるではありませんか。
  実際はテロを止めるには、侵略や抑圧(大国、あるいは侵略者によるテロ)をしなければいいのです。「テロを止めることは、実際はそんなにむずかしいことじゃないんだ。テロに荷担しなければいいのさ」。これは、言語学者で平和運動でも活躍するノーム・チョムスキーの言葉です。(「911」のという彼のインタヴューを集めたパンフレット:日本では文春文庫に掲載、ここでの訳は引用者による。)
  宗教がいかに民族主義の政治や、占領や、侵略や、戦争に利用されてきたかを確認することは、大切なことだと思います。先週のお話にも出て来ましたが、宗教を権力者が利用する場合、神を自分たちの後ろ盾として利用します。私たちに賛成するなら、あなたたちは神の側にいるのだ、反対に、私たちに反対するなら、悪魔の側にいるのだ、という主張で、民を惑わすのです。
  日本も同様で、明治政府は、大日本帝国憲法を作るときに、ヨーロッパのキリスト教国が、キリスト教を柱としていかに国民を統制しているかを調べ、日本ではこれに換わるものとして、天皇を神とし、明治神宮(今の天皇を記念)、伊勢神宮(過去の天皇を記念)、靖国神社(天皇側について戦いのために命を落とした人々を記念)を中心に置く国家神道を作り上げ、占領政策にも利用してきました。日本国民を臣民として特別視し、中国や朝鮮半島の人々を差別し、日本の軍部や兵隊達の多くが、中国や朝鮮半島の人たちを同じ人間とは思わないような行いを重ねたことは、大きな問題です。その影響は、普段の生活や民族差別意識などに、今でも根強く残っています。
   でも、戦争中に、このような価値観に反対して生きていくのは、楽ではなかったことでしょう。そして今でも、このようなナショナリズムは、時々頭を持ち上げてくるのです。
  しかし、神は、最も小さい者、このような行動の犠牲になる一般の人たち、子供たちと共にある、この人たちの側に立たないで、どんな正義がなりたつのか、ということはとても大切です。
  同じキリスト教徒で、戦争に賛成し、「正義の戦い」を熱狂的に支持する人がいる一方で、このような戦いに反対し、戦争を否定する人たちもいます。これは、神を語るときに、権力者のを向くのか、神を語るとき、最も小さい者の方を向くのか、という大きな問いがあるのです。
  歴史上、私たちと同じ人間として、この世で暮らしたイエスは、自分たちだけが清くて、他の人は穢れているという差別を否定し、それに立ち向かい、正そうとしました。私たちがよく歌う、Seek Ye Firstの中に出てくる、「神の義」、神の正しさというのは、神の目には、誰でも同じように大切な子、神の子なのだ、ということ、そして私たちとしては、 あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい、ということなのです。
   私たちは、主イエスと同じ生き方をたどり、そのように生きることで、世界を変えることができるのです。
  ユダヤ教の神殿を中心とした社会の中で、神さまは神殿の至聖所にいることになっていて、大祭司だけが、一年に一回しか入ることが許されない、ということは、神さまは権力者と共にあるのです。また、浄い者が救われるとされる。その浄いということは、ユダヤ教徒であり(ということは外国人ではなく)、男であり、健康であり、土曜日の安息日に働かなくてはならないような仕事に就く必要がない、裕福な人々です。そして、ユダヤ教は、民衆をおとなしく治めるために、ローマ帝国によって公認宗教とされ、利用されていました。ユダヤ教社会のピラミッドの頂点には、ローマ帝国があって、ローマ人、ローマ軍は侵略者で、かなりの横暴、暴力がまかり通っていたのです。
  しかし、イエスは、このすべてが間違っていることを人々に知らせました。神さまは、誰をもご自身の子として愛し、最も小さな人と共にあること。ユダヤ教徒も、その他の人たちも、女も男も、子供達も、障害を持っている人も、病気の人も、元気な人も、大切なのです。すると、それは当時のローマの支配下にあるユダヤ教社会を否定し、反省と回心を求めることでした。ということは、権力の側からすれば、秩序を乱す者、もっと言えば反逆者ということになります。そこで、ローマ帝国が、決してローマ市民には行わない、属国の反逆者に科する残虐な死刑である十字架刑に処されてしまったのです。
  イエスに、十字架刑を言い渡したのは、ローマ帝国のユダヤ総督のポンテオ・ピラトゥスでした。福音書では、あまりピラトを悪く言っていませんが、彼は大変残虐な人でした。ユダヤ教に対しても、かなりの締め付けを行ったために、人々が怒って反乱が起き、収拾がつかなくなり、後に統治能力を問われて更迭されています。

 §「神殿を、そして社会の基盤としての宗教そのものを否定する行動」

  主イエスは、といえば、「幸いだ、乞食たち(貧しい者たち)、神の王国はあなたたちのものだ」(ルカ6:20)と人々に教え、また、「私どもはこいつが、『俺は手で造られたこの神殿を壊し、三日の後に手で造られない別の神殿を建てて見せる』と言うのを聞きました」(マルコ14:58)という発言をした、という記録が残っています。使徒行伝にも、「『あのナゾラ人イエスはこの場所を打ち壊し、モーセが私たちに言い伝えた慣例を変えるだろう』と彼が言うのを私たちは聞いたのですから」(6:14)とあります。
  これは、人の手で作られた神殿などいらないのだ、人々から神を遠ざけ、権力者が神を利用することは間違っている。そこで、神さまを、神殿の中から解放して、一般の人々と結びつけるために、エルサレムで、過激とも思える行動にでるのです。
 
*マルコによる福音書11:15
 こうして彼らはエルサレムにやって来る。そしてイエスは神殿境内に入ると、神殿境内の中で売り買いする者たちを追い出し始め、両替人たちの台と鳩を売る者たちの椅子とをひっくり返した。

  そして、今日の聖書箇所、この神殿での抗議行動が、主イエスの逮捕の直接の原因になった事件です。
 「神殿境内の中で売り買いする者たちを追い出し」とあるように、商人達だけでなく、参拝に来ている人をもイエスは追い出しています。両替人たちの行っていたことは、神殿の外の世界で流通するギリシャやローマの貨幣を、神殿の中で献金に使われる清い貨幣、古ヘブライ貨幣か古代ティロス(ツロ)の貨幣に両替することでした。これは、神殿のなかに於ける実質的な経済の中心でした。鳩は捧げものとして売られていたものです。ということは、日本の神社の境内に並ぶテキヤのような人たちのイメージとは違い、イエスの攻撃は、神殿そのものに向けられていたことになります。この場面についてのJDクロッサンの解説を読んでみましょう。

・この場面には何者かが経済的に、あるいは宗教的に不正を行っていたという形跡は全くない。従って、イエスが行ったことを説明するのに、(神殿の)浄化とか聖別とかいう表現は全く当たらないのである。彼の行為はすなわち、神殿の存在そのものに対する攻撃であり、破壊である ー 正確には象徴的なものであるが、いずれにせよそれが危険な叛逆であるということには全く違いはない。(JDクロッサン)

  イエスは、人間の手によって造られた権力の象徴としての神殿、民衆から神との直接のつながりを奪おうとするものを、はっきり否定してしまいました。

・「神の王国」とは「神の」という修飾語に独自の意味がある。つまり、不義と差別を生む人間の王国でなく、それをはるかに越えた神の王国ということである(佐藤研)

・すでに天上の祝宴として始まっている「神の国」が間もなく最終的に(マルコ9:1「力を持って」!)地上に実現する時、その時には目の前の「手で造られた神殿」が除去され、「手で造られたのではない別の神殿」すなわち、「神の国」によって取って代わられる。これがイエスを支えた動機である。(大貫隆「イエスという経験」より)

  主イエスとしては、これほど明白なことを他の人たちが受け入れないことは考えられない、というほどの想いだったのだと思います。それが、このような思い切った行動の原動力だったのでしょう。

*ルカによる福音書17:20ー21
「神の王国は、観察しうるようなさまで到来することはない。人々が『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』などということもない。なぜならば、見よ、神の王国はあなたたちの只中にあるのだ」

  よく、この箇所を、「宮清め」と表現されますが、これについてクロッサンはこのように言っています。
 
・このイエスには、神殿を浄めたり聖別したりする意図はない。彼は神殿の担っている財政的・文化的役割を攻撃することによって、象徴的に神殿を破壊しているのだ。(中略)だが、後にイエスが死ぬと、神は神殿の至聖所を自ら遺棄することによって、イエスの行為を承認した、とマルコは記録する。(JDクロッサン)

*マルコによる福音書15:37−39
 しかしイエスは、大声を放って息絶えた。すると神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた。また彼に向かい合って立っていた百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」。
 
2011年 9月11日  礼拝   高橋  誠/日本キリスト会川崎教会牧師 

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