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日本キリスト会川崎教会コミュの「馬ではなく、ろばの子を」 マルコ11章1〜11節

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「馬ではなく、ろばの子を」

*マルコによる福音書11章1〜11節
 さて、彼らがエルサレムに、つまりオリーブ山のふもとのベトファゲとベタニアに近づく時、イエスはその弟子たちの中の二人を遣わし、彼らに言う、「あなたたちの見ている、あの向こうの村に行くのだ。すると、その中に入るとすぐに、つながれている一頭の子ろばを見つけるだろう。その背にまだ誰も乗ったことのない子ろばである。それをほどき、連れて来るがよい。そしてもし誰かがあなたたちに、『なぜお前らはこんなことをするのだ』と言うならば、『主がこれを必要とされているのです。またすぐにこれをここに渡し戻されます』と言うのだ」。こうして彼らは出ていき、通りに面した入り口の外につながれている一頭の子ろばを見つけた。そしてそれをほどく。するとそこに立っている者のうち幾人かが彼らに言いだした、「お前らはその子ろばをほどいてどうしようというのだ」。そこで彼らは、イエスが語ったように彼らに言った。すると彼らは二人のするままにさせた。そこで彼らは、子ろばをイエスのもとに連れてきて、その上に彼らの衣服をかける。すると彼はその上に乗った。
 また多くの人が自分たちの衣服を路上に敷き、また他の人々は、畑から切ってきた枝葉を敷いた。そして先頭を行く者たちもそれに従う者たちも叫び続けた。
 「ホサンナ、主の名によりて来たる者に祝福あれ。
やがて来たらんとする、我らの父ダビデの王国に祝福あれ。
いと高きところにホサンナ」。
 そして彼はエルサレムに入り、神殿境内に至った。そしてすべてを見まわしてから、すでに夕方になっていたので、十二人と共にベタニアに出ていった。                         新約聖書翻訳委員会訳

§「主体的に行動できるという自由の大切さ」

  私たちの住む社会を、もっと住みやすく、もっとフレンドリーに、そしてもっと活気があるようにするには、どうすればいいか、ということをよく考えているのですが、ひとつ、大切なことがあります。
  3月の震災後に、懸命に原子力発電の危険の問題を告発し、あるいは、放射性物質に汚染されている地域の除染に奔走しているような人々が、共通して言っていることがあります。それは、今、私たちは何をするべきか、という質問に対して、「あなたが出来ることを、一生懸命やって下さい」、ということです。科学が得意な人たちは、科学の研究に打ち込み、教育を志す人たちは、懸命に教育に励み、子供と遊ぶのが得意な人は、一生懸命遊び、人を楽しませるのが得意な人たちは、それをがんばる、ということが、とても大切だということです。
  これは、本当に世界を良くする鍵です。みんなが、それぞれの場所で、最善を尽くしたら、とても良い社会ができる。そして、最善を尽くすときに向く方向は、神であり、もっとも小さな人、もっとも弱い立場の人々、子供たちであり、民衆なのだ、ということが以下の言葉に集約されているのです。

*マルコによる福音書12章28〜31節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、『聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう』。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

  しかし、今、日本では、これと全く反対のことが行われ、全く反対の社会の制度が作られているのです。例として、東京都の教育委員会が、各校の職員会議を、現場の職員が議論して議決する場ではなく、上意下達、つまり校長が、文部科学省や教育委員会からの通達や、校長が決めたことを伝えるためだけの場である、としたことです。
  教育の最前線で教育に携わっている人たちの意見、考え、創意工夫。これが教育でとても大切なことです。
  私が時々行く小さなラーメン屋さんが先日、スープがとってもおいしくなった、と喜んでいました。お客さんのひとりが、「とってもおいしい。だけど、一言言えば、 豚はとても良い豚を使っているのに、 ブロイラーの脂を使っているのが惜しい」、と言われて、鶏の種類を変えたら、全然変わった、というのです。本当にかなりおいしくなっていました。
  こういうことは、実は大変大切なのです。もし、これがチェーン店だったりしたらどうでしょうか。現場で働いている人たちが、こうした方がおいしい、こうしたほうが健康にいい、と思って、工夫できるでしょうか。
  教育でも、他の何でも、こうしたことはとても大切なのです。余談ですが、マニュアルで行動する、世界中どこへ行っても同じ味のファースト・フードや、どこへ行っても同じサービスのホテル・チェーン、テーマ・パークは、皆、1950年代の、大変保守的な時代に生まれているのです。とても良い面もありますが、ひとりひとりの従業員の評価は、従順であることに絞られます。そして、これらの企業は、見かけの華やかさとは裏腹に、従業員の雇用や社会保障など、待遇には問題があるところが多いのです。ちょっと皮肉なことですが、あるテーマ・パークの震災時のマニュアルに、従業員はそれぞれ判断してお客さんのためにできる限りのことをする、とあり、3月の震災の時には、従業員たちがとても素晴らしい働きをした、という報道がありました。
  自主的に判断して、誰かのために、困っている人たちのために、と働いた人々は、大変大きな充実感を得たことでしょう。普段からそうできれば、という想いが湧き上がるでしょうね。

§「馬ではなく、ろばの子を」
 
  さて、話しは変わり、今日の聖書箇所にはエルサレムが出て来ます。
  エルサレムは今日、大変混乱を複雑な問題を抱えたところになってしまいました。国際紛争、民族紛争の中心地の様相を呈しています。パレスチナとイスラエルの問題は、一向に好転しません。ほんの少し、希望の光が見えたと思うと、大きな落胆がそれに続く、ということがずっと続いています。
  紛争の解決の道筋をつけ、パレスチナの自治と独立を認めたオスロ合意は、1993年のできごとでした。当時のアメリカ大統領、ビル・クリントンが仲介し、パレスチナを代表したヤセル・アラファトそしてイスラエルのイツハク・ラビン首相が和平合意をして、これから平和が訪れるか、と思った矢先に起きた、95年のラビン暗殺事件から、状況は悪化の一途を辿っています。しかし、ここでも、市民ひとりひとりが、パレスチナ人を二級市民のように扱うことが人種差別であり、間違ったことだ、と声を上げ、行動するなら、そこによい変化が来るという、希望が生まれるのです。
 では、イエスが入っていこうとしていた当時のエルサレムは、どのような場所だったのでしょう。ダビデが町を造り、ソロモンが神殿を建てたユダヤ人の宗教的民族的中心地エルサレムは、バビロン捕囚や、バビロン捕囚からの帰還などの紆余曲折を経て、紀元前63年、ローマのポンペイウスによって占領され、ローマの支配下に入ってしまいます。その後、ローマによってユダヤの王に任命されたヘロデ大王が神殿を大改築し、多くのユダヤ人が、過越祭、刈入れの祭り、仮庵祭に集まるようになります。
  ローマの占領下にあるので、ユダヤ人達は民族的なアイデンティティーを求める傾向が強かったことが予想されますし、神殿税や、祭りからの収益によって、宗教的な特権階級が生まれ、こうした人々の腐敗が進む中、貧しい人々は生活に苦しんでいる、といった社会的な矛盾や問題点が吹き出していたと考えると、エルサレムに対する人々の思いはかなり複雑なものだったのではないかと思われます。また、イエスがエルサレムに入ったのは、過越祭の時期ですが、この時期をJDクロッサンは次のように説明しています。

・「過越祭は、(先祖たちの)エジプトでの奴隷状態からの解放と約束の地への出発を祝った、ユダヤ人の祭である。エジプトならぬローマ帝国の重圧下に置かれた植民地ユダヤにおいて、過越祭は、とりわけ町の中心部におびただしい群衆が集中したことから、明らかに危険な祭であった」。

 さて、今日のテキスト、11章で、マルコによる福音書の描くイエスは、エルサレムに到着し、王、メシアとしてエルサレムに入城します。「史実を離れて、強い神学的メッセージを内包している」(大貫隆)と指摘されるように、このエピソードは注意深く構成されています。

*マルコによる福音書11:1−2
 さて、彼らがエルサレムに、つまりオリーブ山のふもとのベトファゲとベタニアに近づく時、イエスはその弟子たちの中の二人を遣わし、彼らに言う、「あなたたちの見ている、あの向こうの村に行くのだ。すると、その中に入るとすぐに、つながれている一頭の子ろばを見つけるだろう。その背にまだ誰も乗ったことのない子ろばである。それをほどき、連れて来るがよい。

 「ベトファゲは『いちじくの家』の意。エルサレムの東。オリーブ山の上にある村エットールと同定されている。ベタニアは、オリーブ山東側斜面にある、今日の村エルアザーリーエと同定されている」(旧約新約聖書大事典)ということで、エリコの方から登ってくるなら、まずベタニアを通ってオリーブ山を登り、山頂のベトファゲを通ってオリーブ山を下り、エルサレムへ入っていくことになります。
 オリーブ山には、今でも昔ながらの生活をしているパレスチナ人が多く住み、ろばを飼っている人たちも見受けられます。
  さて、この部分の下地になっているのは、紀元前4−3世紀に書かれたゼカリア書9章です。この箇所は、「征服した町に入るアレクサンドロス大王と鮮烈に対照させる形で、神の民を救うためにやがて現れるメシア的解放者の入城を描いている」。(クロッサン) 
  侵略者、あるいは、政治的、軍事的な民族の解放者としてのメシア(王とか、軍を率いるリーダー)は普通「馬」に乗っているところを描写されますが、ここでイエスが子ろばにのって入城するのは、平和な、柔和なメシア像、武力を使わない、全く違ったメシア像を表現しています。

*ゼカリヤ書9:9ー10
 「娘シオンよ、大いに歓べ、娘エルサレムよ、喜びの声を上げよ。/見よ、あなたの王があなたのところにやって来る。/彼こそ義しく、勝利を得る者(注:七十人訳では「救いをもたらす者」)。/柔和な人で、ろばに、雌ろばの子である子ろばに乗る方。
わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。/戦いの弓は断たれ、彼は諸国民に平和を告げる。/その支配は海から海にまで至り、/大河から地の果てにまで至る。 
                                     旧約聖書翻訳委員会(鈴木佳秀)訳

*マルコによる福音書11:6ー11
 そこで彼らは、子ろばをイエスのもとに連れてきて、その上に彼らの衣服をかける。すると彼はその上に乗った。/また多くの人が自分たちの衣服を路上に敷き、また他の人々は、畑から切ってきた枝葉を敷いた。そして先頭を行く者たちもそれに従う者たちも叫び続けた。/「ホサンナ、主の名によりて来たる者に祝福あれ。/やがて来たらんとする、我らの父ダビデの王国に祝福あれ。/いと高きところにホサンナ」。
 そして彼はエルサレムに入り、神殿境内に至った。そしてすべてを見まわしてから、すでに夕方になっていたので、十二人と共にベタニアに出ていった。

 イエスが通るところに人々衣服を敷くのは、王を迎えることを意味しています。(列王記下9:13 彼らはおのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹いて「イエフが王になった」と宣言した。)
 ホサンナは「ああ、救いたまえ」という意味ですが、「祝福あれ」という意味合いでも使われます。この「主の名によりて来たる者に祝福あれ」は詩篇118篇26節からの引用、「巡礼祝祭などで読まれるハレル歌集(詩篇113−118)の結語にあたる」。(佐藤研)そして、「いと高きところにホサンナ」は詩篇148篇1節からの引用です。イエスは、最後に神殿境内を見てから、エルサレムに滞在せずに、ベタニアに帰ります。これは、過越の祭りでは、例外的な行動です。
 そして次の箇所では、この平和の君のイメージと一見かけ離れたような、非常に激しいイエスの「宮清め」と呼ばれる抗議行動のエピソードが、大変不思議な「いちじくの木への呪い」の話しに挟まれて提示されます。次回は、この抗議行動の意義を考察します。

* ガラテヤ人への手紙5章1節
   キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない。


2011年 9月4日  礼拝   高橋  誠/日本キリスト会川崎教会牧師 

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