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日本キリスト会川崎教会コミュの「ガリラヤからエルサレムへ」 マルコ10:1

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「ガリラヤからエルサレムへ」

① マルコによる福音書10章1節
 そして彼はそこから立ち上がって、ユダヤの地域とヨルダンの彼方にやってくる。すると、再び群衆が彼のもとへ集まってくる。そこで彼は、いつものように再び彼らを教え続けた。

②マルコによる福音書11章1〜11節
 さて、彼らがエルサレムに、つまりオリーブ山のふもとのベトファゲとベタニアに近づく時、イエスはその弟子たちの中の二人を遣わし、彼らに言う、「あなたたちの見ている、あの向こうの村に行くのだ。すると、その中に入るとすぐに、つながれている一頭の子ろばを見つけるだろう。その背にまだ誰も乗ったことのない子ろばである。それをほどき、連れて来るがよい。そしてもし誰かがあなたたちに、『なぜお前らはこんなことをするのだ』と言うならば、『主がこれを必要とされているのです。またすぐにこれをここに渡し戻されます』と言うのだ」。こうして彼らは出ていき、通りに面した入り口の外につながれている一頭の子ろばを見つけた。そしてそれをほどく。するとそこに立っている者のうち幾人かが彼らに言いだした、「お前らはその子ろばをほどいてどうしようというのだ」。そこで彼らは、イエスが語ったように彼らに言った。すると彼らは二人のするままにさせた。そこで彼らは、子ろばをイエスのもとに連れてきて、その上に彼らの衣服をかける。すると彼はその上に乗った。
 また多くの人が自分たちの衣服を路上に敷き、また他の人々は、畑から切ってきた枝葉を敷いた。そして先頭を行く者たちもそれに従う者たちも叫び続けた。
 「ホサンナ、主の名によりて来たる者に祝福あれ。やがて来たらんとする、我らの父ダビデの王国に祝福あれ。いと高きところにホサンナ」。                                          新約聖書翻訳委員会訳
     新約聖書翻訳委員会訳

§「現実をみるということ、誠実であるということ」

  今年ももうすぐ、半年が過ぎようとしています。3月11日以降は、東日本大震災と原発の事故とで、飛ぶように過ぎてしまったように思います。私たちの想像を超えるほど被害ですが、それにもまして、社会の閉塞感が見え隠れしています。
  それは、事実、真実を隠したり、情報を操作したり、ごまかしたり、ということがあまりにも多く使われていること、国の政治の中心にいる人たちが、今起きている事実を直視して、有効な対策を取ると言うことも行われていない点にあります。
  イタリアまで国民投票で脱原発を決めた一方で、自己の当事者の日本の政治家たちは、懸命に今停止している原発の再開を求めています。これだけのリスクをとっても、まだ使わなければならない理由は、どこにあるのでしょう。
  福島第1原発の1〜3号機の中が、実際どうなっているかについて、京都大学の小出裕章助教は、このように述べています。これは、地上波のテレビでは初めて昨日放送された内容です。

・「これまで東京電力は、『原子炉の炉心の半分まで水が入っている』と言っていたんですね。1号機も2号機も3号機もそうですけれども、でも1号機に関して、原子炉の中の水位計を調整し直したところ、『実はもう水は無かった』と言い出した。炉心という部分に水がないということがもし本当であるのなら、炉心は必ず溶けます。溶ける以外にないんだ。冷やすことができなければ。炉心っていったいどういうものかというと、ウランを焼き固めた瀬戸物の塊なんです。100トンの瀬戸物がドロドロに溶けて落っこちているということをみなさん想像して欲しいのですけれども、落っこちた物がどこに行き着くのかというと、原子炉圧力容器という圧力鍋の底に落ちるわけです。でも、圧力鍋は鉄でできている。鉄は1400度か1500度で溶けてしまう。そこに2800度になった100トンもの瀬戸物が落ちてくる。どうなるかといえば、底が抜けるんだ。底が抜けてしまったらどこに行くのかというと、その外側に今度は原子炉格納容器という鋼鉄の容器があるのですが、そこだって鋼鉄ですから、1400度か1500度で溶けてしまう。その上に落ちてしまう。またその格納容器にも穴が開くだろうと言うことは容易に想像できることなんですね。底も抜けてしまうと、今度はその下にかなり分厚いコンクリートの構造物があるんですけれど、その中に今、多分ウランがどんどん溶けながらめり込んでいっているという、そういう状況だと私は思っているのです。そうすると、そこにいくら水をかけたって、要するに溶かしたところにずっと落ちていっているわけですから、上に水をかけたってそんなもの冷えない。原子炉自身を冷やすことができない。外から水をかけようと、循環式の冷却回路を作ろうと、もう炉心を冷やすことはできないという状態になってしまっていると私は思います。その溶けたウランの塊がどんどん原子炉建屋の分厚いコンクリートを溶かしながら下に沈んでいって、その下は地面なんですね。そこで地下水に接触したときに汚染を地下水に移して、それを周辺に、多分私は海だと思いますけれども、海に汚染を出していくことになると思います。ですから、原子炉建屋の外にかなり深い穴を(岩盤まで)掘って、そこに深い壁を作って、溶け落ちた炉心が地下水にできるだけ接触しないようにする、接触したとしても汚染が海に流れないようにするという、そういう作業がこれからできる唯一のことかなと思うようになりました」。

   自己を軽く見せようとしたり、ごまかそうとするのではなく、まだ間に合う、しなければならないことをきちんとする、ということができないと、本当に恐ろしいことがさらに起きるのが目に見えていますね。
   日本ではまだ、このような大きな会社や政府で働く人々の多くが向いている方向が、民衆の生命や尊厳の方に向いてはいないのです。未だに封建制度の中に暮らしているようです。
   主イエスが言われたように、「あなたの神を愛しなさい。あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」ということが広まるなら、私たちの世界はもっとずっと良くなるのに、と思います。
   今日、私たちは、夕方にキャンドルライト・コンサートを開きます。このような世の中ですが、私たち一人一人、神さまからいただいた生命と、愛と、希望と、信仰の種を分かち合いつつ、人生に歩みを進めていくことができますように。

*マタイによる福音書5:14−16節
 あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべての者を照らすのである。このように、あなたたちの光が人々の前で輝くようにせよ。そうすれば彼らは、あなたたちの良い行ないを見て、天におられるあなたたちの父を賞め讃えるであろう。
 
§「ガリラヤからエルサレムへ」

  さて、今日の聖書箇所は、ガリラヤ地方で宣教活動をしていた主イエスが、エルサレムに向かう旅に出発する場面です。

① マルコによる福音書10章1節
 そして彼はそこから立ち上がって、ユダヤの地域とヨルダンの彼方にやってくる。すると、再び群衆が彼のもとへ集まってくる。そこで彼は、いつものように再び彼らを教え続けた。

 ガリラヤ地方から、エルサレムに向かうには大きな理由がありました。それは、聖地エルサレム、エルサレムの神殿がユダヤ教の中心地であったことです。そしてそこにこそ大きな問題があったのです。神さまは、神殿の中に閉じ込め、この世の権力者が利用するためにあるのではないぞ、というとても強い意志があったのです。
  当時も今も、聖地エルサレムですが、実態は「聖地」というには程遠い、人間社会としての問題が凝縮されているような場所です。民族紛争、人種差別、宗教同士の対立...なわばりの主張のし合い。
   パレスチナ人のタイル屋さん、マヘールさんが、こういっていたのが忘れられません。「エルシャライムっていのは、平和の街という意味だよ。でも、一体どこに平和があるっていうんだ」。
今日、大変混乱を複雑な問題を抱えたところになってしまいました。国際紛争、民族紛争の中心地の様相を呈しています。今年はジャスミン革命で、中東の多くの国が変わろうとしています。パレスチナの独立を実現して、イスラエルがパレスチナ人を尊重し、とその国家を作ることをすすめれば、中東の情勢は大きく変わることでしょう。
  では、イエスが入っていこうとしていた当時のエルサレムは、どのような場所だったのでしょう。ダビデが町を造り、ソロモンが神殿を建てたユダヤ人の宗教的民族的中心地エルサレムは、バビロン捕囚や、バビロン捕囚からの帰還などの紆余曲折を経て、紀元前63年、ローマのポンペイウスによって占領され、ローマの支配下に入ってしまいます。その後、ローマによってユダヤの王に任命されたヘロデが神殿を大改築し、多くのユダヤ人が、過越祭、刈入れの祭り、仮庵祭に集まるようになります。
  ローマの占領下にあるので、ユダヤ人達は民族的なアイデンティティーを求める傾向が強かったことが予想されますし、神殿税や、祭りからの収益によって、宗教的な特権階級が生まれ、こうした人々の腐敗が進む中、貧しい人々は生活に苦しんでいる、といった社会的な矛盾や問題点が吹き出していたと考えると、エルサレムに対する人々の思いはかなり複雑なものだったのではないかと思われます。
  また、ちょうど戦後、日本を掌握するために戦勝国、特にアメリカが、象徴的な天皇を残して、その象徴天皇制を利用して日本を治めようとしたのと同じように、ローマ帝国も、属国となったユダヤのユダヤ教を公認宗教として認める代わりに、人々を掌握するために利用したのです。
  そして、このピラミッド型社会は、差別構造を生み出します。宗教的戒律、例えば家畜を飼っている人々など、職業柄、安息日を守れない人々、病人や障害者など、穢れているとされる人々は地の民と呼ばれ、差別の対象となりました。女性も同様です。そして、もちろん、異邦人や異教徒も差別の対象になりました。
  イエスの福音は、こうした人間社会の構造をそのまま反映するような宗教のかたちとは、正反対のものでした。そしてはっきり、エルサレムの神殿を中心とする宗教のありかたを批判します。

*ルカによる福音書6:20
 幸いだ、乞食たち(貧しい者たち)、神の王国はあなたたちのものだ。

そして、私たちの進む道も、新たに指し示して下さったのです。
  「悔い改めて福音を信じなさい」と訳される箇所は、「福音(よい知らせ)の中で(神を)信ぜよ」、ということであると学びました。回心、悔い改めについて、M.J.ボーグとJ.D.クロッサンによる解説をご紹介します。

・マルコによる福音書は、イエスの公的活動の開始宣言を、「悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)という言葉で締めくくります。ここで「悔い改め」という語は、のちの教会が一般に理解する「罪の悔悛(かいしゅん)」と異なる、二つの意味を持ちます。ヘブライ語聖書(引用者注:旧約聖書を指す)によると、それは「帰還」 ー とくに「捕囚からの帰還」 ー を意味し、したがって「道」や「旅路」という言葉を連想させる表現です。ギリシャ語の語源には、「自分の考えを越える」というニュアンスがあります。すなわち「悔い改める」とは、自分の考えを越えた道を進むことを意味します。(ボーグ、クロッサン)

  まさに、神さまと共に歩む道は、「自分の考えを越えた道」を意識しながら歩むことに他なりませんね。予期せぬ導きがあり、予期せぬ危機が訪れ、また素晴らしい解決も与えられるのです。
 そして常に、私たちの考えを越える、神さまが共にいて、また、私たちの考えを越える道が与えられるのです。


・信仰という言葉にも、キリスト者が一般に理解する意味と異なるニュアンスがあります。信仰とは一般に、ある言明や教理が正しいと考えることです。しかし、古代において「信仰」とは、信頼とか忠義などの姿勢とより深い関係がありました。したがって、マルコが「福音を信じなさい」と訴える場合、それは神の王国が近づいているという知らせに信頼を置き、その王国のありかた(道)に忠実であることが求められているのです。(ボーグ、クロッサン)

  言い換えれば、神に忠実に生きる道を歩む、ということです。それはまた、とかく人間は傲りや、権力へのおもねりを持ちやすく、また差別心も持ちやすいが、それを知った上で、そのような過ちを犯さず、主イエスが指し示された道を選択して辿る、という生き方です。

* マタイ7:14
「狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入って行く者は多い。しかし、命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかである」
            
                                          2011年 6月19日  礼拝   高橋  誠日本キリスト会川崎教会牧師 

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