Yes, when this flesh and heart shall fail, そう、この肉体と心臓とが止まるとき、 and mortal life shall cease; 死を免れ得ない人間の命は終わります。 I shall possess, within the veil, a life of joy and peace 私は、見えなくなりますが、 喜びと平和に満ちた生命を得ます。
アメリカの女性の小説家、パール・バックの「Beech Tree」(ブナの木)、日本語の本の題名は「さよならなんかいや!」には、死期が迫ったことを感じたおじいさんが、孫娘と共に散歩をしたときに、一本の古いブナの木を指し、彼女に「何が見えるかい」、と問いかけます。孫娘は、「枯れかかったブナの大木と、その周りに生えるひこばえの若い木々が見える」と答えます。おじいさんは、その木が、自分の命が終わりに近づいていることを感じて、根っこに新しい木々を生むように指令を出し、若い木々が生えてくる。若い木々は、その大木の根から、水と栄養をもらって育つが、やがて自分の力で生きるようになる。この年老いた木が枯れる頃には、もうこの若い木々は自立しているのですが、これらの若い木々は、あの年老いた木がなければ生まれることはなかったし、あの年老いた木は、たとえ自分は枯れてしまっても、この若い木々の中に生きているのです。 私たち、一人ひとりは決して完璧な存在ではありません。それでも、神さまは私たちを愛していて下さいます。私たちには一人ひとり、与えられている賜物があります。それぞれが与えられている恵みです。その恵みを生かすよう、懸命に生き、後は神さまに委ねるしかありません。私たちにできないこと、それを可能にするのは、神さまです。 そして、私たち一人ひとりの人生は、それだけで完結しているのではないのです。受け継いだ大切なこと、福音を伝えていくこと、受けた愛を伝えていくことで、生命が受け継がれていくのです。人生について、生きる意味について、また、死について考える時に、‘The Fall of Freddie the Leaf’(葉っぱのフレディー)という作品を思い起こします。 この題名は、直訳すれば、「葉っぱのフレディーの秋」なのですが、秋、fallは、葉が落ちることを意味していますので、「葉っぱのフレディーの落ちるとき」とも訳せます。 葉っぱのフレディーは、生まれてから、様々な出会いを重ね、ついに最期の時を迎えます。しかし、それは、ただの終わりでも、希望のないものでは決してありません。このお話の、最後の部分を、ご紹介します。英語の本文の後、日本語にも訳してあります。
・from pp.21-23, Leo Buscaglia, ph.D.‘The Fall of Freddie the Leaf’
As he fell, he saw the whole tree for the first time. How strong and firm it was! He was sure that it would live for a long time and he knew that he had been a part of its life and it made him proud.
Freddie landed on a clump of snow. It somehow felt soft and even warm. In this new position he was more comfortable than he had ever been. He closed his eyes and fell asleep. He did not know that Spring would follow Winter and that the snow would melt into water. He did not know that what appeared to be his useless dried self would join with the water and serve to make the tree stronger. Most of all, he did know know that there, asleep in the tree and the ground, were already plans for new leaves in the Spring.