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日本キリスト会川崎教会コミュの「洗礼者ヨハネまでと、イエスから」ルカ16:16−17

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「洗礼者ヨハネまでと、イエスから」

* ルカによる福音書16章16−17節

 律法と預言者たちとは、ヨハネに至るまでである。そのときから、神の王国の福音は告げ知れされ、皆その中へ力強く(注:オリジナルの佐藤研訳では「暴力的に」、引用者が改変)なだれ込んでいる。
 また、天と地とが過ぎ去る方が、律法の一角がすたれ落ちるよりもたやすい。
新約聖書翻訳委員会訳
§「大きな変化」

  人生の中には、大きな出会いや出来事があります。そして、素晴らしい出会いは、人々が望んでいることです。しかし、今回の災害のような出来事は、突然やって来る、出会いたくない、しかも乗り越えなくてはならないものです。
  しかし、私たちはその過程で、また新たな出会い、そして新しい経験を積み重ねて行き、新たな力、新たな希望を得ることが来ます。

*ローマ人への手紙5:1−5
 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストをとおして私たちは信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。のみならず、私たちは患難の中にあっても誇っている。それは、私たちが次のことを知っているからである。すなわち、患難は忍耐を生じさせ、忍耐は確証を、確証は希望を生じさせるということを。希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。

  数々の出会いの中でも、主イエスとの出会い、神との出会いは、大変大きいものです。人生をすっかり変えてしまうほどの出会い。今日の聖書箇所の前半はまさにそのようなインパクトの強い出会いの感動があらわれていますね。パウロにも、同じ経験を語っている箇所があります。

*コリント人への第2の手紙5:17
「もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。見よ、新しくなってしまったのである」  

新しくなってしまった! 価値観の変化、逆転。神が共にいて、弱い者と共にあること、困難の中にいる人たちと寄り添うこと。
  つい二日ほど前に、アメリカのオバマ大統領が、新しい独立国になることになっているパレスチナに武装して入植しているユダヤ人入植者に、入植地のパレスチナへの変換を迫る演説を行いました。これも、弱い立場の人たち、差別を受ける側、迫害と弾圧と貧しさの中にいる人たちに新たな希望をもたらしたことだろうと思います。
  今回の災害で、特に原発の問題を掘り下げていけば行くほど、大国支配の思惑や政治家や財界人の思惑などが、人々の意見や世論にも大きく影響を与えている大きな問題がたくさんあることを知ります。
  先日、アメリカ・インディアンの詩人、ジョン・トゥルーデルの録音を聞いていましたら、以下のような箇所に出会いました。

Living in Reality(ジョン・トゥルーデル1983年)
ディアブロ・キャニオン/今日私は原子力発電所に反対して立ち上がった/(カリフォリニア)州兵たちが私を捕らえ、まあ、彼らは私を捕らえたと思ったのさ、プラスティックの手錠で私の両手首を縛って/私を取り囲んでいたのはプラスティックの心とプラスティックの顔を持った者たち//彼らは私をバカにしたが、私には彼ら自身がどんなに自分たちをバカにしているか、ということを見て取れた。

   このディアブロ・キャニオンは、カリフォルニア州サン・ルイス・オビスポ郡にあり、そこには原子力発電所があります。ここは、サンフランシスコとロサンジェルスのちょうど中間点にあって、私がはじめてアメリカでのキャンプに参加した場所でもあります。
  この原発の状況は、福島第一原発や浜岡原発の置かれている状況、立地、そして安全のプロパガンダに至るまで、まるでそっくりです。そして、反対する人たちに対する迫害や弾圧なども。

・(ウィキペディア/英語版より)
  ディアブロ・キャニオン原子力発電所はカリフォルニア州サン・ルイス・オビスポ郡エイヴィラ・ビーチにある。地学的な断層の真上に建てられていて、二番目の断層に隣接している。(中略)当初、近くにあるサンアンドレアス断層、ホスグリ断層など四つの断層によって引き起こされるマグニチュード6.75の地震に耐えるように設計されていたが、後に7.5までに耐えるように改良された...

・(ディアブロ・キャニオン原子力発電所のホームページより)
  ようこそ、ディアブロ・キャニオンへ
ディアブロ・キャニオン原子力発電所はすべてのカリフォルニア人にとって安全で、清潔で、信頼が置けるなくてはならない資源です。この発電所は、低コストで清潔な電気を、カリフォルニア北部・中部のほぼ三百万世帯へ供給しています。

   安全神話も、原発の設計もすべて、アメリカからの輸入だ、ということがよくわかるエピソードです。しかし、この安全神話がどこから生まれたかと言えば、原子爆弾とその軍拡によって世界での力を確立し、原子爆弾の技術を使って発電所を作るという危険な計画を、 原子力の平和利用(Atoms for Peace)という美しい言葉に包んで民衆から隠そうとし続けた歴史なのです。ですから、アメリカも原子力の利用については、日本と同じ土壌にあることを感じます。
アメリカは、第二次世界大戦中に、マンハッタン計画という名で、原子爆弾の開発と製作を多額の予算を用いて行いました。
   原爆症認定集団訴訟で内部被爆についての証言を行ったことで知られる矢ヶ崎克馬氏はこのように言っています。すこし長いですが、引用します。

・「原爆を投下した米国政府が、核爆弾の威力のすさまじさにビックリしたということがありまして、この核爆弾を使って世界コントロールを、いわゆる核戦略として展開するときに、放射線で長い時間がかかってずっと健康破壊がされていくというこの放射線の効果を消し去ろうとした、そういう間違った核兵器像を造ろうとしたのです。そのために、内部被爆という放射能のほこりを吸い込んで被害を受けるという、この被害のタイプというのは完璧に晩発性被害、時間が経った後にでてくる被害という風に言われますが、これを完璧に否定するというということを科学的な操作でさせたということがあります。この科学的な操作に、アメリカのエネルギー省、エネルギー省の前身の原子力委員、そういった科学者が携わっていて、それを日本の科学者集団がバックアップ、一緒になりながら科学的操作をしたという歴史があります」。
   そして、アルファー波やベーター波による体の中からの被爆、内部被爆はないことにして、1957年に作られた、原爆による被害者を救済するはずの原爆医療法の被爆者の定義は、爆心地から2キロメートルにいた人、というアメリカの作った基準を踏襲して、実際に被爆し、特に内部被爆による癌や白血病で苦しむ人たちを苦しめ続けたのです。
  そして、今、その同じ考えに基づいて、一般に人たちは年間1ミリシーベルトの被爆まで安全、とか、学校の校庭の被爆の許容量を年間20ミリシーベルトにしようなどと、内部被爆の大きさを考えない流れが続いています。
  このような、意図的で政治的なごまかし、情報操作がずっとまかり通ってきた原子力の歴史。それ自体に、本当に大きな問題を感じます。原子力発電をやめ、その歴史を勉強し、よく反省して、新しい道に足を踏み出していく、被災地の食べ物を政治家が食べてみせるパフォーマンスではなく、食べ物はみんな調べて、汚染されているものは食卓に挙げない様にすることで、被災地の人たち、特に小さな子供たちを守ることが必要です。

§「洗礼者ヨハネまでと、イエスから」
  さて、今日の箇所にも、前半と後半とで大きな価値観の相違があります。まったく矛盾していますね。

* ルカによる福音書16章16節
 律法と預言者たちとは、ヨハネに至るまでである。そのときから、神の王国の福音は告げ知れされ、皆その中へ力強く(注:オリジナルの佐藤研訳では「暴力的に」、引用者が改変)なだれ込んでいる。
・17節
 また、天と地とが過ぎ去る方が、律法の一角がすたれ落ちるよりもたやすい。

  この前半には、今までの価値観と全く違う、神の権威をそのまま得ているように語り、神が共にいることで得られる自由を持ち、そのように生きた主イエスに出会った衝撃、喜びがよくあらわれています。その勢いは、10章18節の稲妻をも思わせます。

*ルカによる福音書10章18節
「私は、サタンが天から稲妻のように落ちるさまを見とどけた。
 
  しかし、17節にあるように、律法の一角を擁護するのは、主イエスらしくありません。マタイ5章7節以下は、保守的で他の文化や考えの人たちとの調和が得られそうだという意味で人気がありますが、ここは、先ほどのルカ16:17同様、後に付け足された部分です。

*マタイによる福音書5章17−22節
  私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのである。(なぜなら、アーメン、私はあなたたちに言う、天と地が過ぎ行くまでは、律法から一点一画も過ぎ行くことは決してなく、すべてが成るであろう。したがって、これらの最も小さい掟の一つですら破棄し、そのように人々にも教える者は、天の王国において最も小さい者と呼ばるであろう。しかし、これらの最も小さい掟を行い、そのように人々にも教える者、その者こそ天の王国においては大いなる者と呼ばれるであろう。たしかに私はあなたたちに言う、あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ人たちのそれにまさっていなければ、あなたたちは決して天の王国には入ることはないであろう。)

  神の愛、それを実践する生き方は、とてもダイナミックな生き方でした。とっても根源的(ラジカル)で純粋です。そして、私たちも、直接、神と対峙して、神がよしとされる道を歩くのです。

*マルコによる福音書12章28〜34節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、「聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこでお前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くし、お前の想いを尽くし、お前の力を尽くして愛するであろう。第二のものはこれだ、お前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

*マタイによる福音書 7:12
 だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことはすべて、そのようにあなたたちも彼らにせよ。まさにこれが律法と預言者たちにほかならない。
*マルコによる福音書 2章27
  そして彼らに言うのであった、「安息日は人間のためにできたのであって、人間が安息日のためにできたのではない。だから、人の子は安息日の主でもあるのだ」。
*マルコによる福音書3章 4節
「安息日に許されているのは善をなすことか、悪をなすことか、命を救うことか、殺すことか」。

2011年 5月22日  礼拝   高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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