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日本キリスト会川崎教会コミュの「盛大な宴会のたとえ」Lk14:15-24

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「盛大な宴会のたとえ」

*ルカによる福音書 14章15〜24節

 すると、一緒に食事の席で横になっていた者たちのある者が、これを聞いて彼に言った、「幸いだ、神の王国でパンを食する者は」。
 そこでイエスは彼に言った、「ある人が盛大な宴会を催そうとしていた。そこで多くの者を招いた。そして宴会の時刻になると、自分の僕を遣わして、招待客たちに言った、『お出で下さい、すでに準備は整いましたので』。すると皆、異口同音に辞退し始めた。最初の者は彼に言った、『畑を買ったので、出かけて行って、それを見ずにはおれません。お願いですから、ご寛恕(かんじょ)下さい』。また、もう一人の者が言った、『牛を五つがい買ったもので、そいつらを検べにまいります。お願いですから、ご寛恕下さい』。また、もう一人の者が言った、『妻を娶りましたもので、そのために参ることができません』。そこで、その僕はやって来て、彼の主人にこれらのことを報告した。すると家の主人は怒って、その僕に言った、『急いで町の大通りと小路へ出ていき、乞食たちや体の不自由な者たちや盲目な者たちや足の萎えた者たちをここに引っ張ってこい』。そこで僕は言った、『御主人様、お言いつけ通りにしましたが、まだ余地がございます』。すると主人は僕に対して言った、『街路や垣根のところへ行って、無理強いしてでも人を中へ入れ、私の家を一杯にするのだ。実に、私はあなたたちに言う、招待客どものうち、一人たりとも私の宴会を味わう者はないであろう』」。                                                                           新約聖書翻訳委員会訳


§「旧約聖書の時代から続く、この世の勢力の行いに警鐘を鳴らす預言者たちの闘い」

   先週は、素敵なイースター・サンデーになりました。イースター・コンサートでは、あたたかい讃美の歌声と、ほほ笑みとで満たされました。とても嬉しいことです。多くの人たちが、神さまの福音を求めていること、愛と平和と、そして社会で起きている問題の本質を知ることと、人生の喜びを求めていることを感じます。久しぶりに会う人たちも、みな親しく声をかけあい、子供たちの成長を見て、喜び合いました。ここに集い、共にゴスペル・ミュージックを歌い、その言葉のひとつひとつをかみしめた人たちの輪を、大切に育てていくことができますように。
  東日本大震災から、本当に多くが変わってしまいましたが、その中で、人々が協力し合ったり、また原子力発電の問題を、一生懸命に考えたり、調べたりする人たちも増えました。
  神さまばかりでなく、正義も、戦争もそして環境保護までも、自分たちに都合の良いように利用しようとするひとたちはいるものです。
  今回の原発事故の後も、人々の反対があるために、原発が古くなっても新しいものに取り替えられなかったのたために、このような電力不足が起こった、というような意見が飛び交っていました。放射能は健康にいいという学者まで現れて、滑稽なほどですが、これほどまでに危険な原子力発電を使い続ける意味があるのだろうか、ということを考えていましたら、おもしろい詩の一節に出会いました。

You always said people don’t do what they believe in, they just do what’s most convenient, then they repent...Bob Dylan & Sam Shephard, ‘Brownsville Girl’
あなたはいつも言っていましたね、人々は彼らがよいと信じることをするのではなく、ただ一番都合のよいことをして、後で後悔するんだ、って。
確かに、そういうところはありますね。戦争を引き起こすのも、あるいは目先の問題を棚上げにするようなことの数々も同じようですね。目先の問題の解決ばかり見るな、もっと先を見なさい、そして、弱い立場の被害者となるひとたちとどう向き合うか、ということが大切ですね。そのことを常に語っていたのは、預言者たちでした。この世で勢力を誇る人たちに、愛と平和との道を語って、回心を求めるのです。
・「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち変える。国は国に向かって剣を上げず、戦いについて二度と学ぶことはしない。ヤコブの家よ、われらもヤハウェの光のうちを歩もうではないか」。イザヤ書2章4b~5(関根清三訳)

  そうですよね、剣を鋤に、槍を鎌に打ちかえて、平和を選択することがいかに大切なことか、しかし、その選択をする者は少ないのです。「ファースト・フード・ネイション」という本を書いて、マクドナルドなどのファーストフードの歴史や経営戦略の問題、食品加工の問題、またそれが健康に与える影響を深く告発したエリック・シュローサーは、一食百円弱で済むハンバーガーは、手軽で安いと思ってたくさん食べると、成人病を引き起こす原因になるものがたくさん入っているため、「ファーストフードは、実際は長期的に見れば、高価な食べ物なんですよ」、と言っていました。
  原子力発電も、似ていますね。安く見えて、実は長期的には大変お金もかかり、人々の健康をもむしばむおそろしい存在です。最近いろいろな数字がでますが、数字をごまかす、操作するのはかなり簡単なことですね。
  例えば、原子力発電の大切さを強調するために、発電所全体の中で、原子力発電の割合を高く見えるようにするためには、他の火力発電所をいくつか止めれば、数字は上がりますね。
   もう一つ、資源エネルギー庁が出している、原子力発電がいかに効率がいいかということを示そうとするデータをご紹介します。100万キロワットの発電所を一年間運転するために必要な燃料は、石炭なら220万トン(20万トンの貨物船で11隻分)、石油なら140万トン(20万トンのタンカーで7隻分)、天然ガスなら110万トン(20万トンのタンカーで5.5隻分)、それに対して原子力発電所で使う濃縮ウランなら30トンですむというのです。10トントラックでたった3台分ですから、大変少なくて済むように見えてしまいます。
   しかし、30トンの濃縮ウランをつくり出すためには、まず、13万トンのウラン鉱石をが必要です。しかし、その13万トンのウラン鉱石を掘り出すために、240万トンもの残土がでます。これは放射性廃棄物です。そしてウラン以外のまざりものを取り除くために、精錬しますが、ここで鉱滓(こうさい)が13万トンもでます。これは、さらに強い放射性廃棄物です。そしてさらに天然ウラン190トンを得るために精錬を続けると、劣化ウラン(DU)が160トンもでます。これは、大変強い放射性廃棄物で、大変硬くて強い金属です。その特性を利用して、アメリカは劣化ウラン弾という砲弾を大量につくり、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争で多用しました。そして、190トンの天然ウランからやっと30トンの濃縮ウランができあがり、これが核燃料になります。そして、これも使い終わると大変扱いの難しい使用済み核燃料としてすべて放射性廃棄物になります。ということは、253万トンもの放射性廃棄物を出し続けることになるのです。 そして、採掘から、あとの処理まで、携わる人々に大きな健康被害を与え続け、環境を破壊し続けるのです。
*詩篇 10:3
 神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
    これは詩篇の言葉ですが、パレスチナ人を蹂躙し続けるイスラエルも、まさにこの過ちの中にいることは間違いありません。
§「盛大な宴会のたとえ」
ルカによる福音書14章は、安息日に、イエスがパリサイ派の指導者の家に入って、共に食事をしている場面です。

* すると、一緒に食事の席で横になっていた者たちのある者が、これを聞いて彼に言った、「幸いだ、神の王国でパンを食する者は」。( ルカによる福音書 14章15節)

 パリサイ人(すなわち、70年の神殿崩壊の後は、唯一残ったユダヤ人)の一人が、感慨深げに言う、「幸いだ、神の王国でパンを食する者は」は、どのような気持ちで語られたのでしょうか。これは、「選ばれた民である(はずの)、神の王国でパンを食することを保証されている自分たちはなんと幸いなんだ」。ということです。そして、この譬え話は、この一言へのリアクションとして語られる編集になっています。ルカによる福音書 14章16〜21節をもう一度お読みしましょう。
   大変喜ばしいはずの盛大な宴会に、招待した者たちが誰も来てくれないとは!ルカは、この譬を、「原始教会における福音宣教史のアレゴリー(寓喩)として受け取らせようとしています」(川島重成)すなわち、この宴会を催す「ある人」はイエス・キリストを指し、宴会は、終わりの日に神によって催される宴、そして「招待された者たち」は特権的なユダヤ教徒たち、そして「乞食たちや体の不自由な者たちや盲目な者たちや足の萎えた者たち」は、このユダヤ教社会で相手にされなかった「地の民」(アム・ハー・アーレツ)や病人、異邦人を指します。
 すると、神の救いに与る者たちは、ユダヤ教社会で、救われたものたちとされるような人々、すなわち自分たちを選ばれた民だとして、他の人々を蔑んではばからない傲ってしまったひとびとではなく、むしろ、貧しい者たち、そしてこの世の中で最も小さい者たちであった、ということです。
 豊かな者たち、戒律を守って暮らしている者たち、宗教的、階級的な優越感の中にいる者たちではなく、この世の中で虐げられ、自分たちでは救いを得られず、主イエスにすがるしかない人々を、神は選別することなく、皆連れてきてこの宴会の席に着かせるのです。

*ルカによる福音書6:20bー21 幸いだ、乞食たち、神の国はそのあなたたちのものだから。/ 幸いだ、いま飢えている者たち、あなたたちは満腹するだろうから。/幸いだ、いま泣いている者たち、/あなたたちは大笑いするだろうから。

 という、「幸いの詞」としっかりつながりますね。
    さて、今までの読み方は、アレゴリー(寓喩)としての読み方でした。アレゴリーは、その指し示すものが明らかになってしまえば、その役割は終わってしまいます。しかし、イエスの語られた譬え話は、譬え話でしか伝えられないことを伝えている、隠喩が物語になっているもの、という特徴があります。身近な事柄を語り、驚くべき意外な展開があり、そして新しい世界が示されるのです。
 では、ルカやマタイの編集部分をできる限り切り取って、もともとイエスが話された姿に迫る努力をするなら、どのような読み方ができるでしょうか。

*W.ハルニッシュによる再構成(広石望訳)
 ある男がかつて大きな宴会を催した。そして晩餐の時刻に、彼は僕を送り出し、招待客に言わせた、「来て下さい。もうすっかり準備ができました!」
 すると、皆がいっせいに言い訳を並べ始めた。 最初の者が彼に言った、
 「私は土地を買いました。私はどうしてもそれを見に行かなければなりません。申し訳ありませんが、失礼させていただきます」。
 そして、次の者が言った、「私は二頭ずつ五組の牛を買いました。これからその品定めに行くところです。申し訳ありませんが、失礼させていただきます」。
 そして、第三の者が言った、 「私は妻を一人娶ったばかりです。ですから、私は伺うことができません」。そして僕は帰り、そのことを主人に報告した。すると主人は怒って、僕に言った、
 「急いで(町の?)通りに出て行きなさい。そして出会った人を連れて来なさい!」
 僕は、命じられた通りにした。そして家は一杯になった。客で大入り満員!

 先ず最初の聞き手の驚きは、晩餐に招待された人々が、普段の仕事や、日常のことを理由に招待を受けないおかしさだと思います。盛大な晩餐なんて、一生に何度あるかわからないくらいなのに、それを断るなんて!イエスのおおらかな神の国の福音に触れた人が、それよりもユダヤ教の戒律の方がいいなんて、どういうことなんだ?っていう感覚とつながります。え!こんなに素晴らしい福音があるのに、今までどおりがいいの? こうして、招待された人は来ないけれど、僕を送って、片っ端から人を集めたら、この晩餐の知らせを、うわっ、嬉しい!と飛びついた飾らない人々が一杯集まり、この盛大な宴会は実現されました。このはち切れんばかりの喜びは、イエスとの出会い、神の国の福音との出会い、そして救いの喜びそのものですね。


2011年 4月24日  礼拝   高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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