① ルカによる福音書 13:34−35 エルサレムよ、エルサレムよ。預言者たちを殺し、自分のもとに遣わされた者たちを石打ちにする者よ。私は雌鳥が自らの雛の群れを翼の下に集めるように、何度お前の子らを集めようとしたことか。しかしお前たちはそれを望まなかった。見よ、お前たちの家は見棄てられる。そこで私はお前たちに言う、お前たちは、二度と私を見ることはないだろう、お前たちが、『主の名によりて来る者に祝福あれ』、と言う時が来るまでは」。
② マルコによる福音書10章32〜34節 さて、彼にエルサレムにのぼる途上にあった。そしてイエスは彼らの先頭に立って進んだ。そこで彼らは肝をつぶし、従う者たちは恐れた。そこで彼は再び、十二人をわきへ連れて行き、やがて自分の身に起ころうとしていることを彼らに語り始めた、「見よ、私たちはエルサレムにのぼる。すると人の子は祭司長たちや律法学者たちに売り渡される。そして彼らは彼を死を持って断罪し、異邦人たちに引き渡すだろう。そして彼らは彼をなぶりものにし、彼に唾をかけ、かれを鞭打ち、そして殺すだろう。そして三日後に、彼は甦るだろう」。
③ マルコによる福音書11章15〜19節 こうして彼らはエルサレムにやって来る。そしてイエスは神殿境内に入ると、神殿境内の中で売り買いする者たちを追い出し始め、両替人たちの台と鳩を売る者たちの椅子とをひっくり返した。また誰にも神殿境内を通って道具を運ぶことを許さなかった。そこで教え始め、彼らに言った、「聖書には次のように書かれているではないか、私の家は、あらゆる民族の祈りの家と呼ばれるであろう。 それなのにお前たちは、それを強盗どもの巣にしてしまった」。そこで祭司長たちと律法学者たちはこれを聞き、どのようにして彼を亡き者にしようかと考えた。なぜなら彼らは群衆を恐れたからである。というのも、すべての群衆が彼の教えに仰天していたからである。 新約聖書翻訳委員会訳
§「見よ、私は今日も明日も、悪霊どもを追い出し、癒しを行い続ける」
春は大変美しい季節ですね。教会の庭には、黄色いヤマブキが毎年咲きますが、これは私が生まれるより前から毎年ここで咲いています。街の様子はこの50年でかなり変わってしまっています。ビートルズのIn My Lifeという歌に、「よく思い出す場所がある/私の人生のなかで/変わってしまったところもあるけどね//永遠に変わってしまったところもある、よりよく変わったんじゃないよ/失われてしまった場所も、まだ残っている場所もある」と歌われていることを思い出します。もちろん、昔はすべて良くて、今はダメということではありません。 教会の前の通りは、旧東海道で、歴史的な場所を解説する立て札や、安藤広重の東海道五十三次の浮世絵がお店のシャッターに印刷されていたりします。しかし、その他に昔の様子をうかがえる景色はほとんど遺っていないので、興味が半減します。自然の地形や植物など、そこにずっとあるものほど、人を惹きつけるものはありません。 数年前に奈良を訪れました。確かに人が多く足を運ぶ東大寺の大仏殿や薬師寺も大きさやダイナミックさを感じますが、他に歩いている人もまばらな、早朝の奈良公園の大変古い木立の間ほどの感動はありません。まるで原生林のような迫力があり、木々の香りに包まれます。 こうした感動は、すでに経験していることや、予想していることを越えるものです。 また、今度の東日本大震災の直後、海外のメディアが、略奪や暴動に走らずに、助け合いながら、水や食料をもらうにも静かに並び、秩序を保っていたことを驚きとともに報道していました。やはり、これも人々の予想や理解を越えるものでした。 神さまと共に生きるということは、こうした私たちが感動する素晴らしいことのその奥に働いている、おおきな力、存在を意識して生きることだと思います。常に、私たちの理解を越えた、さらに先があるという思いです。人が傲慢になることを許さない、大きな存在です。