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日本キリスト会川崎教会コミュの「『忠実な僕』の本心がもし...」マタイ24:43-51

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「『忠実な僕』の本心がもし...」

①マタイによる福音書 24章43−44節
 だから目を覚ましておれ。あなたたちの主がどの日に来るか、あなたたちは知らないためである。
 次のことを知っておくがよい。つまり、家の主人は、何更頃(なんこうごろ)に泥棒がやって来るのかわかっていたら、目を覚ましていて、自分の家に穴を開けられるのを放っておかなかったであろう。このゆえに、あなたたちがまさかと思う時刻に、人の子は来るからである。
     並行箇所:マルコ13:35、ルカ12:39−40
②マタイによる福音書 24章45−51節
 主人がその召使いたちの上に立て、彼らに時に応じて糧を与えるように任命した、忠実で賢い僕とはいったい誰か。幸いだ、主人がやって来て、そのようにしているところを認められる、かの僕は。アーメン、私はあなたたちに言う、主人はそのすべての財産の管理を、彼に任せるであろう。
48 しかし、それが悪しき僕で、自分の心の中で『俺の主人は遅れている』と思い、僕仲間を殴り始め、また酔っ払いどもと食らい、かつ呑んでいるならば、その僕の主人は彼の予期しない日に、そして彼の知らない時刻にやって来て、彼を細切れにし、彼の運命を偽善者どもと同類にするであろう。そこでは嘆きと歯ぎしりとがあるであろう。
     並行箇所ルカ12:42−46 
   新約聖書翻訳委員会訳


§「新しい経験」

  まだまだ寒い朝が続きますが、季節はずっと春めいてきましたね。通りがかりに教会の庭の花を楽しむ人たちがちらほら見受けられるようになりました。梅や、オトメツバキや、沈丁花がとてもきれいに咲いています。それに水仙もまだ咲いていますね。いつも思いますが、自然の持つ力の大きさを感じます。ほんの少しの土にも、命の息吹を見いだすことができます。
  私の副鼻腔炎の手術は無事に終わり、予定通り退院することができました。皆さんにお祈りいただき、ありがとうございました。ほんの十日間の入院ですが、全身麻酔の手術や、その後の処置、そして、医療に携わる人たちの仕事の一部、また、他の患者さんたちのことなど、様々なことを見たり聞いたり、大変勉強になりました。
  その中で、様々な病気に加え、人それぞれに訪れる人生の壁、また、生きるよりどころが見つからないこと、孤独など、経済的な問題の他にも、多くの問題があることを思います。
  改めて、神さまと共に生き、人と人とのつながりを大切に生きることが、どんなに人々に必要なことかということを考えました。


§「夜の盗人の譬え」

 さて、今日の箇所の前半はマタイによる福音書24章の「夜の盗人の譬」です。26章からはじまる受難と、27章の十字架での死を目前にして、24章は神殿崩壊預言にはじまり、人の子(注:神の国の到来を擬人化したもの)の到来と、終末の接近が語られる、大変切迫した場面です。

*マタイによる福音書24章29ー33節
 さて、それらの日々における患難の後、すぐさま、太陽は陰って日を失い、月はその光を放たぬようになるであろう。そして星辰は天より落ちるであろう。そして天の諸力は揺り動かされるであろう。そしてそのとき、人の子の徴が天に現れるであろう。そしてそのとき、地上の諸族は胸を打って嘆くであろう。そして彼らは、人の子が力と多くの栄光を伴い、天の雲に乗って到来するのを見るであろう。そして彼は、大いなるラッパと共に自分の御使いたちを遣わし、彼らは、彼のために選ばれた者たちを天の果てから果てまで、四方から呼び集めるであろう。
 いちじくの木から、次の譬を学べ。その枝がすでに柔らかくなり、葉が生じると、夏が近いとあなたたちは知っている。このようにあなたたちも、これらすべてのことを見たならば、彼が入り口のところまで近づいていることを知れ。

 そして、その時がいつなのかは、わからないということが強調されます。

*マタイによる福音書24章36節
 しかし、かの日とかの時刻については、誰も知らない。天の御使いたちも、子も知らない。ただ父のみが知っておられる。

 そして、この状況が、ノアの箱船の洪水の事件と重ね合わせ、ノアを備えができている人として描き、備えができていなかった人たちの悲惨な結末が語られます。このような記述は、48節以下にも見られますが、これは、マタイの教会が、今すぐにでも来そうな、終末を待望していたのに、その終末がなかなか来ない。そこで、終末を目前にした熱い心、緊張感がゆるんでいくのを阻止するために、このような脅しの表現が加えられたと考えられています。
 それから、「夜の盗人の譬」が、「目を覚ましておれ」という文章で始まります。

*マタイによる福音書 24章43−44節
 だから目を覚ましておれ。あなたたちの主がどの日に来るか、あなたたちは知らないためである。
 次のことを知っておくがよい。つまり、家の主人は、何更頃(なんこうごろ)に泥棒がやって来るのかわかっていたら、目を覚ましていて、自分の家に穴を開けられるのを放っておかなかったであろう。このゆえに、あなたたちがまさかと思う時刻に、人の子は来るからである。

§「『忠実』な僕の本心がもし...」

 そして、この続きは、「忠実で賢い僕」の譬えです。

*マタイによる福音書 24章45−47節 
 主人がその召使いたちの上に立て、彼らに時に応じて糧を与えるように任命した、忠実で賢い僕とはいったい誰か。幸いだ、主人がやって来て、そのようにしているところを認められる、かの僕は。アーメン、私はあなたたちに言う、主人はそのすべての財産の管理を、彼に任せるであろう。

  これは、私たちの生き方、神さまに任されたことを忠実に行うことをで認められる「僕」です。また、教会などの指導者でも、同じですね。リーダーとしてしっかりと任務を全うするのです。
  しかし、48節からは、がらっと雰囲気が変わります。

*マタイによる福音書24章 48−51節
48 しかし、それが悪しき僕で、自分の心の中で『俺の主人は遅れている』と思い、僕仲間を殴り始め、また酔っ払いどもと食らい、かつ呑んでいるならば、その僕の主人は彼の予期しない日に、そして彼の知らない時刻にやって来て、彼を細切れにし、彼の運命を偽善者どもと同類にするであろう。そこでは嘆きと歯ぎしりとがあるであろう。

  神さまから任されたはずの、よい僕であったはずの者が、主人である神さまが離れていて、ここに来ないとたかをくくって、好き勝手にその立場を利用するなら、「彼を細切れにし、彼の運命を偽善者どもと同類にするであろう。そこでは嘆きと歯ぎしりとがあるであろう」、というのですから、かなり厳しい警告、しかも罰則付きの警告ですね。
  ここでの一つの疑問は、罰則の恐ろしさで教育するようないい方を、主イエスがするのか、という問題です。「こうするべきだから、こうする」、というのではなく、「先生に怒られるから、あるいは、お母さんに怒られるから、こうしなさい」、という教育方法と似ていないか。仏教で、地獄絵図や閻魔大王の像を見せて、地獄の恐ろしさを見せ、そのようなところに行かないよう教育するのと似ているのではないか、ということです。
   これとの比較として、マルコによる福音書12章の、すべての中で、第一の掟とはなんでしょう、という問いに答える部分を挙げたいと思います。

*マルコによる福音書12:28ー34
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、『聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう』。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

  命令文である箇所が、皆、未来形になっています。これは、神の命令を表す、とても強い未来形で、それを言われている人に、それに従うか従わないかの選択肢がないほど強い命令形なのです。しかし、その命令形は未来形なので、必ず、あなたはそうなる、という宣言でもあるのです。
  主イエスの福音に生きるようになったら、あなたは、神を愛し、あなたの隣人をあなた自身として愛するようになるのだ、という断定的な未来形なのです。

  マタイによる福音書は、この世の終わり、神さまによる最後の審判がある、終末は遅れているが、今にも訪れるかも知れない、ということを主張します。

*マタイによる福音書24章32−36節
 いちじくの木から、次の譬を学べ。その枝がすでに柔らかくなり、葉が生じると、夏が近いとあなたたちは知っている。このようにあなたたちも、これらすべてのことを見たならば、彼が入り口のところまで近づいていることを知れ。
 アーメン、私はあなたたちに言う、これらすべてのことが起こるまでは、この世代が過ぎ行くことがない。天地は過ぎ行くであろう。しかし私の言葉は決して過ぎ行くことがない。
 しかし、かの日とかの時刻については、誰も知らない。天の御使いたちも、子も知らない。ただ父のみが知っておられる。

 ちなみに、ルカによる福音書は、もうすでに、終末がまもなく来るということは誤解(ルカ19:11)で、「終末までの長い期間に教会がしっかり宣教に励むべきと主張」(橋本滋男)している、というところにまで行ってしまっています。ですから、ルカによる福音書だけに、同じ編集者による、イエス・キリストの後の教会の時代について書いた、使徒行伝があるのです。


 *コリント人への第一の手紙13:6
  愛は--寛容であり、親切である--愛は。愛は妬まず、愛は自慢せず、高ぶらず、ふさわしくない振る舞いをせず、自分自身のものを求めず、苛立たず、悪しきことを企まず、不義を喜ばず、しかし真理を共に喜ぶ

2011年 3月 6日  礼拝   高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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