ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「あなたの中の光」ルカ11:33−36/改訂版

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「あなたの中の光」

①ルカによる福音書11章33−36節
 ともし火をともしてから、それを穴蔵の中(や枡の下)に置く者はいない。むしろ燭台の上に置く。そうすれば、家の中に入る者たちがその光を目にすることができる。
 身体のともし火はあなたの目だ。あなたの目が純真なとき、あなたの全身も輝いている。しかしあなたの目がよこしまなときは、あなたの身も暗闇だ。
  したがって、あなたの中の光が闇ではないように留意せよ。そこでもし、あなたの全身が輝いており、暗闇の部分がどこにもないならば、ちょうどともし火がその煌(きら)めきであなたを輝き照らすときのように、全体が輝いているだろう」。

②マルコによる福音書 4章21節
  また彼は彼らに言っていた、「ともし火は、枡の下や寝台の下に置かれるためにやって来るだろうか。燭台の上に置かれるためではないか。                                         新約聖書翻訳委員会訳

③ トマス福音書 24
  彼が彼らに言った、「耳ある者は聞くがよい。光の人の只中に光がある。そして、それは全世界を照らしている。それが照らされないならば、それは闇だ」。

④トマス福音書33
 誰でも明かりをともして、それを枡の下に置かないし、それを隠された場所に置かない。むしろそれを燭台の上に置く。入ってきたり出て行ったりする人々が、すべて彼らの光を見るように。   
荒井献訳

                                          
§「明かりをともし続ける」

  先週のクリスマス礼拝と、クリスマス・イブの集いには、様々な人たちが出席して、また新しい輪が広がっていったように思います。いつもお会いしているみなさんのお友達やご家族にも会えて、また友情の輪が広がってくのは、とても嬉しいことです。
  クリスマス・イブには、48人もの参加がありました。親子で来てくれる人たちも増えました。高田英語学園に長年子供が通っていて、初めて来て、「こんなに楽しいと想像もつかなかった」と、嬉しそうに話してくれたお母さんもいました。ここ数年いつも思うのですが、教会に集まる人たちが皆、一生懸命協力して一緒に支えてくれることですね。素晴らしいことだと思います。
  このように特別な時に来てくれる人たちにも、私たちは、ここがいつでも帰ってこられる場所であること、嬉しいとき、悲しいとき、人生の歩みの中で祈りが必要だと感じたとき、戻ってくることが出来る場所として、明かりをともし続けることが私たちの役割なのだと思います。
クリスマスのお話も、ただ物語をなぞるだけでなく、その物語が持つ意味まで考える、そしてそれを語ると言うことも、大変重要なことです。はじめて教会に来た多くの人たちも熱心に聞いてくれました。これはとても嬉しいことです。主イエスがこの世に来て、そして行ったひとつひとつのことがどんな意味を持ち、どんなインパクトがあったのかを歴史的にとらえて、目の前でそれが起こっているかのように再構築しよう、理解しようとすることの大切さを私におしえてくれたのは、ジョン・ドミニク・クロッサンです。聖書に書かれたひとつひとつの出来事を、宗教的な意味づけという色眼鏡を通して見るのではなく、なぜ、どうしてそんなことが、起こったのかを少しでも追体験できるようにお話ししています。
  ちょうど30年前のクリスマスですが、私が当時通っていた明治学院大学のクリスマス礼拝の説教者に、ある日本文学について独自の大変鋭い批評をすることで有名な牧師が招かれていました。私もその人の本を何冊か読んでいて、さて、クリスマスの礼拝にいったいどんな切り口でお話をされるのだろうと楽しみにしていたのですが、マタイによる福音書とルカによる福音書のクリスマス物語をミックスしたあらすじをただなぞって、儀式的な礼拝に徹して講壇を降りたのです。そして、その礼拝を共に持てることが大きな喜びだという言葉を残して。
  実際は、クリスマスのお説教の多くがこのようなお話なのだろうと思います。これは、話し手にとっても、聞き手にとっても、安全な方法なのかも知れません。クリスチャンであれば誰もが予想するお話を、誰もが予想するように話し、人々は予想通りの話を安心して聞くのです。そして、何の疑問も持たないのです。しかし、それでは、クリスマスのお話が生きません。また、説教者と聞き手の距離も、短くはなりません。
  なぜ、主イエスが救い主なのか、救い主とは、どのような存在なのか。そして、主イエスの到来が、なぜ、どのように私たちを愛と平和と喜びで満たすのか。これらの問いかけにしっかりと向かい、ひとつひとつの聖書の言葉、ひとつひとつの主イエスの言葉や行いについて語るとき、私がどれだけ理解しているか、理解はどこまで進んでいるか、どのように読み解くことができるかが、しっかりあらわれるのです。 説教者自身の信仰告白なのです。まさに、ありのままの今の自分をさらけだしているのです。多くの人たちはそれを非常に恐れます。しかし、このような努力があるからこそ、聖書や福音の理解は深められるのです。そして、その福音を分かち合えたら、さらにお互いに理解しあえるようになるのです。

*ローマ人への手紙5:1−5

 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストをとおして私たちは信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。のみならず、私たちは患難の中にあっても誇っている。それは、私たちが次のことを知っているからである。すなわち、患難は忍耐を生じさせ、忍耐は確証を、確証は希望を生じさせるということを。希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。


 §「あなたの中の光」

  今日の聖書箇所にはともし火がでてきます。最初の部分、33節は、ルカも持っていた一番古い福音書、マルコによる福音書の4章21節が元になっています。

*マルコによる福音書 4章21節
  また彼は彼らに言っていた、「ともし火は、枡の下や寝台の下に置かれるためにやって来るだろうか。燭台の上に置かれるためではないか。

  このともし火は、火そのものともとらえられますが、主イエスが伝えようとした、神の国の福音としてもとらえられますね。また、その福音を受けて、平和と愛とがいかに大切かを学び取り、神の愛に生きる生き方と言ってもいいでしょう。そのような素晴らしいこと、生き方を隠しておくことはないではないか。

*ルカによる福音書11章33節
 ともし火をともしてから、それを穴蔵の中(や枡の下)に置く者はいない。むしろ燭台の上に置く。そうすれば、家の中に入る者たちがその光を目にすることができる。
 
  とても納得できる表現ですね。そして光の反対は、闇です。主イエスの福音を知らないで不安と恐怖に流されて生きる生き方が、闇として表現されます。
  不安と恐怖は、私たちが普段思う以上に、多くの行動の動機付けになっています。軍備の増強や核兵器の開発から受験産業、また、健康のための補助食品ビジネスにいたるまで、不安と恐怖は人を動かす原動力です。
  しかし、健康的な動機付けは、やはり不安や恐怖より、希望と喜びです。しっかりとした生き方の指針を持っていること、光を持っていることが、明るい生き方の基本です。
  エジプトのナグハマディーで20世紀に見つかったトマス福音書にこのような表現があります。

*トマス福音書 24
  彼が彼らに言った、「耳ある者は聞くがよい。光の人の只中に光がある。そして、それ(光)は全世界を照らしている。それ(光)が照らされないならば、それ(世界)は闇だ」。

私たちも、ひとりひとり、神さまから光をいただいています。そして、私たちの次の世代の子供たちひとりひとりにも光が与えられ、心の中で輝いていることを感じます。それぞれの持つ光を大切に、光がのびのびと輝けるようにしたいですね。
 川崎リトルライト・シンガーズのグループの元になった歌、This Little Light of Mineは、「私のこの小さな光、私は輝かせます」、という歌です。輝くことを妨げないように、どこでも輝けるように、というのは教育のありかたの基本ですね。
  34−36節は、マタイとルカが共通して持っていたイエス語録(Q資料)です。


*ルカによる福音書11章34−36節
 身体のともし火はあなたの目だ。あなたの目が純真なとき、あなたの全身も輝いている。しかしあなたの目がよこしまなときは、あなたの身も暗闇だ。
  したがって、あなたの中の光が闇ではないように留意せよ。そこでもし、あなたの全身が輝いており、暗闇の部分がどこにもないならば、ちょうどともし火がその煌(きら)めきであなたを輝き照らすときのように、全体が輝いているだろう」。

  この、「あなたの中の光が闇ではないように留意せよ」って、すごい警告ですよね。あなたが光だと思っていることが、実は闇だっていうことがないようにしなさいというのは!エルサレムの聖墳墓教会に行ったときに、これを強烈に感じました。様々な宗派が宗教的な儀式を厳かに行いながら、勢力争い、示威行為をお互いに繰り返しているのです。彼らとしては、宗教的儀式を自分たちの組織のために懸命に行っているのでしょうが、そこに主イエスが伝えた、隣人愛や平和はどこにあるのでしょうか。これは、あらゆる人々の今を問う、自らを省み、吟味することを求める言葉ですね。
  澄んだ目は、ユダヤ文学では、純真な心を指すのだそうです。心に秘めた違うよこしまな心、二心を持たない、まっすぐに澄んだ心。 それは神とマモンとの両方を見ている目ではないこと、 一つなる神を見ることができる目を指します。
  
*マタイによる福音書6:24
 いかなる者も、二人の主(あるじ)に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するだろうから。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するだろうから。あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない。

  そして、その澄んだ目は、幼子が親を見るようなまっすぐな目です。子供のまっすぐで純真な愛情や信頼。それを大人は見過ごしたり、気がつかなかったりしがちです。親になったり、大人になって子供たちと交流することで、このような心を再発見したときの感動は大きいですね。

*マルコによる福音書10章13−16節
 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスがこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない」。そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。   

*ヨハネ8:12
「私は世の光である。私についてくる者は闇のうちを歩むことはなく、生命の光を持つ」


   2010年 12月 26日  歳末感謝礼拝
  高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング