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日本キリスト会川崎教会コミュの「主の道を備えよ」待降節第一聖日礼拝

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「主の道を備えよ」

* マルコによる福音書 1章1−15節
  神の子イエス・キリストの福音の源。
預言者イザヤの書に次のように書いてあるー「見よ、私はお前の面前に私の使者を遣わす。彼はお前の道を整えるであろう。荒野で呼ばわる者の声 ー、『お前たち、主の道を備えよ。彼の小径を直くせよ』」。この言葉のように、浸礼(バプテスマ)施す者ヨハネが荒野にあらわれ、もろもろの罪の赦しとなる回心の浸礼(バプテスマ)を宣べ伝えていた。そして、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民とが彼のもとに出て行き、自らのもろもろの罪を告白しながら、ヨルダン河の中で彼から浸礼(バプテスマ)を受けていた。そしてヨハネはらくだの毛ごろもを着、その腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜とを食べていた。
   そして彼は宣教して言った、「私よりも強い者が私の後から来る。私はその者の皮ぞうりの紐をかがんで解く値打ちもない。私はお前たちに水で浸礼(バプテスマ)を施した。しかし彼こそは、お前たちに聖霊によって浸礼(バプテスマ)を施すだろう。
9 するとその頃、次のようなことが生じた、すなわちガリラヤのナザレからイエスがやって来て、ヨハネからヨルダン河の中で浸礼(バプテスマ)を受けた。そして、水から上がるとすぐに、彼は天が裂け、霊が鳩のように彼のところに降ってくるのを見た。そして天から声がした、「お前は私の愛する子、お前は私の意にかなった(私はお前を喜んだ)」。
12 すると、霊がすぐに彼を荒野に送り出す。そこで彼は、サタンによって試みられ続けながら、四十日間荒野にいた。そして彼は、野獣たち共におり、御使いたちが彼に仕えていた。
14  さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。そして「神の福音」を宣べ伝えながら言い続けた、「(この)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。                                                                         新約聖書翻訳委員会訳
                                           
§「主の道を備えよ」

  今日から、待降節に入りました。クリスマスが4週間後に近づきました。毎年、この時期に、神さまから主イエスがこの世に与えられた意味を、純粋な喜びの思いで迎える子供たちを見ながら考えつつ迎えることが出来るというのは、幸せなことだと思います。

* ヨハネによる福音書15:5
  私が葡萄の木であり、あなたがたは枝である。人が私のうちに留まっていて、私も彼のうちに留まっているなら、この人は多くの実を結ぶ。

  私たち一人ひとり、それぞれ主に出会い、信仰の道を進んでいます。主イエスという木に同じようにつながりながら、誰一人として同じ者はいないのです。そして、主イエスと、どのように出会ったかも、どのように信仰の道を歩んでいくかも、それぞれ違いますが、それぞれに意味が与えられていることを思います。
 福音書の中でも、イエスと弟子たちとの出会いには、それぞれ特別なものがあります。
先ずは、シモンと彼の兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子、ヤコブとヨハネです。

*マルコによる福音書1:16ー20 
 そして彼は、ガリラヤの海辺を歩いていたとき、シモンとシモンの兄弟アンドレアスとが海で投げ網をしているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「さあ、私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」。そこで彼らはすぐに網を棄てて、彼に従った。
 また少し進んで行くと、彼はゼベダイの子のヤコブとその兄弟のヨハネを見た。すなわち、彼らは、舟の中で網を繕っているところだったのである。そこで彼はすぐに彼らを呼んだ。すると彼らは、その父ゼベダイを雇い人たちと共に舟の中に棄て、彼の後について去って行った。

  すごい場面ですね。これらの人々は、主イエスとの出会いによって、家族、仕事、故郷など、すべてを棄てて従っています。しかし、その前に、どんな出会いがあって、その中の何にこれほどまでに共感したのか、については、あまり語られていません。
 この場面のすぐ前のところは、どうなっているのでしょうか。

*マルコによる福音書1:14−15
 さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。そして、神の福音を宣べ伝えながら言い続けた、「この時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。

 ここで言われているヨハネは、洗礼者ヨハネです。彼が、ヘロデ・アンティパスによって拘留されてしまうのです。歴史的には、おそらく、主イエスは、洗礼者ヨハネと共に行動していたものと思われます。ヨハネは、荒野で、罪の悔い改めと、洗礼を受けることを説いていました。「主の道を備えよ。彼の小径を直くせよ」。
 神の前で、本当に謙虚な生き方をし、自らの行動を含めて、いつも吟味し、省み、修正しながら生きるという生き方、自浄作用がなければ、この世の流れ、仕組みは、どんどん腐敗へと進んでいきます。イスラエルの神は、エルサレムの神殿にいて、民衆はそこで燔祭を捧げることになっていました。燔祭を捧げるためには、燔祭の動物を買います。裕福な人は大きな家畜を、貧しい人は鳩などの鳥を捧げることになっていたそうです。しかし、この燔祭を捧げる行為は、あまりにもグロテスクなために、反対をしていた人たちもいたようです。既に、紀元前8世紀のアモス書に、このように書かれています。これは、神の言葉として書かれている部分です。

*アモス書5:21ー24
 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。(略)肥えた動物の献げ物も顧みない。(略)正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。

 ヨハネやイエスは、神殿中心の宗教が、人間社会の階級のピラミッドをそのまま反映していることにも異を唱えていました。荒野に出て、そこに人々を集め、人間による建造物など一切ない、厳しい自然の中で、神と向き合うことを説きます。そして、ヨハネは、ヘロデ王の息子のひとりで、ガリラヤとペレアの領主、ヘロデ・アンティパスを激しく非難し続けたため、捕らえられ、ついには処刑されてしまいます。ヘロデ・アンティパスは政略結婚で結婚したナバテア国の王の娘である自分の奥さんを追い出し、腹違いの弟ヘロデ・フィリポの妻、ヘロディアを奪って結婚したのです。
 主イエスは、このような出来事の最中に、人間の、権力者のエゴででたらめなこの社会を批判し、神の国を、ここに実現させようとするのです。神さまによる直接統治の、愛に満ちた社会を実現しようとされたのです。「この時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で(神を)信ぜよ」。
 弟子たちにとっては、この出会いは、自分たちの一生を献げる決心をさせるほどの、出会いであったのでしょう。

 そして、主イエスとの出会いは、歴史的に、ひとりの人間として、この世にいらした間だけでなく、ずっと続くのです。十字架による処刑のあと、復活のイエスとの出会いが、先ずは、空のお墓に驚いた、マグダラのマリヤたち、そして、弟子たちにもたらされます。そして、彼らはこの出会いによって、新たなる力を得るのです。
 そして、パウロの回心は、大変劇的でした。

*使徒行伝9章1節ー9節
 さてサウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んでいた。そこで、彼は大祭司のもとに行って、ダマスコスにある諸会堂宛の手紙を求めた。それは、この道(ホドス/キリスト信徒)に従う者を見つけ次第、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いて来るためであった。ところが、行ってダマスコスの近くまで来ると、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」という声を聞いた。そこで、彼はたずねた、「主よ、あなたはどなたですか」。すると答えた、「私はお前が迫害しているイエスである。起きて町に入りなさい。そうすれば、お前のなすべきことが告げられるであろう」。サウロと共に来た者たちは、ものも言えずにそこに立っていた。声は聞いたが、誰をも見なかったからである。サウロは地から起き上がった。しかし、目を開けても見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いて、ダマスコスに連れて行った。サウロは三日の間目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。

 パウロが生きていた、「正しい」人生は、大変厳格なものでした。その生き方自体は、大変まじめで、賞賛すべきものでした。しかし、その正義には、欠けたものがありました。それは、愛です。神の愛。パウロは、主イエスとの出会いによって、神の愛を命がけで宣べ伝える者とされたのです。

・正義は愛の体であり、愛は正義の精神である。正義と愛が分離されれば、人は倫理的に死ぬのである。愛のない正義は残虐さを生み、正義のない愛は陳腐な言葉でしかないのだ。 ...J.D.クロッサン

 聖書の記述は、イエスについても、パウロについても、ベスト・セラーになるような、成功物語では、決してありません。この点については、冷徹なまでのリアリズムが貫き通されています。
 しかし、主イエスが伝えてくださった、神の愛、神の王国の福音の中に生きるなら、この世の中で、どのようなことが起こったとしても、魂を売って死んだように生きたり、シニシズム(ものごとを斜めに見て、冷笑的に振る舞う生き方)の中に無駄に人生を送ったりしないのです。

*ヨハネによる福音書11:25ー27
 私は甦りであり、生命である。私を信じている人は、たとえ死んでも生きることになる。

 そして、私たちは、主イエスの福音により、神の前で、取り繕うのでも、逃げるのでもなく、そのままの姿で、「アバ、父よ」と、叫び、祈りによって、神と語り、共に歩むことが赦されているのです。

*ガラテヤ人への手紙4章4〜7節
 しかし、時が満ちた時、神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。それは、律法のもとにある者たちを彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。さて、あなたがたは神の子たちであるので、神は、自らの子の霊、「アバ、父よ」と叫ぶ霊を、私たちの心の中へ送って下さった。かくして、あなたは、奴隷でなく、むしろ子なのである。そしてもしも子であるのなら、神による相続人でもある。 

 イエスのヘブライ語形「イェホーシュアー」は、「ヤハ(=ヤハウェ、即ちイスラエルの神)は救い」を意味します。そして、もっとも、へりくだった、もっとも小さな存在として、生まれる主イエスの姿には、まさにこのことが、クリスマス物語という形をとって、伝えようとされているのです。

*マタイによる福音書1章23−25節
 見よ、乙女が身重になって男の子を産むであろう、
 そして人々はその名を、「インマヌエル」と呼ぶであろう。
この名は訳すれば、神、我らと共にという意味である。そこでヨセフは夢から覚めて、主の御使いが彼に言い渡したようにし、その妻を受け入れた。そして彼女が男の子を産むまでは、彼女を知ることはなかった。そしてその子を「イエス」と名づけた。

*マタイによる福音書11章28−30節
 私のもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこの私が、あなたたちに安らぎを与えよう。私の軛をとって自分に負い、私から学びなさい。なぜなら私は柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見いだすであろうから。私の軛は担いやすく、私の荷は軽いからである。

   2010年 11月28日  
待降節第一聖日礼拝  高橋  誠  
日本キリスト会川崎教会牧師

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