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日本キリスト会川崎教会コミュの「エッファタ(開け)」マルコ7:31−37

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「エッファタ(開け)」

*マルコによる福音書7章31〜37節

 さて、彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地域のただ中に来た。すると人々は、彼のところに耳が聞こえず、舌もまわらない一人の者を連れてきて、この者の上に手を置いてくれるように彼に乞い願う。そこでイエスは、彼を群衆から離して一人にし、自分の指を彼の両耳に入れ、唾をつけて彼の舌に触った。そして天を仰ぎ見て嘆息し、彼に言う、「エッファタ」。これは「開け」という意味である。するとすぐさま彼の耳は開かれ、舌のもつれも解けてまともに話した。そこで彼は、このことを誰にも言わないように彼らに命令した。しかし、命令しようとすればするほど、彼らの方はなおいっそう、イエスの行ったことを宣べ伝え出した。そして、とてつもなく仰天しながら言い続けた、「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ。耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」。
     新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳

§「勝ち取ること、恵みによって得られること」

   先週は、大変な暑さにもかかわらず、礼拝に多くの人たちの出席がありました。始めてこられた方や、久しぶりの方も共に、祈り、讃美をし、聖書を学び、語り合うことができるのは、素敵なことだと思います。私たち人間に必要なのは、共に生きる人々、共に人生を歩み、心を通わせることができる人々、そして共に集うことができる場です。
  どのようなときにも、私たちは決して一人ではなく、神さまが共にいてくださるということと同時に、それを実感することができる、共に人生を歩く人々が必要なのだと思います。
  先日、私の友人の一人から、連絡がありました。その人が去年まで一緒に働いていた面倒見のよい先輩が、買ったばかりのマンションで亡くなり、数ヶ月して発見されたというのです。多額のローンを組んでマンションを買った直後に仕事を失い、将来を悲観したのだろうということですが、大変悲しいことです。
   日本の社会は、豊かな社会だと言われています。また、安全や安心についてもたくさん言われますが、このように孤独や不安に突き落とされやすい社会だという面も持っています。日本に限らず、人間社会には、そのような面があります。しかし、そうしたことに潰されない、お互いに支え合い、勇気づけあえる自分たちのコミュニティーをしっかり持つことは、とても大切なことだと思います。教会は、まさにそのような場所なのだと思います。
   さて、ここしばらく、イエスの癒しについて学んでいます。イエスが行った癒しは、病によって穢れたとされた者、罪人として宗教的な伝統に基づいて疎外されている者、救いにあずかる希望をうち砕かれた人々もまた、神の王国に入ることができるという、非常に大きな解放でした。神さまの目から見たら、ひとりひとり、皆大切な、神さまの子なのだというメッセージです。

*ルカによる福音書6章20〜21節

幸いだ、乞食たち(貧しい者たち)、
神の王国はそのあなたたちのものだ。
幸いだ、いま飢えている者たち、
あなたたちは満腹するだろう。
幸いだ、いま泣いている者たち、
あなたたちは大笑いするだろう。

   私たちは、この世の中にあって、ここから解放されることが必要な者です。「誰か渇いている人があれば、私のところに来ていつでも飲むがよい」。(ヨハネによる福音書7章37節)と、招かれる必要に迫った者です。

*マルコによる福音書2章17節

 「丈夫な者に医者はいらない、いるのは病んでいる者だ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」。

  この「丈夫な者に医者はいらない」、はどのようなことかと言えば、自分にとって大切なこと、例えば幸せや、神さまの恵みなど、これらを懸命に、神さまに求める姿勢、謙虚さが大切なのだと言うことです。赤ちゃんがお母さんやお父さんを求めるように、神さまを求める人々に、救いや恵みが与えられるのです。
   現代的に言えば、私たちが得るひとつひとつの恵みは、神さまがいて、導いてくれているとしか思えないような不思議で素敵な出会いや、導きによって与えられていることに感謝できることですよね。日本語風に言えば、「おかげさまで」、という感じも、これに通じると思います。

*マルコによる福音書10章13−16節
 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスがこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない。」そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。   

  さて、その反対はどうかというと、神さまから与えられる恵みを、与えられたものとして大切に思うのではなく、すべての恵みは、自分たちの努力により、自分でそれを勝ち取ったものだと思って、おごり高ぶる人たちです。
  シュロモー・サンドの「ユダヤ人の起源」(どのようにして、ユダヤ人というものは作り上げたれたか)という本の中で興味深かったことの一つは、非常に熱心なユダヤ教徒たちの中に、イスラエルによる、パレスチナへの入植に反対している人たちがいることでした。パレスチナの地に、ユダヤ人が自分たちの民族国家を作り上げるということ自体に反対しているのですが、その理由が、神さまの恵みとして、神さまの手で成し遂げられるべき、新しいイスラエルの実現を、人間の手で推し進め、武力と政治力などあらゆる手段を講じてパレスチナの人々を押しやることは、間違っている、というのです。その通りですね。自分たちのエゴ、目的のためなら、あらゆる手段を講じて他の人々を差別し、追いやるなどと言うことは、神さまが喜ぶはずがないことです。

§「エッファタ(開け)」

 今まで、共にマルコによる福音書から現れる、実際に生きた人間イエス、史的イエス像を追って学びを勧めてきました。イエスは歴史的に見たら、間違いなく、歴史上に実在したひとりの人間にほかなりません。そして、当時のユダヤ教徒たちの待ち望んでいたメシア(キリストは、そのギリシャ語形)、すなわち「選民イスラエルを異邦人(ローマ帝国)の専制支配から解放すべき王的、戦士的指導者」(大貫隆)ではありませんでした。
 しかし、初期のキリスト教徒たちが、この世のメシア像とはかけ離れた、十字架の死を遂げたイエスを、救い主、キリストと信仰告白したように、私たちの心にも、全く新しい教えによって、この世の価値観を覆し、救いと解放を与えてくれたイエスは、まさに私たちのキリスト(救い主)に他ならないのです。
   さて、今日のテキストの最初、31節は、マルコによる福音書を書いた編集者マルコが、ユダヤ・パレスティナの地理をよくわかっていないので、この福音書はローマで書かれた、という仮説の根拠のひとつとされる箇所です。

*マルコによる福音書7章31節:さて彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地域のただ中に来た。

  これは、新共同訳では、「デカポリス地方(のただ中)を通り抜け、ガリラヤ湖へやってこられた」と訳されています。デカポリスをガリラヤ湖南東岸と捉えた場合、これでは道順がおかしいことになってしまいます。しかし、デカポリスをダマスカスまで含めた広い範囲の地域を指すとすれば、正しいことになります。ガリラヤ湖を中心に、時計回りにぐるっと半円分まわったことになります。また、「デカポリス地方(のただ中)に来た、ガリラヤ湖を通り抜け」と捉えると、デカポリスはガリラヤ湖南東岸ということになり、上記のような訳になります。いずれにせよ、マルコは特にこの地域の地理に不案内だったわけではない、ということになります。
   現在は、マルコによる福音書は、ガリラヤが非常に大切な役割を果たしている点から、ユダヤ人と異邦人が共に多く住む、ガリラヤ地方や、南シリア(ツロ・シドンやダマスカスも)など、ちょうどここで記述されているあたりで成立したのではないかと考えられています。
   マルコは、7章24節以下に続いて、イエスがここでも異邦人の地を旅し、再び異邦人をも癒したと表現することで、イエスの福音が、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも伝えられるべきものであることを表現しようとしたのでしょう。


   この中で興味深いのは、ギリシャ語で書かれた本文の中で、イエスご自身が話していた当時の共通語、アラム語の「エッファタ」が含まれていることです。外国語は、その不思議な響きから、魔術的な力を持った神秘的なもののように捉えられます。私は、お寺でサンスクリット語(梵語)が卒塔婆に書かれるのは、そういう理由によるものだと思っています。この場合、神秘性を保つために意味の開示はあまり行われません。
   しかし、マルコはすかさず、その意味を説明します。「これは『開け』という意味である。」同様な例に、以下の二箇所があります。

*マルコによる福音書5章41節
「タリタ・クム」、これは訳すれば「少女よ、(あなたに言う)起きなさい」という意味である。

*マルコによる福音書15章34節
「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」これは訳せば、わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか、という意味である。

  マルコは伝承を受けて、癒しの場面でイエスが用いたと伝えられる言葉を、そして十字架上の最期の言葉を、原語のアラム語で記し、その息づかいをも伝えようとしたのでしょう。そしてまた、イエスが行った癒しは、単なる魔術的なものではなく、したがって神秘のベールに包まれている必要もなく、率直に神の権威を受け継いで、「開け」と命じた、と言おうとしているのでしょうか。
 「人々の驚き」を表す37節は、創世記とイザヤ書と対応しています。「彼がこれまでやったことは、すばらしいことばかりだ」は、創世記の天地創造の締めくくりの言葉、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
 そして「耳の聞こえない者たちを聞こえるようにし、口の利けない者たちを話せるようにさえするのだ」は、イザヤ書35章5〜6節の「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
に対応しています。
 マルコの奇跡物語の記述は、マルコの信仰告白です。イエスの行いは、新しい世界を開いてくれた教えは、天地創造のように素晴らしく、イザヤ書で歌われた神の国の到来がまさにイエスのもとで現実になったのだ、という信仰告白。
 私たちの毎日の生活においても、主に与えられる信仰が、日々新たにされますように。

*コリント人への第一の手紙16章22〜23節
「マラナ・タ(われらの主よ、来たりませ)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。私の愛が、キリスト・イエスにあってあなたがたすべてと共にあるように」


2010年 7月11日  礼拝   高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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