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日本キリスト会川崎教会コミュの「あなたの信仰はどこにあるのか」マルコ4:35−

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「あなたの信仰はどこにあるのか」

*マルコによる福音書 4:35〜41  嵐を鎮める奇跡

 さてその日、夕方になった時、彼は彼らに言う、「向こう岸に行こうではないか」。そこで彼らは、群衆を岸辺に残しておいて、彼を舟に乗せたまま、沖へと漕ぎ出す。また、ほかの幾艘かの舟も共にいた。すると激しい暴風が起こる。そして大波が舟の中まで襲って来始め、たちまち舟が水で満杯になるほどであった。しかしイエスご自身は、舳(とも)の方で枕をして眠っていた。そこで彼らは彼を起こし、彼に言う、「先生、私たちが滅んでしまうというのに平気なのですか」。すると彼は起き上がり、風をしかり、海に命じた、「黙れ、口をつぐめ」。すると風は収まり、大きな凪が生じた。そこで彼は彼らに言った、「なぜ、あなたたちは臆病なのだ。信仰がまったくないのか」。そこで彼らは大いに恐れた。そしてお互いに言い続けた、「この人はいったい誰だろう。風や海でさえこの人に従うとは」。
新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
                                                                           
§「奇跡」

時々、大変不思議な思いに駆られることがあります。それは人と人との出会い、とか巡り合わせとか、人生の中のほんのちょっとした選択や偶然によって、私たちの人生の中での大切な出会いがあることが多いものです。こういうことに、私たちは神さまの働きを感じるわけですが、それはまた、大きな奇跡でもあると思います。考えてみれば、私たち一人一人がここに存在していること、命が与えられていることも大変なことですね。
  子供の頃に見た、セサミストリートのクリスマス・プログラムの中に、思いやりを交わしあい、愛情を分かち合うことができる友人たちがいることを、「それこそが、本当の奇跡、正真正銘の奇跡」(It’s a true blue miracle)であるということがテーマの番組がありました。神さまから私たちひとりひとりに与えられている、小さな光、愛情や、ほほえみや、様々な才能や適正や、ただ、その人がその人であることも。
  そして、主イエスがされた、数多くのことも、大変大きな奇跡ですが、その中で、理解しやすい奇跡は、私たちを、人間社会の力の論理(強い者が勝つ)や、そういう価値観の中で生まれる差別にどっぷりと漬かって、まったく出口が見えないような人間達に向かって、神の国の福音を伝え、その愛に生きる生き方を示し、私たちを解放して下さったことにあります。
  パウロも、このように言っています。

*ガラテヤ人への手紙4章4〜7節
 しかし、時が満ちた時、神は一人の女から生まれ、律法のもとに生まれた自らの子を、送って下さった。それは、律法のもとにある者たちを彼が贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためであった。さて、あなたがたは神の子たちであるので、神は、自らの子の霊、「アバ、父よ」と叫ぶ霊を、私たちの心の中へ送って下さった。かくして、あなたは、奴隷でなく、むしろ子なのである。そしてもしも子であるのなら、神による相続人でもある。   

  私たちは、発想を大きく変え、生き方を変え、主イエスの示された道を歩むことができる、これも大きな奇跡です。ジェイムズ・クリーヴランドというゴスペル・シンガーの歌に、Where is your faith in God?(あなたの神に対する信仰は、どこにあるの?)という歌があります。あるクリスチャンが、信仰に躓いたクリスチャンの数々の悩みを聞いているのですが、「ずっと病気なんだ」、といっても、「お金がなくなってしまったんだ」、と言っても、それに対する返答はいつも、 「あなたの神さまに対する信仰は、どこにあるの?」なのです。
   先日学んだ、神の王国の譬えの一つは、マルコによる福音書の4章26節以下です。

*マルコによる福音書4章26〜29節
 また彼は言うのであった、「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝起きることをくり返している。すると彼自身の知らないうちに種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶのであって、まず新芽、次に穂、次にその穂の中に豊かな穀粒をもたらす。そして、実が収穫を許す時になると、すぐに鎌を入れる。刈り入れが来たからだ」

この譬えを聞いていた人々は、驚いたことでしょう。確かに、植物の命も、人にはどうすることもできませんが、普通は下草を取り、肥料をやり、手をかけて作物は育てるものですが、この譬えでは、すべてを神に委ねています。
  マルコによる福音書では、1章から3章までに書かれていた癒しの奇跡の後、この4章から8章まで、また数多くの奇跡が報告されています。舞台はこれもまたガリラヤ湖。「向こう岸へ行こうではないか」と言われた後、激しい暴風が舟を襲って沈みそうになっても、イエスご自身は眠っておられたという場面。嵐に遭遇した弟子達は、あわててイエスを起こします。「彼は起き上がり、風をしかり、海に命じた、『黙れ、口をつぐめ』」。この「叱り」と「黙れ」が出てくるのは、1章25節と同じです。

*マルコによる福音書 1章23〜25節
 そして、すぐに彼らの会堂に穢れた霊に憑かれた一人の人がいて、叫びだして言った。「ナザレ人イエスよ、お前は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前が何者か知っているぞ、神の聖者だ」。そこでイエスは彼を叱りつけて言った、「口をつぐめ、この者から出ていけ」。

§「嵐を鎮める奇跡」

 嵐を鎮める奇蹟のエピソードでは、風が、1章23節の穢れた霊と同じ扱いになっています。霊(プニューマ)には風という意味もあるのは、「古代においては、空気の動きが霊魂の動きと思われた」(田川健三)というのは興味深いですね。また、旧約聖書では、嵐や大水が、信仰を揺るがすものの比喩として使われています。

*詩篇69:2 神よ、私を救ってください。大水が喉元に達しました。

 また、旧約聖書では、「人間に脅威をもたらす諸力である荒海や暴風が、神によって鎮められるという表象がしばしばあらわれ...その際、神が叱りつけることもある」(佐藤研)という例も見ておきましょう。

*詩篇77:17 大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て身もだえし、深淵はおののいた。
*詩篇89:10 あなたは誇り高い海を支配し、波が高く起これば、それを鎮められます。
*詩篇104:7 水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散っていき、とどろく御声に驚いて逃げていった。
*詩篇106:9 芦の海は主に叱咤されて干上がり、彼らは荒野へ行くように深い淵を通った。
*詩篇107:29〜30 主は嵐に働きかけて沈黙させたので、波はおさまった。

 嵐を鎮める奇跡のエピソードでは、詩篇で神が風や嵐を叱っていましたが、マルコによる福音書では、イエスがその役を担っています。神の業とイエスの業とを重ねています。
 ここで興味深いのは、当時のユダヤ人の多くが待ちわびていた、ローマの支配からユダヤ人を解放してくれる政治的・王的メシアの姿と、イエスの姿とは大きくずれているということです。政治的・王的メシア(=神の子)に求められていた奇蹟の種類は、石をパンに変えたり、エルサレム神殿の尖塔の上から飛び降りても天使によって守られて無傷ですむ(cf.マタイ4章、ルカによる福音書4章)というような、超自然的で、「救いの時の接近を告げる『しるし』の奇跡が求められた」(大貫隆)のに対し、イエスが行った奇跡は、病気の癒しや、今日のテキストのように、嵐を鎮めて、舟の同乗者たちを助ける、という種類のものでした。
 政治的・王的メシアを求める人たちは、イエスの奇跡を、自分たちが求める奇跡(しるし)だとは思っていなかったらしく、奇跡物語がたくさん続いた後の8章11節以下で、「天からの徴を彼に要求」します。それに対し、イエスは「この世代はなぜ徴を要求するのか。アーメン、私はお前たちに言う、この世代には徴は絶対に与えられないだろう」(12節)と応えます。
 次の箇所も、イエスがご自分が政治的・王的メシアではないこと、またそういう者を熱望することすら間違っているということを語りかけています。

*マルコによる福音書 13:21〜23
 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、「見よ、ここにキリストがいるぞ」とか、「見よ、あそこだ」とか言っても、信じるな。なぜならば。偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちを惑わせようと、徴と奇蹟とを行なうだろう。あなたたちはしかし、警戒せよ。私はあなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。

 神の国がもう手に届くところに実はあるんだ、もっとも小さな者こそが救われるんだ、ということを説きながら、病気の癒しを行っておられたであろうイエスの価値観は、政治的・王的メシアを望んでいた人々とはまったく違っていました。このことは、戦争での勝利を望む人々とも、まったく価値観が違うことをも意味しているのは明らかですね。
   さて、この奇跡物語ですが、こうした奇跡は、そのまま起こった事実が語られているのでしょうか。多くの欧米のクリスチャンは、その様に認めることが、信仰であると考えています。しかし、実際は、主イエスが、人間としてこの世に命を受けて生き、働き、十字架での死を経験した後、主イエスの生涯、語られたことをふり返り、主イエスの魂が、今も人々と共に生きているのだと気づいた初期のクリスチャンたちが、主イエスが神の子であることを示すような超自然的な奇跡物語を生み出し、あるいは収集します。もちろん、そのお話のモティーフになるような出来事があったり、自然現象があったかもしれません。数々のギリシャ・ローマの神話、あるいはアジアの神話のように、その神話自体に語りかけたいテーマがあるかもしれないのです。

* 夕方になった時、彼は彼らに言う、「向こう岸に行こうではないか」。そこで彼らは、群衆を岸辺に残しておいて、彼を舟に乗せたまま、沖へと漕ぎ出す。また、ほかの幾艘かの舟も共にいた。すると激しい暴風が起こる。そして大波が舟の中まで襲って来始め、たちまち舟が水で満杯になるほどであった。しかしイエスご自身は、舳(とも)の方で枕をして眠っていた。そこで彼らは彼を起こし、彼に言う、「先生、私たちが滅んでしまうというのに平気なのですか」。すると彼は起き上がり、風をしかり、海に命じた、「黙れ、口をつぐめ」。すると風は収まり、大きな凪が生じた。そこで彼は彼らに言った、「なぜ、あなたたちは臆病なのだ。信仰がまったくないのか」。そこで彼らは大いに恐れた。そしてお互いに言い続けた、「この人はいったい誰だろう。風や海でさえこの人に従うとは」。

  ガリラヤ湖には、北の方から激しい風が巻き起こることがあるそうです。主イエスは、その自然現象を知っていたという説もあります。ですから、平気で寝ていて、それが止む頃を知っていたのだとする説明です。しかしまた、この嵐の中で翻弄され、どうすればよいかわからなくなって混乱している人々は、まさに時代の荒波、戦乱や、社会的な混乱の中にあって、右往左往して道を見失う人々と重なります。そして、そのような中にあっても、神と共にあることによって得られる心の平和を得、流されず、光を見失わない生き方を指し示した神話物語であるとも捉えられると思います。そしてさらに、嵐を叱りつけて鎮める姿は、どのような大きな権力に立ち向かわなければならないことがあっても、神と共にあって、恐れることなく立ち上がり、批判を加え、後の大きな変化の種まきをした、主イエスが生きられた姿と、重なると思うのです。

*ローマ人への手紙5:1−5
 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストをとおして私たちは信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。のみならず、私たちは患難の中にあっても誇っている。それは、私たちが次のことを知っているからである。すなわち、患難は忍耐を生じさせ、忍耐は確証を、確証は希望を生じさせるということを。希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。

2010年 5月 2日  礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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