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日本キリスト会川崎教会コミュのイースター礼拝「あなたたちはなぜ、生ける者を死人たちのところで探すのか」

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「あなたたちはなぜ、生ける者を死人たちのところで探すのか」

*マルコによる福音書16章1〜8節

  さて、安息日が終わり、マグダラの女マリヤとヤコブのマリヤとサロメは、イエスに塗油を施しに行こうとして香料を買った。そして週の初めの日、朝たいへん早く、日の昇る頃、彼女たちは墓へ行く。そこでお互いに言い続けた、「誰が私たちのために、墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょう」。しかし、目を上げて見ると、なんとその石がすでに転がしてあるのが見える。というのも、その石はひどく大きかったのである。
  そして墓の中に入ると、彼女たちは白い長衣をまとった一人の若者が右側に座っているのを見、ひどく肝をつぶした。すると彼は彼女たちに言う、「そのように肝をつぶしてはならない。あなたたちは十字架につけられた者、ナザレ人イエスを探している。彼は起こされた、ここにはいない。見よ、ここが彼が納められた場所だ。むしろ行って、彼の弟子達とペトロとに言え、『彼はあなたたちよりも先にガリラヤに行く。そこでこそ、あなたたちは彼に出会うだろう』と。彼がかねてあなたたちに語った通りである」。
  しかし、彼女たちは外に出るや、墓から逃げ出してしまった。震え上がり、正気を失ってしまったからである。そして、誰にもひとことも言わなかった。恐ろしかったからである。                                                                                     
新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
                                                                           
§「イースター」

   春たけなわのこの時期は、野も山も生命に満ちています。教会の桜も満開ですし、ヤマブキも、オトメツバキも、チューリップもよく咲いています。とてもカラフルですね。
   今日は、イースターです。主イエスが十字架に掛けられ、3日目に復活したことを記念する日です。イースターの日は、毎年違いますが、覚え方はそれほど難しくはありません。春分の日の次の満月の次の日曜日です。各国の教会では、子供たちが卵探しをしたり、卵に絵をつけたりして楽しみます。礼拝の後、子供たちは、教会の庭で卵探しをしましょうね。卵探しに使ったのは、去年は本物のゆで卵でした。一昨年は、卵の形のボールでした。今年は何でしょうね。
   イースターになぜ卵かと言えば、卵は生命の象徴なのです。これは、冬至の頃にある、クリスマスにもみの木のクリスマス・トゥリーがあるのとよく似ています。もみの木のような常緑樹も、いつも葉っぱが緑(ever green)なので、生命の象徴です。おそらく、キリスト教が伝わる以前から、春、そして新しい生命を祝う風習があって、それが結びついたのだと思います。英国、アメリカ、ドイツなどでは、イースター・バニー(ウサギ)が、卵を届けてくれると子供たちは聞かされて育ちます。 輸入食品のお店には、この時期、卵やウサギの形をしたチョコレートが並ぶのはこのためです。 ウサギも赤ちゃんをたくさん産むので、生命の象徴です。スヌーピーの漫画(Peanuts)では、ビーグル犬のスヌーピーがイースター・バニーにあこがれていて、毎年イースター・ビーグルになって卵を配っていましたね。
  イースターは、イエスの復活をお祝いするので、明るく楽しいイメージなのですが、しかし、そもそも、イエスがなぜ十字架につけられて殺されてしまったのか、そして復活とはどのような意味なのかを考えることは、とても大切なことです。ただの不思議なおとぎ話として終わらせてはならないのです。
  歴史上のイエスが語ったこと、そして行ったことは、革命的なことでした。主イエスがいかに神を愛し、人々を愛し、男も女も、大人も子供も、ユダヤ人も異邦人も、虐げられた者たちも、病人も分け隔てなく接したか、そして、他者を裁いたり、差別したりすることに対し、激しく怒ったかは、福音書に活き活きと描かれています。(e.g.マルコ10:13〜、マルコ9:36〜、9:42〜!)小さい中の最も小さな人々と共にあり、私たちにもそのように愛し合い、主の愛の中に生きることを求めておられます。

*マルコによる福音書12:28〜31
  すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものはどれでしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、聞け、イスラエルよ。我々の神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう。第二のものはこれだ、あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

  「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」とは、何と力強い言葉でしょうか。しかも、この隣人すら、イエスは同じ民族、同じ考え方、同じ宗教の人々に限定したりはしないのです。神を愛し、人を愛する、という、全く根源的で、わかりやすく、しかし、人間社会ではなかなか実現できないことを、純粋に私たちにも求められました。
  「あなたの隣人を、あなた自身として愛する」とはどういうことでしょうか。その人も、あなたと同じように、神によって命が与えられた大切な人として、敬意をもち、自分や自分の家族、子供たちに対してするのと、同じように接する、ということです。
  もし、このような心で生きていくなら、戦争をすることも、民族による差別をすることもできなくなるはずです。しかし、西暦313年にローマ帝国のコンスタンチヌス帝がミラノの勅令によってキリスト教を公認して以来、キリスト教の国々は、神を旗印に、戦争と侵略を繰り返してきました。
  これは大変大きな過ち、というより犯罪です。ローマ皇帝のコンスタンチヌスがキリスト教を公認して、政治に利用したのは、イエスの生き方や言葉、神の国の福音のメッセージに共感したから、というわけではありませんでした。彼は、自分だけが権力を握って、独裁政治をする専制君主になりたくて、そのために、一人の神、そして神の子であるキリスト(救い主)という構図を、自分に当てはめ、一人の神、そして神の子である皇帝である自分に異議を差し挟ませない、独裁政治のために利用したのです。そして、その国の国民は、国王に従う者として、臣民と呼ばれ、特別な存在であると教育され、これから侵略しようとする国の人々がや他の民族を差別するのです。これでは、主イエスのメッセージとは正反対ですよね。
  神を旗印に、戦争と侵略を繰り返すことは、中世の十字軍や、近世、大航海時代以来の植民地政策、そして、ブッシュ政権時代のアフガニスタン侵攻、イラク戦争にまで続いています。(オリバー・ストーン監督の映画「ブッシュ」、原題は’W’、はブッシュ政権の時代をふりかえって考えるためにおすすめできます。)そして、これはユダヤ教を掲げるイスラエルによるパレスチナ占領と、植民政策にも繋がります。
  彼らは、対テロの戦いと言いますが、実際はテロを止めるには、侵略や抑圧(大国、あるいは侵略者によるテロ)をしなければいいのです。「テロを止めることは、実際はそんなにむずかしいことじゃないんだ。テロに荷担しなければいいのさ」。これは、言語学者で平和運動でも活躍するノーム・チョムスキーの言葉です。(「911」のという彼のインタヴューを集めたパンフレット:日本では文春文庫に掲載、ここでの訳は引用者による。)
  宗教がいかに民族主義の政治や、占領や、侵略や、戦争に利用されてきたかを確認することは、大切なことだと思います。日本も同様で、明治政府は、大日本帝国憲法を作るときに、ヨーロッパのキリスト教国が、キリスト教を柱としていかに国民を統制しているかを調べ、日本ではこれに換わるものとして、国家神道を作り上げ、占領政策にも利用してきました。日本国民を臣民として特別視し、中国や朝鮮半島の人々を差別し、日本の軍部や兵隊達の多くが、中国や朝鮮半島の人たちを同じ人間とは思わないような行いを重ねたことは、大きな問題です。その影響は、普段の生活や民族差別意識などに、今でも根強く残っています。桜の花を見て、「ああ、日本人でよかった〜」、とか言っている人を結構見かけますが、花を見るのに、なに人かなんて、関係ありませんよね。
  ここに、パレスチナの子供達の写真があります。今、パレスチナの人々は、イスラエルが作った壁の中に押し込まれ、自由を奪われ、あまりの怒りに、石を投げてイスラエル兵に抵抗したりすると、銃で撃ち殺される、というようなことが毎日のように起こっています。でも、この子達ひとりひとり、本当は私たちの子供たちと同じように大切な存在のはずですよね。
  歴史上、私たちと同じ人間として、この世で暮らしたイエスは、自分たちだけが清くて、他の人は穢れているという差別を否定し、それに立ち向かい、正そうとしました。後で川崎リトルライト・シンガーズが歌う、Seek Ye Firstの中に出てくる、「神の義」、神の正しさというのは、神の目には、誰でも同じように大切な子なのだ、ということ、そして私たちとしては、 あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい、ということなのです。
  ユダヤ教の神殿を中心とした社会の中で、神さまは神殿の至聖所にいることになっていて、大祭司しか入ることが許されない、ということは、神さまは権力者と共にある。また、浄い者が救われるとされる。その浄いということは、ユダヤ教徒であり(ということは外国人ではなく)、男であり、健康であり、土曜日の安息日に働かなくてはならないような仕事に就く必要がない、裕福な人々です。そして、ユダヤ教は、民衆をおとなしく治めるために、ローマ帝国によって公認宗教とされ、利用されていました。ユダヤ教社会のピラミッドの頂点には、ローマ帝国があって、ローマ人、ローマ軍は侵略者で、かなりの横暴、暴力がまかり通っていたのです。
  しかし、イエスは、このすべてが間違っていることを人々に知らせました。神さまは、誰をも子として愛し、最も小さな人と共にあること。ユダヤ教徒も、その他の人たちも、女も男も、子供達も、障害を持っている人も、病気の人も、元気な人も、大切なのです。すると、それは当時のローマの支配下にあるユダヤ教社会を否定し、反省と回心を求めることでした。ということは、権力の側からすれば、秩序を乱す者、もっと言えば反逆者ということになります。そこで、ローマ帝国が、決してローマ市民には行わない、属国の反逆者に科する残虐な死刑である十字架刑に処されてしまったのです。
  イエスに、十字架刑を言い渡したのは、ローマ帝国のユダヤ総督のポンテオ・ピラトゥスでした。福音書では、あまりピラトを悪く言っていませんが、彼は大変残虐な人でした。ユダヤ教に対しても、かなりの締め付けを行ったために、人々が怒って収拾がつかなくなり、後に統治能力を問われて更迭されています。

§「あなたたちはなぜ、生ける者を死人たちのところで探すのか」

  今日、最初に読んだマルコによる福音書は、一番最初に書かれた福音書です。そして、マルコによる福音書は、この16章8節で終わっていたのです。9節以下は、後に書き足されたり、マタイ、ルカ、ヨハネ、使徒行伝から編集して付け足されたものです。
  復活についても、非常に簡潔に書かれています。

* そして墓の中に入ると、彼女たちは白い長衣をまとった一人の若者が右側に座っているのを見、ひどく驚いた。すると彼は彼女たちに言う、「そのように驚くな。あなたたちは十字架につけられた者、ナザレ人イエスを探している。彼は起こされた、ここにはいない」。

  愛する人々がイエスを死者として丁寧に葬ろうとするのは自然なことでした。しかし、お墓から消えていました。これには、当時から陰謀説があって、ローマの陰謀説と、イエスの弟子達による陰謀説がありましたが、その真偽はどうあれ、この恐ろしくて何も言えないほどだったマグダラのマリア達も、そしてガリラヤに向かって逃げて行ったイエスの男の弟子達も、ある悟りを得るのです。それは、神が直接手を下して、奇跡を起こした、ということです。それは、文字通りに、人間の身体として甦ったのだ、と捉える人たちもたくさんおりますが、そのような不思議な出来事よりももっと大きなことが起こっていたことに気がつくのです。それは、主イエスが、彼らと共に、生きていて、働いていて、主イエスの働きが、今も彼らの中で続いているのです。そして、2000年後の今も同じように、イエスのメッセージに触れた人々と共に、生きているのです。

*ルカによる福音書24:5b−6a
「あなたたちはなぜ、生ける者を死人たちのところで探すのか。彼はここにはいない。まさに彼は起こされたのだ。」
2010年 4月  4日  イースター礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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