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日本キリスト会川崎教会コミュの「譬で語る理由」

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「譬で語る理由」

①マルコによる福音書4章1−9節
  そして彼は再び、海辺で教え始めた。すると彼のもとに、おびただしい群衆が集まってくる。そのため彼は舟に乗り込んで座り、海上に出た。そしてすべての群衆は、海辺の陸地にいた。そこで彼は、彼らにさまざまの譬えを使って多くのことを教え続けた。そして、その教えの中で彼らに言った、「聞け。見よ、種蒔く人が種を蒔きに出て行った。そして、種を蒔いているうちに、ある種は道端に落ちた。すると鳥たちがやって来て、それを食べてしまった。ほかのある種は、土のあまりない石地の上に落ちた。そして土が深くないために、すぐに芽を出した。しかし太陽がのぼると、焼かれてしまい、根がないために枯れ果ててしまった。またほかのある種は茨の中に落ちた。すると茨が出てきて、その種の息の根を止めてしまった。そして種は実を結ばなかった。またほかのいくつもの種は良い地に落ちた。すると、それらの種は芽を出し、成長しながら、実を結び続けるのだった。あるものは三十倍。またあるものは六十倍、またあるものは百倍もの実をもたらし続けるのだった」。そして言った、「聞く耳ある者は聞け」

② マルコによる福音書4章10〜12節
 さて、彼だけになった時、十二人と一緒に彼のまわりにいた者たちはこれらの譬えについて彼にたずねた。すると彼は彼らに言った、「あなたたちには神の王国の奥義がすでに与えられている。しかし、外にいるあの者たちには、さまざまの譬えでそのすべてが示される。それは次のようになるためだ、彼らは見ることは見るが、認めない。また、聞くことは聞くが、悟らない。にもかかわらず彼らは立ち帰って、赦されることになるかも知れない」。
                                                                                     新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
                                                                           
§「継続と積み重ね」

   最近、高田英語学園に通っている子供たちが、英語の歌を以前にも増してよく覚えて、楽しそうに歌ってくれます。私自身、小さい頃から英語の歌が大好きでしたので、教室でみんなで歌うことは、昔から心がけていましたが、こんなに子供たちが楽しそうに歌って覚えてくれるようになったのは、最近のことです。Deep and wideのような短い歌ばかりでなく、かなり早口で難しいSkip to my Louなども、歌いながら楽しそうに踊ってくれると、私も幸せな気持ちになります。
  中学・高校や、専門学校で授業をしていたときも、時々ギターを持って行っていましたが、ギターやCDプレイヤーが常に教室にあって、いつでも歌えるというのはいいですね。今度もし、また学校で授業をするような機会があったら、必ずギターも常備します。
  歌を覚える時も、みんながそれぞれ自分の歌集やプリントを見るよりも、頭をくっつき合わせながら、みんなで一冊の歌集を見ながら歌った方が覚えやすかったり、細かい様々な工夫やワザがありますが、何よりも楽しいことと、みんなが仲良しなことが一番大切ですね。
  こういった楽しみや学びも、そして環境作りも、継続と積み重ねによって培われるものです。そして、そういう積み重ねは、とても大切ですし、また、何かをはじめるときには、その途方もない先達の遺したもの、到達したところを見上げるとたじろぎますが、皆最初は第一歩から、進んでいく他はないわけです。どんな動植物の成長にも、一足跳びや近道の成長はなく、しかし、ひとつひとつの小さな成長の発見に、おおきな喜びが与えられるのと同じように、これからの未来に向けての教会の歩みも、そして英語学校の歩みも、こうした一歩一歩を積み重ねていくことでさらに成長が与えられることを祈ります。
  今は、冬のオリンピックの最中ですが、スポーツも、そして芸術や学問も同様です。様々な困難は、あるものですが、それらはいつか乗り越えられるものであること、そして、その歩みの一歩一歩に喜びが隠れていることを知ります。ヨーロッパの教会の多くや、また日本のお寺の多くが、山の上にあって、そこまでたどり着くことに苦労するようにできているのは、もしかしたら、こうした人生の知恵を、追体験させようとしているのかもしれません。
  聖書の学びもそうです。神さまから、主イエスがこの世に与えられて、そして、聖書が与えられて以来、懸命に人々が読み、理解しようとしてきました。そして、それぞれの信仰を、その解釈に反映してきました。今、数々の信仰の先達たちが遺していった研究の成果を、私たちが理解するために参照することができることは、良き信仰の友と会話をしているような素晴らしい瞬間の数々をもつのと同じようです。わからないことは、わからない。むずかしいことは、むずかしい、にもかかわらず、掘り下げていくと、新しい発見が与えられるのです。

§「譬えで語る理由」

   先週は、「種まきの譬」を学びました。そして、この種まきの譬えは、13節以下の、譬えの解釈にとらわれず、この譬え自体を味わい、浮かび上がって来たのは、貴重な種が無駄になることを気にしないこの農夫の気前よさ、いかに無駄になっても、気にせずに種を蒔く意思、そして最後にはおおきな実りがあるという希望に満ちた生き方。神様はどのような人にも分け隔てなく手を差し伸べてくださる。気づかれなくても、拒絶されても、手を差し伸べてくださる。 「父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる」(マタイによる福音書5章45節)主の呼びかけにしっかり応えた者、良い地に蒔かれた多くの種が実を結ぶのだけれど、いかに無駄になっても、神はどこにいる者にも同じように種を蒔いて下さっているし、それをまったく厭わない! 私たちも、まさに、その様に生きたい、と思います。
  イエスの譬えがもっている力には、道徳的な教えを超えた、何か突き抜けたような喜び、迫力を感じますね。人間の常のように、計算して種を蒔くのではなく、おおらかに、無駄になることもおそれずに種を蒔く神の姿。愛と平和、福音の種を蒔いても、日光や雨を注いでも、受ける人に準備ができていなくて、無駄になってしまうこともあるけれど、しかし、神はそんなことは気にせずに蒔くので、「ほかのいくつもの種(複数形)は良い地に落ち」「あるものは三十倍。またあるものは六十倍、またあるものは百倍もの実をもたらし続ける」という、素晴らしく喜ばしい結末は、この譬えを聞いた人々に、イエスが説いた神の国の到来を今、目の前に見ている喜びを感じさせたのだろうと思います。
  
  さて、今週ですが、その素晴らしい9節までの譬え話の後に、どうとらえて良いかわからないような、不思議な言葉が書かれています。10節から12節ですが、それが今日の聖書箇所です。
  主イエスが譬えで語られる理由が、人々が悟らないように、また赦されることがないようにだと、書いてあるのです。先ほどは、岩波書店の、新約聖書翻訳委員会訳でお読みしました。それをもう一度お読みします。

*マルコによる福音書4章10〜12節
 さて、彼だけになった時、十二人と一緒に彼のまわりにいた者たちはこれらの譬えについて彼にたずねた。すると彼は彼らに言った、「あなたたちには神の王国の奥義がすでに与えられている。しかし、外にいるあの者たちには、さまざまの譬えでそのすべてが示される。それは次のようになるためだ、彼らは見ることは見るが、認めない。また、聞くことは聞くが、悟らない。にもかかわらず彼らは立ち帰って、赦されることになるかも知れない」。

 この最後の部分、 「にもかかわらず彼らは立ち帰って、赦されることになるかも知れない」は、普通はまったく逆に、「赦されないため」と訳される部分です。あまりにも、いじわるな感じがするため、また、私たちの思い描く、主イエスの姿とはかけ離れた言葉であるため、訳者は、懸命に他の訳の可能性を探ったのだと思います。私も、そう書いてあったらよかったのに、と正直なところ思います。
 では、新共同訳と、田川建三訳(作品社)とで、この12節を読みます。

*マルコによる福音書4章12節(新共同訳)
 『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。

*マルコによる福音書4章12節(田川建三訳)
 彼らが眺めることは眺めるが見ず、聞くことは聞くが理解しないため、また彼らがたちもどって来て、赦されることがないためである」。

  これの訳について、田川建三がこのようにコメントしています。「要するに訳者というものは、原文に書いてあることを字義通りに素直に読む、という姿勢を失ってはならないのである。そう書いてある以上、そうとしか書いてないのだ」。では、いったい、どうして、このような文章が書かれているのでしょう。
  ヨハネの福音書にも、よく似た表現があります。

*ヨハネによる福音書12章39−40節
 イザヤがまた次のようにも言った、そのゆえに彼らは信じることができなかったのである。神は、彼らの目を盲目にしてしまっており、彼らの心を頑なにした。彼らが目で見ず、心で理解せず、立ち帰らず、私が癒すことがないように。

  ヨハネの福音書では、主イエスは、神として捉えられています。そして、神も全能なので、人々の目が盲目なのも、心が頑ななのも、心で理解しないのも、立ち帰らないのも、神の意思によるもので、それは、主イエスが彼らを癒すことがないようにするためだ、とここでは言っているのです。
  実は、譬えで語る理由は、マルコによる福音書の4章に、もう一箇所、はっきり書かれています。それは、この譬えが語られる冒頭の部分です。

*マルコによる福音書4章1〜2節
  そして彼は再び、海辺で教え始めた。すると彼のもとに、おびただしい群衆が集まってくる。そのため彼は舟に乗り込んで座り、海上に出た。そしてすべての群衆は、海辺の陸地にいた。そこで彼は、彼らにさまざまの譬えを使って多くのことを教え続けた。

  これは、私たちが心に思い描く、主イエスの姿そのものですね。ここでは、先ほどの10−12節とまったく逆のことが書かれています。 4章2節には、「譬えを使って多くのことを教え続けた」とあり、33節には「彼は、このような譬えを多く用いながら、人々の聞くことができる程度に応じて、彼らに御言葉を語るのであった」とあります。これは、私たちのよく知る、愛に満ちた、分け隔てをすることのないイエス像です。  同じく、4章の33−34節もお読みします。

*マルコによる福音書4章33〜34節
 彼は、このような譬えを多く用いながら、人々の聞くことができる程度に応じて、彼らに御言葉を語るのであった。譬えなしには彼らに語らなかった。しかし自分の弟子たちには、人のいない時に、すべてを解き明かしてやるのであった。

  ここでは、前半は、1−2節と同様な、人々に寄り添い、それぞれが理解できるように、譬えで話していることが語られ、後半では、弟子たちには「人のいない時に、すべてを解き明かしてやる」、と書かれています。
  この矛盾する、閉鎖的な性格の言葉は、マルコの教会の時代、50年代から70年代にかけて、また、ヨハネの教会の時代、おそらく90年代以降に、当時の教会がかなり閉鎖的性格を帯びるようになったことの現れなのです。迫害や、無理解が周囲にあり、また宣教も思うように進まないような状況にあって、教会内部の信者と、外の社会とを分けて、自分たちのアイデンティティーを確立しようとする、あるいは、自分たちの優位性をあらわすようになったことが、このような表現に表れてきてしまっているのです。ですから、10節以下は、まぎれもなく、主イエスご自身の言葉ではなく、後に足された部分に違いないのです。

*ガラテヤ人への手紙5章1節
  キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない。

2010年 2月21日  礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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