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日本キリスト会川崎教会コミュの洗礼者ヨハネの問い 2 Mt 11

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「洗礼者ヨハネの問い」 2

*マタイによる福音書 11章7−15節
 さて、彼らが行ってしまうと、イエスは群衆にヨハネのことを語り始めた。「あなたたちは何を観ようと荒野に出て行ったのか。風に揺らいでいる葦か。では、何を見ようと出て行ったのか。柔らかな衣に身をつつんだ人間か。見よ、柔らかな衣をまとった者どもなら、王たちの家にいる。では、何を見るために出て行ったのか。預言者か。その通り、私はあなたたちに言う、預言者よりもなお優れた者だ。この者こそ、こう書かれている者である、
 『見よ、この私がお前の面前に私の使者を遣わす。彼はお前の目の前で、お前の道を整えるであろう』。
11 アーメン、私はあなたたちに言う、女から生まれた者の中で、浸礼者(バプテスマの)ヨハネより大いなる者は起こらなかった。しかし、天の王国で最も小さい者も、彼よりは大いなる者である。また、浸礼者(バプテスマの)ヨハネの日々から今に至るまで、天の王国は暴力を加えられている。そして暴力的な者たちが、それを奪い取っている。なぜなら、すべての預言者たちと律法とは、ヨハネまでを預言したのである。そして、もしあなたたちが受け取りたいのであれば、彼こそやがて来るであろう者、エリヤである。耳ある者は、聞け。
                                                                                    新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
§「洗礼者ヨハネとの出会い」 

  お正月には、昔の友人や、懐かしい人々からの便りがあって、旧交が温められたりする機会が多くあります。嬉しいお知らせをくれる人々もおりますし、人生の中での困難や、苦労について知らせてくれる人もいます。そうしたこと、ひとつひとつの喜びや悲しみや葛藤を、年を経るに従って、身近に感じられるようになります。自分たちの人生の中での経験を照らし合わせて、より現実味を持って、他の人の経験したことを感じます。
  他の人の、特に苦労や困難について聞くとき、私たちは多くの場合、原因を探しながら聞きます。事件や、事故や、病気や怪我であっても、どうして、なぜ、どのような原因があって、ということを考えます。これは、生きていく姿勢として大切なことでもあります。例えば、私も自動車の運転をしますが、その危険性や、起きうる問題を知って、注意することが安全に繋がります。
   しかし、時に、問題をできるかぎり単純に捉えて、「ああ、だからだ」、と、問題をその人の失敗や過ちに期して、安心したくなります。同じような問題に自分が陥いることはないと、確認したくなるのです。この時に、差別や偏見が生まれやすいということに、なかなか気がつきません。
  ユダヤ教の律法主義は、清い、穢れている、という二つに物事を分けていくために、自分を清い方に保とうとする意味では、大変まじめでいいのですが、そのまじめさのまま、人を差別してしまって、そのことを疑問にも思わないという、危険もはらんでいます。
  主イエスは、こうした姿勢とは違い、その人の持つ問題、病気、生活の状況、そうしたものを理解し、共に寄り添ってくださいました。そして、私たちにも、そのように教えておられます。


*マタイによる福音書9章10−13節
 さて、家でイエスが食事の席で横になっていると、以下のようなことが生じた。そして見よ、多くの徴税人や罪人がやって来て、イエスやその弟子たちと一緒に横になっていた。するとファリサイ人たちがこれを見て、彼の弟子たちに言うのであった、「なにゆえお前たちの先生は、徴税人どもや罪人らと共に食べたりするのか」。 
12 しかし彼はこれを聞いて言った、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちである。そこで、行って、『私の望むのは憐れみであって、犠牲ではない』ということが何であるのか学んで来るがよい。なぜなら、私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たからである」。

  洗礼者ヨハネも、人々のおごり高ぶりをよく理解していました。

*マタイによる福音書 3:8−10
 ならば回心にふさわしい実を結べ。そして、『俺たちの父祖はアブラハムだ』などと心の中でうそぶこうとするな。なぜなら、私はお前たちに言う、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのだ。すでに斧が木々の根元に置かれている。だから、良い実を結ばぬ木はことごとく切り倒され、火の中に投げ込まれるのだ。

  ヨハネは、神による審判は、ずっと後に来るのではなく、今、私の生き方、やっていることにたいして、神の想いを知るなら、もうすでに、その審判の結果は明らかだ、というのです。「すでに斧が木々の根元に置かれている」、今すぐ、気がついて、回心して、洗礼を受け、新しい人生を歩むのだ、と。
  先週お読みした箇所では、ヘロデ・アンティパスに投獄されたヨハネが、イエスが、「来るべき者」、すなわち、救い主であるかどうかを、問うていました。

* マタイによる福音書 11章2−6節
 さてヨハネは、牢獄でキリストの業について聞き、自分の弟子たちを送り、彼らを通して彼に言った、「あなたが、『来るべき者』なのか、それともわれわれはほかの者を待つべきか」。そこでイエスは答えて彼らに言った、「行ってヨハネに、あなたたちの聞き、見ていることを告げよ。
 『盲人らは見え、かつ足萎えらは歩む、らい病人たちは清められ、かつ聾者たちは聞く、そして死人らは起こされ、かつ乞食らは福音を告げ知らされる』。
 そして、幸いだ、私のことで躓かせられることのない者は」。

  ユダヤ教の人々は、イエスを「来るべき者」とは捉えずに、今も救い主の到来を待ち続けています。これに対して、マタイによる福音書で、主イエスは、「行ってヨハネに、あなたたちの聞き、見ていることを告げよ」、といいます。そして、告げる内容は、 「盲人らは見え、かつ足萎えらは歩む、らい病人たちは清められ、かつ聾者たちは聞く、そして死人らは起こされ、かつ乞食らは福音を告げ知らされる」、すなわち、神の国が、まさしく今、ここに到来しているではないか、神さまが共におられるではないか、
  そして、主イエスは、ヨハネについて、このように言います。
   
*マタイによる福音書 11章7−10節
 さて、彼らが行ってしまうと、イエスは群衆にヨハネのことを語り始めた。「あなたたちは何を観ようと荒野に出て行ったのか。風に揺らいでいる葦か。では、何を見ようと出て行ったのか。柔らかな衣に身をつつんだ人間か。見よ、柔らかな衣をまとった者どもなら、王たちの家にいる。では、何を見るために出て行ったのか。預言者か。その通り、私はあなたたちに言う、預言者よりもなお優れた者だ。この者こそ、こう書かれている者である、
 『見よ、この私がお前の面前に私の使者を遣わす。彼はお前の目の前で、お前の道を整えるであろう』。

   「風に揺らいでいる葦」は、周りの状況によって、付和雷同する者、移ろいやすい者です。そして、「柔らかな衣に身をつつんだ人間か」と、きらびやかな、服装をした、見るからに富んだもの、王家のもの、そういう者に会いたいのか、あなたたちが探しているのは、そういう者ではないはず、預言者なのだ、そしてそれがヨハネなのだと。

   ヨハネの側から、イエスについて語るところをお読みします。

*ルカによる福音書3:15ー17
 また民は待ち望んでおり、皆がその心の内で、ヨハネに関して思いめぐらしていた、「ひょっとして、この彼こそキリストではないだろうか」。そこでヨハネは皆に答えて言うのであった、「この私は水によって、お前たちにバプテスマ(浸礼)を施している。しかし私よりも強い者が来る。私はその者の皮ぞうりの紐を解く値打ちもない。彼こそは、お前たちに聖霊と火によってバプテスマを施すだろう。
17  彼は箕(み)を手に持っている。その脱穀場を隅から隅まで掃き清め、その麦を倉に収めるためだ。しかしもみ殻は、消えない火で焼くつくすだろう」。

   「火の洗礼」という言葉がありますが、これは神による審判、最後の審判を表す言葉でした。ルカは、主イエスを、水ではなく、火と聖霊でバプテスマを施すと言っています。これは、救いをもたらし、そして、神さまが、私たちと共にいる、ということ、神の国が主イエスと共に、もうすでに到来しているのだ、と言うのです。

*ルカによる福音書17:20〜21(新共同訳)
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見えるかたちでは来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

  ヨハネは、主イエスによって、救いと共に、審判が下されることを、農作業にたとえて言っています。 「彼は箕(み)を手に持っている。その脱穀場を隅から隅まで掃き清め、その麦を倉に収めるためだ。しかしもみ殻は、消えない火で焼くつくすだろう」。ヨハネには、「 すでに斧が木々の根元に置かれている。だから、良い実を結ばぬ木はことごとく切り倒され、火の中に投げ込まれるのだ」、に繋がる、審判について語っています。

  主イエスの宣教は、ヨハネの投獄の後に始まります。

*マルコによる福音書1:14
  さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。そして「神の福音」を宣べ伝えながら言い続けた、「(この)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。

  イエスの宣教とヨハネの宣教とのおおきな違いは、ヨハネが、荒野に人々を惹きつけたのに対して、主イエスは、自ら、人々の村や町に入っていきます。ヨハネは、水で洗礼を施しました。しかし、イエスは水による洗礼を施しませんでした。その理由は、主イエスと共にいるひとたちは、もうすでに救いを受け、神の国の到来を見ているのです。神と共に、もうすでにいるのです。ですから、その準備としての水による洗礼は、必要ないと思われていたのかもしれません。
  さて、マルコによる福音書6章で報告されているように、洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスによって、殺されてしまいます。
  しかし、主イエスは、レジスタンスとなって、武力を持って立ち上がり、この王を転覆させようとはしません。一時的な熱狂、一時的な軍事的勝利、復讐の達成、というような、人間が基本的に求めるようなものと、かけ離れた、戦いをされました。

* マタイによる福音書 5:43−48節
『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。なぜならば父は、悪しき者たちの上にも、善き者たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである。

  ヘロデ・アンティパスにとっては、これは理解できないために、大変恐れたことでしょうね。「洗礼する者ヨハネが死人の中から起こされて現れたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」(マルコ1より) しかし、主イエスが提示された、このまったく新しい価値観は、今も私たちと共に生き続けます。

*マタイによる福音書 7:12ー14節
 だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことはすべて、そのようにあなたたちも彼らにせよ。まさにこれが律法と預言者たちにほかならない。
 あなたたちは狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入って行く者は多い。しかし、生命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかである。

2010年 1月10日  礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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