ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの預言者ホセア1

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「預言者ホセア」 1.

① ホセア書 6章1−6節

「さあ、われらはヤハウェのもとに帰ろう。
彼は掻き裂かれたが、われらを癒し、
打たれたが、われらをつつんで下さるからだ。
彼は二日の後にわれらを生かし、
三日目にわれらを立たせられる。
われらはヤハウェの前に生きる。
われらは知ろう、
ヤハウェを知るために切に求めよう。
暁のように彼は必ず現れる方。
彼は雨のようにわれらのところを訪れ、
地を潤す春の雨のように来られる」。

4 エフライムよ、わたしはあなたに何をしたらよいのか。
ユダよ、わたしはあなたに何をしたらよいのか。
あなたがたの愛は朝靄(あさもや)のようであり、
すぐに消え去る朝露(あさつゆ)のようだ。
それゆえ、わたしは預言者たちをもって切り倒し、
わたしの口の言葉をもって彼を打ち殺す。
わたしの裁きは光のように現れる。
わたしは愛(ヘセド)を喜び、犠牲を喜ばない。
全焼の供犠(ホロコースト、いけにえ)よりも、
 神を知ることを喜ぶからだ。
                                                                                  旧約聖書翻訳委員会訳 鈴木佳秀訳


§「不安と希望」 

  数年後に今年をふり返って、どんな年だったかを問うなら、きっと「あの新型インフルエンザに揺れた一年」ということになるでしょう。特に子供たちの間での広がりはすさまじく、幼稚園から大学まで、数多くの人たちが罹っています。大変症状が重い子供たちも多く、話しに聞いても、また、病院で見かけても、大変気の毒です。また、学級閉鎖などが頻繁にあり、普通の生活や学校での学習などにもかなり支障が出ているようです。
  私たちが当たり前に思っている健康や、安全すらが、大変大切で、時に崩れやすいものであることに気づく機会でもあります。そして、これを防ごうと努力しますが、ウィルスを防ぐためにできることも、すべて確実なものはありません。感染を防げても、また感染してしまっても、何が良かったとも、悪かったとも言えないという、何もかも不確実なところに、この問題をめぐる不安のみなもとがあるようです。そして、この不安というものは、人生の中での大変大きな障害物でもあります。
  「人生は旅である」と言うとき、その旅は、英語ではjourneyといいます。長く、先のことが決まっていない旅です。ガリバー旅行記のガリバーの旅のような、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が西インド諸島やニューオーリーンズ、そして日本に旅した人生のような旅です。また、私たちの人生の旅も、同様です。
  これに対して、団体旅行や、修学旅行のような、日程がしっかり決まっていて、すべてアレンジされていて心配のない旅行はexcursionといいます。excursionには「横道にそれる」というような意味もありますが、犬の散歩にたとえれば、飼い主の持つ革紐(リーシュ:leash)の届く範囲のようなそれかたですから、人生はexcursionでは、あまりおもしろくありませんね。
  不安や不確実ということは、人生の中では、取り除けるようなものではなく、それと共に生き、時に乗り越え、そして乗り越えた後に、後から来る人に手を差し伸べる、というようなもので、喜びを得る旅のはじまりにあるもののようです。努力や喜びと表裏をなしているような存在です。
  アメリカ系アメリカ人の人たちの教会でよく耳にした言葉に、”Just do your best, and God will do the rest.”という言葉がありました。「ただ、あなたのベストをつくせばいいのですよ、そうすれば、残りは神さまがしてくださいます」、というのですが、肌の色の差別の外に、話し方の訛りなど、様々なことで社会からはじかれることが多いアメリカの黒人社会では、いっそうこの不安との戦いは大きいのでしょう。
  そこに、神が共にいてくださり、私たちがベストをつくすなら、その残りを祈りと共に神に委ねることができるという信仰です。
  パウロは、「 私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている」と記しています。


*ローマ人への手紙5:1−5
 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストをとおして私たちは信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。のみならず、私たちは患難の中にあっても誇っている。それは、私たちが次のことを知っているからである。すなわち、患難は忍耐を生じさせ、忍耐は確証を、確証は希望を生じさせるということを。希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。

  間違いがないように、ということで、マニュアルによる子育てがはやったりします。アメリカの知人が、私たちに子供が生まれたときに、そのようなパンフレットを送ってあげようか、と言ってくれました。何ヶ月になったら、この離乳食を食べさせ、この本を読んであげ、こういう遊びをしてあげて、このDVDを見せなさい、と、すべて決まっていて、間違いがないのだそうですが、これでは人生の楽しみや、赤ちゃんと共に、食べられるものを見つけ、遊びを見つけ出し、お気に入りの本に出会い、一緒に人生と関係性を築いていく喜びを手放してしまったら、それこそ大きな間違いです。これはアメリカの話しでしたが、日本でも、受験産業は基本的に不安産業です。人の不安をあおってサービスを売るのは、良い形ではありません。
   教育も、そして人生も、愛、喜び、希望と共にあるに越したことはありません。

・Life is one long reach: the ongoing search for self and relationship... Enjoy!
George Duke
 人生はひとつの長い道のり:自己と、そして(神や人との)関係の絶え間ない探求...楽しもう!
  
§「預言者ホセア」

   預言者ホセアは、エリヤやエリシャの後の時代、イスラエルの北王国が滅亡する紀元前750年頃に活躍した預言者です。十二小預言書の最初にホセア書があり、神(ヤハウェ)は、ホセア(神よ、お救い下さい)に大変不幸で辛い結婚生活を命じます。ホセヤと彼の妻、デブラエム(二つの干しいちぢくの菓子)の娘、ゴメル(終わる)の結婚では、ホセアがゴメルに裏切られ続けます。これはまるで、神がイスラエルの人々に裏切られ続けることを追体験しているようです。異教の神である軍神バアルに向かい、戦いに明け暮れ、また、強い外国との交渉では、大変不利な条件で条約を結んでしまうイスラエルの民への怒りです。

ホセア書 6章1−3節

「さあ、われらはヤハウェのもとに帰ろう。
彼は掻き裂かれたが、われらを癒し、
打たれたが、われらをつつんで下さるからだ。
彼は二日の後にわれらを生かし、
三日目にわれらを立たせられる。
われらはヤハウェの前に生きる。
われらは知ろう、
ヤハウェを知るために切に求めよう。
暁のように彼は必ず現れる方。
彼は雨のようにわれらのところを訪れ、
地を潤す春の雨のように来られる」。

 ここで、神が「掻き裂かれた、打たれた」とあります。人々の心がバアルに向き、また、軍神バアルの性格をヤハウェに投影してしまう人々の行いを言っているのですが、それでもなお、ヤハウェは民を愛し続けます。神はホセヤにも、この「それでもなお」愛し続ける神の大きな愛を身をもって理解させようとします。神は、ホセアに、彼の娘をロ・ルハマー(憐れまない)と名付けさせ、神がもはや、イスラエルの民を憐れまないほどのことを、あなたたちはしているのだ、ということを表し、息子をロ・アンミ(我が民にあらず)と名付けさせて、彼らがもはや、ヤハウェの民ではない、その資格がないほどの行いをしたのだ、ということを表しますが、実際は、神の意志はその反対で、神は「それでもなお」彼らを憐れみ(ルハマー)、そして我が民(アンミ)であると認めるほどの深い愛を持っておられるのだと言うことを表しています。

・ホセア書 6章4−6節

エフライムよ、わたしはあなたに何をしたらよいのか。
ユダよ、わたしはあなたに何をしたらよいのか。
あなたがたの愛は朝靄(あさもや)のようであり、
すぐに消え去る朝露(あさつゆ)のようだ。
それゆえ、わたしは預言者たちをもって切り倒し、
わたしの口の言葉をもって彼を打ち殺す。
わたしの裁きは光のように現れる。
わたしは愛(ヘセド)を喜び、犠牲を喜ばない。
全焼の供犠(ホロコースト、いけにえ)よりも、
 神を知ることを喜ぶからだ。

 その神の愛に比べて、人間、イスラエルの方はどうかといえば、 「あなたがたの愛は朝靄(あさもや)のようであり、すぐに消え去る朝露(あさつゆ)のようだ」という、このギャップが大変大きいことを表しています。
   「わたしは愛(ヘセド)を喜び、犠牲を喜ばない」は、マタイによる福音書でも主イエスが引用しています。愛を表すヘセドという言葉は、新共同訳などでは「慈しみ」と訳しています。マタイによる福音書では、「憐れみ」と訳されています。神が喜ぶのは、儀式で捧げる生け贄の動物などてはなく、愛なのです。
  そして、主イエスは、その愛を、具体的にどのように兄弟姉妹に向けるかを示して下さったのです。

② マタイによる福音書9章10−13節

 さて、家でイエスが食事の席で横になっていると、以下のようなことが生じた。そして見よ、多くの徴税人や罪人がやって来て、イエスやその弟子たちと一緒に横になっていた。するとファリサイ人たちがこれを見て、彼の弟子たちに言うのであった、「なにゆえお前たちの先生は、徴税人どもや罪人らと共に食べたりするのか」。 
12 しかし彼はこれを聞いて言った、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちである。そこで、行って、『私の望むのは憐れみであって、犠牲ではない』ということが何であるのか学んで来るがよい。なぜなら、私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たからである」。


2009年11月 1日  礼拝
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング