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日本キリスト会川崎教会コミュの「預言者エリヤ」4. 列王記下2章1−13節

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「預言者エリヤ」 4.

* 列王記 下 2章1−13節

   ヤハウェがつむじ風を起こしてエリヤフを天に上げられた時のこと、エリヤフとエリシャはギルガルを出た。エリヤフはエリシャに言った、「あなたはここに留まりなさい。ヤハウェは私をベテルまで遣わされるからである」。しかしエリシャは言った、「ヤハウェは生きておられ、あなたの魂も生きています。私はあなたを離れません」。それで彼らはベテルに下って行った。
 ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、彼に言った、「ヤハウェが今日、あなたの主人をあなたの頭上から取り去ろうとしているのを知っていますか」。彼は言った、「私も知っているが、黙っていなさい」。
  エリヤフはエリシャに言った、「エリシャよ、あなたはここに留まりなさい。ヤハウェは私をエリコへ遣わされるからだ」。エリシャは言った、「 ヤハウェは生きておられ、あなたの魂も生きています。私はあなたを離れません」。それで彼らはエリコにやって来た。
 エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った、「ヤハウェが今日、あなたの主人をあなたの頭上から取り去ろうとしているのを知っていますか」。彼は言った、「私も知っているが、黙っていなさい」。
  エリヤフはエリシャに言った、「エリシャよ、あなたはここに留まりなさい。ヤハウェは私をヨルダン河へ遣わされるからだ」。エリシャは言った、「 ヤハウェは生きておられ、あなたの魂も生きています。私はあなたを離れません」。それで彼らは二人で進んでいった。
  預言者の仲間のうち、五十人がついて行き、二人がヨルダン河のほとりに立ち止まると、彼らは遠く離れてそちらに向かって立っていた。
8 エリヤフは自分のマントを脱ぎ、それを丸めて河の水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。渡り終わると、エリヤフはエリシャに言った。「私があなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。なんなりと願いなさい」。エリシャは言った、「あなたの霊の二倍の分け前を、私に下さい」。エリヤフは言った、「難しい願いをするものだ。私があなたのもとから取り去られるのをあなたが見るならば、あなたの願いはかなえらえる。しかし、もし見なければ、かなえられない」。
11 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車と火の馬が現れて、二人の間を分けた。エリヤフはつむじ風に乗って天に上って行った。エリシャはこれを見て叫んだ、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」。しかし彼の姿はもう見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。
13 彼はエリヤフの肩から落ちたマントを拾い上げ、ヨルダン河の岸辺に立った。
   池田裕訳

§「かすかにささやく声」

  先日、ビートルズの作品が新たにCD化されて、多くの人々が買い求めているというニュースがありました。70年代に中学生、高校生だった私も、ビートルズなどを聞きながらたくさんの英語の表現に触れて、英語の発音やセンスを身につけたことを思い起こします。

Here comes the sun
Here comes the sun, and I say, ‘It’s all right.’

Little darling, it’s been a long cold lonely winter
Little darling, it seems like years since it’s been here

さあ、太陽が出てきたよ/日光が差し込んできた
そして私は言う、「ああ、よかった」

かわいい人よ、長くて、冷たく、孤独な冬だったね
かわいい人よ、この前に太陽が出ていたときから、何年もたったような気がするよ

  長い冬の後に太陽が昇った喜びを歌っていますが、長くつらい何らかの経験の後に、希望の光を得たことを歌っているのか、などと思いながら、文字通りレコードの溝が擦り切れるほど聴いていたことを思い出します。ビートルズが解散する寸前に録音した、The Endという短い歌がありました。

And in the end, the love you take is equal to the love you make
そして、最後に(結局は)、あなたが受ける愛は、あなたが与える愛の量と等しい

という、たった一行ですが、そうかなあ、などと考えていました。信仰を持つようになって、私は、これはイコールではないぞ、と思い始めました。もちろん、愛すること、積極的に愛を与えることは、生きる上で大きな喜びで、それに努めるべきなことはわかります。しかし、私たちの受ける神の愛は、私が与えることができる愛とは比べものになりません。「父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる」(マタイ5章45節)というほどの条件をつけない愛。主イエスを、私たちのこの世界に与えて下さったほどの愛。
   誰にでも、平等に注がれる神の愛。それは、その受けている愛の大切さや、大きさを感じ取れる人は、大変幸せです。そして、愛を受けていながら、それに気づかない人々は、反対に大変不幸です。このためにも、私たちは、互いに愛し合い、それを表して人生の歩みを進めていけたら、嬉しいことです。
  しかし、これは容易に予測がつくことですが、人々は、このような広くて深い愛を理解できずに、嫉妬に走ったり、神の愛を特定のグループや身内で囲い込もうとするのです。身近な例では、教会で行われる聖餐式です。多くの教会では、同じ信仰、同じ団体で洗礼を受けた人たちだけしか受けることができません。私は聖餐を受ける要件を満たしているが、あなたは満たしていない、だから、神の恵みにより、主イエスの身体であるパンを食べ、主イエスの血である葡萄酒を飲むことによって、主が私たちと共におられることを記念する聖餐式を受けることができるのは私たちだけだ、というのでは、その瞬間に、私たちが差別者に、裁くものになってしまうことになります。そうではなく、共に分かち合い、受けている愛をも分かち合うことが喜びの輪を広げていく道です。
  実は、マタイによる福音書にも、こうした傾向が現れている箇所があります。主イエスの言葉として、書かれているものです。

*マタイ7:6
「聖なるものを犬にやるな」また、「あなたたちの真珠を豚どもの前に投げ出すな」。さもなければ、彼らはその足でそれらを踏みつけ、ふり返りざまにあなたたちを噛み裂いてしまうであろう。

  「犬」は、人を侮辱して言うときに使う言葉でした。そして、「豚」は、もっとも汚れているものとされていましたから、これは、大変に激しい言葉です。これは、神の愛の本質から考えると、まったくそぐわない言葉です。「マタイ系のキリスト教会が、自らを聖化し一定の部外者を(異端者として)差別していく過程においてつくり出した言葉を、イエス自身の言葉にした、と思われる」(荒井献)という解説がありますが、これも残念なことです。
  さて、私たちの信仰生活では、祈りと、そして聖書の学びとから、生きる上での啓示を受けることがあります。そして、神の言葉は、「かすかにささやく声」(sound of silence!)で私たちに臨みます。その声が聞こえるように、祈り、謙虚に生きたいと思います。
  今日の聖書箇所は、預言者エリヤが最期を迎える時のエピソードですが、このエリヤが、宿敵であるアハブとイゼベル夫妻の弾圧から命からがら逃れている時、神の「かすかにささやく声」に触れます。

*列王記 上19章3−8節
  エリヤフは恐れ、自分の命を救うために立ち去った。彼はユダのベエル・シェバまで来ると、自分の若者をそこに残し、自分だけで荒野に入って一日の道のりを歩いた。一本だけぽつんと立つえにしだの木の所に来ると、彼はその下に座り、自分の命が絶えるのを願って言った、「ヤハウェよ、もう十分です。私の命を取って下さい。私は先祖にまさる者ではないのです」。
  彼は一本だけぽつんと立つえにしだの木の下に横になり眠った。すると、見よ、一人の御使いが彼に触れて言った、「起きて食べよ」。
  よく見ると、彼の頭のところに焼き石で焼いたパン菓子一つと水の入った瓶があった。彼は食べて水を飲み、また横になった。ヤハウェの御使いはもう一度戻って来て、彼に触れて言った、「起きて食べよ。道はあなたが考えている以上に長いからだ」。
  エリヤフは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。

  「起きて食べよ。道はあなたが考えている以上に長いからだ」、というの、いいですよね。私たちの人生の道のりを思います。四十日四十夜は、文字通りその期間というわけではなく、大変長い間を表す表現です。

*列王記 上19章9−18節
  彼はそこ(神の山ホレブ=シナイ山、モーセもヤハウェと出会った)にある洞穴に入り、そこで夜を過ごした。すると見よ、ヤハウェの言葉が彼に臨んだ。それは彼にこう言った、「エリヤフよ、ここで何をしているのか」。彼は言った、「私は万軍の神ヤハウェに、非常な情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの子らはあなたの契約を置き去りにし、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣にかけて殺しました。私一人だけ残りましたが、彼らは私の命を奪おうとねらっています」。
  ヤハウェは言った、「外に出て、山でヤハウェの前に立て」。すると、見よ、ヤハウェが通り過ぎて行った。ヤハウェの前で大きな強い風が山を裂き、岩を砕いたが、風の中にヤハウェはいなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にもヤハウェはいなかった。地震の後に火が起きたが、火の中にもヤハウェはいなかった。火の後に、かすかにささやく声(細い静寂の声)がした。
  エリヤフはそれを聞くと、マントで顔を覆い、外に出て来て、洞穴の入り口に立った。すると、見よ、声が聞こえた。「エリヤフよ、ここで何をしているのか」。
  彼は言った、「私は万軍の神ヤハウェに、非常な情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣にかけて殺しました。私一人だけ残りましたが、彼らは私の命を奪おうとねらっています」。
  ヤハウェは彼に言った、「お前の来た道を引き返し、ダマスコの荒野へ行け。そして着いたら、ハザエルに油を注ぎ、彼をアラムの王とせよ。ニムシの息子イエフに油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの息子エリシャに油を注ぎ、お前に代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、私はイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者たちである」。

  神のかすかなささやく声により、なすべきことを確認したエリヤは、神と共にこの世の努めを果たし、エリシャという預言者としての後継者を得ます。そして、エリシャは、エリヤがこの世から召されることを悟ります。後継者としてのエリシャは、エリヤフなしで、その責務を負うことに重荷を感じていたのでしょう。ヨルダン川を預言者の象徴としてのマントで打ち、渡っていった後、エリヤがエリシャに、「私があなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。なんなりと願いなさい」と言うと、エリシャは「あなたの霊の二倍の分け前を、私に下さい」といいます。
   エリヤの最後は、「火の戦車と火の馬が現れて」「つむじ風に乗って天に上って行きます。預言者は、普通の人間の死に方をせず、天に召されます。20年ほど前、「炎のランナー」という映画がありましたが、その原題は「火の戦車(Chariot of Fire)」でした。これは、エリヤはその姿は見えなくなるが、天において生きていること、その精神が受け継がれて、エリシャやその後の人々と共に生きていることの象徴です。しかし、エリシャにしてみれば、この別れは耐え難い悲しみです。「エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた」と、衣を引き裂いてエリヤの死を悲しみ、彼のマントを拾い上げ、しっかりと立つことで、後継者としての自覚を得ます。


*マタイによる福音書7章13・14節
 あなたたちは狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通っていく者は多い。しかし、生命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかである。

2009年 9月20日  礼拝
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

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