「犬」は、人を侮辱して言うときに使う言葉でした。そして、「豚」は、もっとも汚れているものとされていましたから、これは、大変に激しい言葉です。これは、神の愛の本質から考えると、まったくそぐわない言葉です。「マタイ系のキリスト教会が、自らを聖化し一定の部外者を(異端者として)差別していく過程においてつくり出した言葉を、イエス自身の言葉にした、と思われる」(荒井献)という解説がありますが、これも残念なことです。 さて、私たちの信仰生活では、祈りと、そして聖書の学びとから、生きる上での啓示を受けることがあります。そして、神の言葉は、「かすかにささやく声」(sound of silence!)で私たちに臨みます。その声が聞こえるように、祈り、謙虚に生きたいと思います。 今日の聖書箇所は、預言者エリヤが最期を迎える時のエピソードですが、このエリヤが、宿敵であるアハブとイゼベル夫妻の弾圧から命からがら逃れている時、神の「かすかにささやく声」に触れます。
神のかすかなささやく声により、なすべきことを確認したエリヤは、神と共にこの世の努めを果たし、エリシャという預言者としての後継者を得ます。そして、エリシャは、エリヤがこの世から召されることを悟ります。後継者としてのエリシャは、エリヤフなしで、その責務を負うことに重荷を感じていたのでしょう。ヨルダン川を預言者の象徴としてのマントで打ち、渡っていった後、エリヤがエリシャに、「私があなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。なんなりと願いなさい」と言うと、エリシャは「あなたの霊の二倍の分け前を、私に下さい」といいます。 エリヤの最後は、「火の戦車と火の馬が現れて」「つむじ風に乗って天に上って行きます。預言者は、普通の人間の死に方をせず、天に召されます。20年ほど前、「炎のランナー」という映画がありましたが、その原題は「火の戦車(Chariot of Fire)」でした。これは、エリヤはその姿は見えなくなるが、天において生きていること、その精神が受け継がれて、エリシャやその後の人々と共に生きていることの象徴です。しかし、エリシャにしてみれば、この別れは耐え難い悲しみです。「エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた」と、衣を引き裂いてエリヤの死を悲しみ、彼のマントを拾い上げ、しっかりと立つことで、後継者としての自覚を得ます。