ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの十二人の選び マルコ3章

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「十二人の選び」 


* マルコによる福音書 3章13−19節
また彼は山にのぼり、自分でこれぞと思う者たちを呼び寄せる。すると彼らは彼のもとにやって来た。そして彼は十二人を立て、その彼らを遣わされた者(注:ルカにならえば「使徒」)とも名付けた。それは彼らが彼と共にいるためであり、また彼らを派遣するためであった。彼らが派遣されるのは、宣教し、悪霊どもを追い出す権能を持つためであった。そして彼はかの十二人を立てた。そして彼は、シモンに「ペトロ」という名を付け、またゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネを立て、彼らには「ボアネルゲス」、すなわち「雷の子ら」という名を付けた。またアンドレアス、そしてフィリッポス、そしてバルトロマイオス、そしてマタイ、そしてトマス、そしてアルファイオスの子ヤコブ、そしてダダイオス、そして熱心党のシモン、そしてイスカリオトのユダを立てた。このユダはまた、イエスを引き渡したのでもある。

§「ひとつひとつの出会い」 

  今日は、Sさんの洗礼式があります。私たちはそれぞれ、この世界で生を受け、そして人生の歩みを進めますが、その途上でどのような出会いが与えられるかはとても大切なことです。人との出会い、趣味や、職業、一生打ち込めるようなものとの出会い、思想や理想との出会い。そして、これらのすべての根底にあるのは、主イエスとの出会い、そして神との出会いです。ひとつひとつの出会いに、特別なものを感じる時に、私たちは神さまが導いていて下さっていることを感じます。Sさんにも、ここで、神さまとの出会いが与えられました。そして今日、洗礼を受け、心に神を受け入れ、これからの生涯を、復活の主イエスと共に歩む決意が与えられました。
  私たちも、ひとりひとり、特別な出会いが今までにあったことを思い起こします。そして、それらの出会いが、乗る電車がひとつ違ったら、ある人との出会いがなかったなら、あの礼拝や集まりに行かなかったら、なかったかもしれないというような、そういうものでありながら、ちゃんと出会いが与えられている、というところが素晴らしいですね。
   今から、15〜6年前ですが、NHKのドキュメンタリーで、イエス・セミナーという取り組みが紹介されていました。様々なバックグラウンドを持つ聖書学者が集まって、福音書のイエスの言葉ひとつひとつを細かく分析して、投票するのです。それぞれの言葉がイエス自身が語った言葉か(赤いボール)、イエスのおそらくこのようなことを言われたのだろう(ピンクのボール)、イエス自身が語った言葉ではないが、そこにある思想はイエスの思想と近い(グレーのボール)、イエスが語った言葉ではない。後の時代のものや、他の伝統を表している(黒いボール)と4種類のボールで投票するのですが、その手法はアメリカらしいなあと思いながらも、参加している学者たちの真剣さに引き込まれました。
   この取り組みは、The Five Gospels-What did Jesus really say?(Macmillan)「五つの福音書、イエスは本当は何を言ったのか?」としてまとめられました。五つ目の福音書は、エジプトのナグハマディーで発見されたトマスによる福音書です。その頃、私はテネシー州のクリスチャン・ブラザーズ大学に留学していました。アメリカで人気のある聖書に、Red Letter Version(赤字版)というものがあります。これは、主イエスの言葉として書かれているところがすべて赤字で印刷されているのです。私の友人たちも、「これは便利だよ。忙しくて、ゆっくり読めない時も、主イエスの言葉だけサッと目に飛び込んでくるからね」、と言っていました。その感覚で開けてみると、このThe Five Gospelsには赤字の少ないこと!大変驚きました。興味深い取り組みで、この取り組みを通じて、聖書学に一般の人々の関心を集めたことは意義があったと思います。
   歴史や習慣などをしっかり学んで、主イエスの言われたことを、その時代にはじめて聞いたなら、どのように人びとは感じ、どのように人生が変えられてしまったのだろうと考えながら読み、それを皆さんにも感じて、主イエスの言葉を味わってほしいという姿勢は、このイエス・セミナーにも参加していたJDクロッサンの研究に触発されたものです。
   トマスによる福音書を読んでみたいと思っておられる方には、「トマスによる福音書」(荒井献 講談社学術文庫)をおすすめします。

§「十二人の選び」

   さて、今日の箇所は、十二人の弟子を選ぶ場面です。弟子たちのことを「遣わされた者」あるいは、使徒と呼びますが、この十二人に限って、使徒と呼ぶのは、ルカ(ルカによる福音書と使徒行伝)の特徴です。
主イエスの時代や、パウロの時代には、弟子たちのことを、使徒と呼んでいました。その中には、女性も含まれていました。パウロによる手紙は福音書より古く、50年代〜60年頃にかけて書かれたと考えられています。そして、真正なパウロの信仰と言葉は力強く、主イエスと近いラディカル(根源的)な傾向にあります。

*ガラテヤ人への手紙3:27−28
 「実際、キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだからである」

  徹底した、神の前での平等の精神です。ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、男性と女性というのはそれぞれ、現代に住む私たちの想像以上に大きな隔たりがあったはずですが、そうしたものをまったく感じません。
  主イエスのまわりにも、女性が数多く行動を共にしていました。そして、十字架を見まもったのも女性たちでした。マルコによる福音書によると「マグダラの女マリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、そしてサロメもいた。」復活の朝にも、油を塗りにお墓へ行ったのもこの3人でした。
 そして、パウロの手紙においても、共に働く働き人に女性の名前が多くでてくるだけでなく、ローマ人への手紙16章では、女性をも使徒として紹介しています。

*ローマ人への手紙16:7
 私の同胞であり囚人仲間であるアンドロニコス(男性)とユニア(女性)とによろしく、と挨拶するように。彼らは使徒たちのなかで秀でており、私よりも先にキリストにある者となった人たちである。

  さて、マルコによる福音書にもどりますが、マルコによる福音書には、使徒に相当する言葉は、ここと6章30節との二回しか出て来ません。そして、この箇所は、ルカによる福音書6章13節と酷似しています。

*ルカによる福音書6章13節
 そして朝になった時、彼の弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、その彼らを使徒とも名付けた。

  これは、ルカによる福音書が書かれた後に、内容が重なるマルコによる福音書のこの箇所に、ルカの6章13節を後世に入れてしまった可能性が高いことを表しています。特に「使徒とも名付けた」という、変わった表現まで似ていることが、それを物語っているようです。そこで、6章13節と重なるところを括弧に入れて読んでみると、しっかり意味が通じますね。マルコによる福音書で選ばれているのは、「これと思う者たち」です。

* マルコによる福音書 3章13−19節
また彼は山にのぼり、自分でこれぞと思う者たちを呼び寄せる。すると彼らは彼のもとにやって来た。(そして彼は十二人を立て、その彼らを遣わされた者(注:ルカにならえば「使徒」)とも名付けた。)それは彼らが彼と共にいるためであり、また彼らを派遣するためであった。彼らが派遣されるのは、宣教し、悪霊どもを追い出す権能を持つためであった。そして彼はかの十二人を立てた。そして彼は、シモンに「ペトロ」という名を付け、またゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネを立て、彼らには「ボアネルゲス」、すなわち「雷の子ら」という名を付けた。またアンドレアス、そしてフィリッポス、そしてバルトロマイオス、そしてマタイ、そしてトマス、そしてアルファイオスの子ヤコブ、そしてダダイオス、そして熱心党のシモン、そしてイスカリオトのユダを立てた。このユダはまた、イエスを引き渡したのでもある

   山へ行くという時に、マルコによる福音書は、どの山かは、語っていません。マルコによる福音書で、山は、神さまに近づくために行くところ、祈りに行くところです。9章7節では、「すると雲が起こって彼らの上を覆うようになった。そしてその雲から声がした、「この者は私の愛する子、お前たちは彼に聞け」。と、神がイエスがどのような存在かを、弟子たちに示したのも、山でした。ペテロとヨハネとアンドレアスが、主イエスに、「私たちに教えて下さい、それらのことにはいつ起こるのですか」と、尋ねたのも山の上でした。
  さて、12人の名前はあげられますが、 この12人の中に入っていない人たちの話題も、たくさん出て来ます。また、 ここに出てくるだけで、その働きが報告されていない人たちもいます。5番目のフィリッポス以下、バルトロマイオス、マタイ、トマス、アルファイオスの子ヤコブ、ダダイオス、熱心党のシモンの7人は、マルコによる福音書ここ以外には出て来ません。ということは、マルコ以前の伝承をマルコが採用したことを物語っています。
   パウロの手紙の中にも、12人が出て来ます。これは、パウロも受け継いだ言葉として、紹介していますので、パウロより前の伝統に基づく記述です。
   
*コリント人への第一の手紙15章1−9節
 さて、兄弟たちよ、私は、私があなたがたに宣べ伝えた福音を、ふたたびあなたがたに告げる。すなわち、あなたがたが受け容れ、そのうちに立っている福音である。もしもあなたがたが、私がどんな言葉によってあなたがたに福音を告げ知らせたかを堅く保持し、空しく信じたのではないなら、その福音によってあなたがたは、救われるのである。なぜならば、私はあなたがたに、まず第一に、私も受け継いだことを伝えたからである。すなわち、キリストは、聖書に従って、私たちのために死んだこと、そしてそして埋葬されたこと、そして聖書に従って、三日目に死者たちの中から起こされていること、そしてケファに現れ、次に十二人に現れたことである。次いで彼は、五百人以上の兄弟たちに一度に現れた。そのうちの大部分は今に至るまで生き残っているが、しかしある者たちは眠りについた。次いで彼はヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れた。しかし彼は、すべての者の最後に、ちょうど「未熟児」のごとき私にも現れたのである。

   ここでは、復活の主イエスは、ケファ、すなわち、ペテロに現れた後、12人に現れた、とあります。すると、ペテロの他に12人がいるようですよね。また、12人の中にイスカリオテのユダも入っているとなると、おかしな感じです。
   これは、12人という、数字そのものが大切なためです。12は、イスラエルの12部族を指します。この12部族自体は、かなり前に滅ぼされてしまっていますが、今ここに、キリストに従う者たちが、新しいイスラエル、真のイスラエル、神に選ばれたものとして、描かれているのです。

*ローマ人への手紙13章9節
 〜その他のどんな誡め(いましめ)も、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(cf.マタイ22:39)というこの言葉に要約されるからである。愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのである。




2009年 7月 19日  礼拝
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング