ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュのある取税人の召命 マルコ2:13−

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「ある取税人の召命」

*マルコによる福音書 2章13−20節

   さて、彼は再び海に沿って出かけて行った。するとすべての群衆が、彼のもとにぞくぞくとやって来た。そこで彼は、彼らを教え続けた。
   また彼は、通りすがりにアルファイオスの子、レビが収税所に座っているのを見た。そして彼に言う、「私に従って来なさい」。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
   さて、彼の家でイエスが食事の座で横になるということが生じる。さらに、多くの徴税人や罪人が、イエスやその弟子たちと一緒に横になっていた。彼の従っていたそのような者たちは、実に大勢いたのである。するとファリサイ人たちの律法学者らが、彼が罪人や徴税人と食事をしているのを見て、彼の弟子たちに言うのであった、「なぜ彼は、徴税人どもや罪人らと共に食事などをするのか」。そこでイエスはこれを聞いて彼らに言う、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」。
    さて、ヨハネの弟子たちとファリサイ人たちが断食していた。そこで人々がやって来て彼に言う、「なにゆえヨハネの弟子たちが断食しているのに、あなたに従っている弟子たちは断食しないのか」。そこでイエスは彼らに言った、「新婚の部屋の子らは、そこに花婿が彼らと共にいるのに断食できるだろうか。花婿が彼らと共にいる間は、断食できるはずがない。しかし、花婿が彼らから奪い去られる日々が来るだろう。その時こそ、その日にこそ、彼らは断食するだろう。      
                                                                                                                      佐藤 研 訳

§「新型インフルエンザ」 

   ここ数週間のニュースは、新型インフルエンザでいっぱいです。マスクをしている人が増え、もうこのあたりでも、どのお店でもマスクが売り切れているのだそうです。また、高校生たちの今年のホームステイツアーや、修学旅行が軒並み中止になっているのだそうです。病気、特に経験したことがないような病気というものは、確かに恐ろしいですし、弱毒性とはいうもののこの新型インフルエンザの感染力はかなり強いらしいですが、社会全体が過剰な反応を示しているように思えてなりません。このように、ちょっとした不安や恐怖で付和雷同するという性質は、冷静な判断や、正しい選択をすることを妨げてしまいます。
   ここに、私の大好きな写真があります。第二次大戦中、ロンドンで撮られたもので、ドイツ軍による大規模な空襲の次の日、爆撃で屋根もなくなってしまった図書館で、何事もなかったかのように書架の前に立って本を読む人々。怒りや恐怖を通り越した先にある、心の平和を感じます。
  ちょうど十年ほど前、イスラエル、特にエルサレムの市場や繁華街で毎日のようにテロ事件が起きていた時に、あるリポーターが地元の人たちにある疑問を投げかけていました。「爆弾テロが毎日起きているのに、なぜ街に人々は出るのか」。これに対して地元の人々は、「テロは恐ろしい。しかし、テロの恐怖のために自分の行動を制限するなら、その時こそ私たちがテロに屈したことになる」、と言って、生活を変えませんでした。
   なるほど、と感心した記憶がありますが、残念ながら今、イスラエルはテロに対する脅威のために、パレスチナの人々を封じ込める分離壁を作り、ナチスがユダヤ人をゲットーに押し込めたように、パレスチナ人を壁の内側に閉じ込めています。散発的に打ち込まれる手作りのロケット弾に、最新鋭の兵器で、一般住民が住む町を攻撃し、殺戮を続けました。そして、強硬派の指導者を選挙で選ぶ...これらも明らかに過剰反応ですし、テロに屈し、暴力と恐怖のスパイラルにはまりこんでしまっているのです。
   かつて、およそ今から三千年の昔、メソポタミア文明では、このような暴力と復讐の連鎖を断ち切るために、ハンムラビ法典のなかに、「目には目を、歯には歯を」という、復讐法が入れられました。目を傷つけられたなら、報復は目だけにしておけ、歯を折られたなら、その報復は歯だけにしておけ、という法律は、際限なく復讐をエスカレートさせていく人間の性(さが)に歯止めをかけるためのものでした。しかし、現代の多くの国々の指導者は、そこにも到達していません。
   こうした、力がものを言うような世界にあって、主イエスは私たちに、新しい価値観を与えて下さいました。

*マタイによる福音書5章9節
   幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。

*マルコによる福音書12章 29節〜
    第一のものはこれだ、聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこでお前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くし、お前の想いを尽くし、お前の力を尽くして愛するであろう。第二のものはこれだ、お前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう。これらより大いなる他の掟は存在しない。

  神を愛することと、人を愛すること。そして、隣人を愛するということは、具体的にどのようなことかを、「お前の隣人をお前自身として愛せよ」、という言葉で教えて下さいました。
  そして、さらに、愛する隣人の幅を、同じ仲間、家族や、民族や宗教、そして慣習を共有する人々の枠を超えて広げ、誰でも隣人となりうるのだ、ということを教えてくださいました。
   しかし、主イエスのメッセージは、そこでも留まることはありません。

*マタイによる福音書 5章43節
 『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。

   「あなたの敵を愛し、迫害するものたちのために祈れ」、とは! なんという深いメッセージなのでしょうか。

*マタイによる福音書 13章33節
 彼は彼らにほかの譬を語った、「天の王国は、(次のような)パン種と同じである。一人の女がそれをとって、三サトン(約40リットル!)の粉の中に埋めた。すると全体が発酵した」。
   
   主イエスの、神の国の福音に触れるということは、このようなことなのだと思います。その理想に触れたなら、主イエスに出会ったなら、その喜びのうちに、さらにその福音が広がって行くのです。恐怖や不安と違い、広がって行った先での喜びは、非常に大きいのです。
   しかし、実際、キリスト教は、他の宗教と同じように、時の権力に利用されて来たという歴史があります。最近では、その利用のされ方は「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」という、実話に基づいて作られたアメリカ映画に、描かれていました。
   私たちに必要なのは、常に、主イエスは、どのように教えられたか、どのように生きられたか、というところに、立ち返って考えることです。それぞれの属する宗派の成り立ちのところへ戻れ、というのでは到底足りない。人間社会の影響を様々に受け、必ず主イエス自身が示された神の国の福音、権能ある教えが必ず薄められてしまうからです。プロテスタントが生まれた、マルティン・ルターまで戻るのでも足りない、新約聖書の時代、原始キリスト教会へ戻れ、というのはどうか。これでも足りない。主イエス、そしてパウロの後の時代にあっても、人々は主イエスから受けた福音から後退し、例えば男女平等の理念一つとっても、「男も女もない」から、男中心社会へと移行してしまいます。その様子が、新約聖書の中にも活き活きと見いだすことができます。聖書の聖書たる所以は、多くの保守的なクリスチャンが主張するように、「誤りのない完璧な」ものなのではなく、主イエスから伝えられた神の国の福音と、それを懸命に受け継ごうとする人々、そして、人々の躓き、保守化、その中で立ち上がる主イエスの福音へ立ち返ろうとする人々の努力と葛藤が活き活きと描かれていることにあります。言い換えれば、現実から遠くはなれた理想が書かれているのではなく、混沌とした現実の世の中にあって、主イエスの示された福音のために、いかに人々が闘ったかが記されているので、そのまま私たちの現実にぶつかる問題に、福音と、そして先達の歩んだ道が示されるのです。

§「ある取税人の召命」

   福音書で活躍する人々は、その国や地域の高い地位にある人たちではありません。漁師や、女性や、病気を持ち、主イエスに癒してもらった人たちです。ユダヤ教は、清いことと、穢れていることをはっきり分ける傾向にあります。そして、これはユダヤ教に限ったことではなく、人間社会に共通した、差別を生む性質でもあるのです。清さを追い求めるうちに、穢れているとした者たちを、差別し始めるのです。そして、ユダヤ教の戒律を守れないような貧しい人々や、病いや血が出ることによって穢れているとされる人々を、「罪人」と呼んで、蔑んでいたのです。マルコの福音書で「罪人」と言う場合、地の民(アムハアーレツ)を指し、中でも、取税人は、大変嫌われる存在でした。それは、占領者、ローマの為に税金を集める仕事を請け負ったからですし、ローマが、このような者を集めるために、税金に自分の取り分を上乗せすることを認めていた、ということもあるでしょう。
   しかし、主イエスの目は、このような差別を受ける側の者たち、その中でも、最も蔑まれる者たちにも注がれていました。そして、「私に従って来なさい」、と声をかけて従わせ、ここでは、アルファイオスの子レビの人生を変えてしまわれます。そして、食事を共にするのでした。パウロの言葉を借りれば、「 もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない」のです。これは、主イエスと共にいる者たちにとっては、まさに、神の国はこのように、分け隔てなく、どのように小さな存在でも、神は子として、愛して下さっている、ということを実感する経験であったことでしょう。しかし、男女が食事にも、礼拝にも、学びにも同席しないことが当たり前な社会で、すべての活動を共にし、そこに取税人までもが受け入れられているということは、また、保守的な人々から見れば、大変スキャンダラスな生き方と映ったことでしょう。「なぜ彼は、徴税人どもや罪人らと共に食事などをするのか」、という言葉は、そのような価値観を代表しています。それに対して、主イエスの答えは、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」、というのです。
   自分たちを「義人」として他を見下し、差別し、病いを追っている人々や、社会的弱者に対して、同情を持たないばかりでなく、そのことに疑問をも持たないような者を呼ぶために来たのではない。神を求め、救いと、喜びとを望んでいるもののためにこそ、主イエスは来られたのだと、言われるのです。
   18節から20節をもう一度お読みします。
   
* さて、ヨハネの弟子たちとファリサイ人たちが断食していた。そこで人々がやって来て彼に言う、「なにゆえヨハネの弟子たちが断食しているのに、あなたに従っている弟子たちは断食しないのか」。そこでイエスは彼らに言った、「新婚の部屋の子らは、そこに花婿が彼らと共にいるのに断食できるだろうか。花婿が彼らと共にいる間は、断食できるはずがない。20 しかし、花婿が彼らから奪い去られる日々が来るだろう。その時こそ、その日にこそ、彼らは断食するだろう。

   断食は、禁欲的な修行や、また罪のあがないのために行われていました。しかし、主イエスは、断食を重んじてはおられませんでしたし、食事の前の清めの儀式にも関心を払っておられませんでした。(マルコ福音書7章参照)、食べ物についても、大変おおらかで、ユダヤ教には様々な食物規定がある中で、 「彼はすべての食べ物を彼は清いものとするのだった」(7:19b)というほどです。婚礼は、喜び、神の国の到来をあらわしています。主イエスにとって、もう神の国はそこにあるのです。(20節については、19節までの喜びのトーン、調子と全く違います。後に、断食の習慣が戻ったことを正当化するために、付加されたものと考えられます。)

*マルコによる福音書1:14−15
さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。そして、神の福音を宣べ伝えながら言い続けた、「この時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。
 2009年 5月 24日
高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング