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4000字の世界コミュの「階段で待つ」

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 達郎は来ない。
 かじかんだ両手を握ったり開いたりしながら、忍はじっと階段を見あげていた。
 駅の改札口を通って、次々と人がおりてくる。よごれたスニーカーやすそのすり切れたジーンズが見えるたびに、忍はすこし身構えたが、そのつど、予想とはちがう顔を見て吐息をついた。
 彼女はその間もずっと手をぐっぱぐっぱさせていて、寒ければポケットに入れればいいだろ、と以前、達郎に言われたことを思い出していた。
 まだ付き合いはじめたばかりの頃で、当時の忍は、彼が手を握ってくるのをひそかに期待していたのだが、達郎は人前で触れられることを極端に嫌った。指一本触れることも、一緒にならんで歩くことすらもできなかった。忍は次第にうんざりしてそっぽを向いたが、それでもポケットに手を入れたりはしなかった。階段をおりるときには危ないから両手をポケットに入れるなと、子供のころに父親から説教されたことがあって、それがトラウマとはいかないまでも印象深く、忍の心に残っていたからだった。
 以来、階段だけではなくどこででも、両手は外に出すことにしている。手袋もしていない。手袋はただたんに、いつも着けていたものをはずした拍子に落とし、よごしてしまったからで、もう片方は無事だったものの片方だけ手袋をしているというのも何だか収まりが悪いような気がして、着けていないだけだった。
 電車が発進して、はきだされた人ごみはそれぞれバスの停留所に長い列をつくり、タクシー乗り場に駆けこみ、迎えのある者はロータリーに並んでいる車に向かっていった。階段をおりる人の姿は消えて、あたりはすこし、静かになった。構内に入ってゆく人影もあまりない。腕時計を見るとすでに二十二時をすぎていて、今日はちょっと長居がすぎたと、彼女は両手に息を吹きかけた。

 音をたてずに、霧雨が降っている。
 達郎は今日も来なかった。
 忍は背後の掲示板に寄りかかってそう思ったが、来なくて当たり前だった。達郎が行方をくらませてから半年も経っている。今頃は、昔から憧れていたらしいタイやバンコクをうろついているかもしれないし、実家でコタツに入ってミカンでも食べているかもしれない。
 もともとホテルのボーイをしていた彼は、普段から様々な国籍の客に触れる機会がおおく、そのせいか、世界中を旅してまわりたいと言っていた。しかし気の弱い達郎にそんな大それたことができるはずもないと、忍はそういった風にも考えており、どうせ実家の両親に泣きついているに違いないと思う。彼は信州のどこかから上京してきたはずだったが、実家の場所を教えてくれたことはなかった。
 彼女はいつも、仕事がおわって帰途につくと、地元駅のこの場所で、ふたつみっつ電車が通りすぎるのを待つことにしている。いつも待ちあわせに使っていた場所で、電車が達郎をはきだすのじゃないかと待ちつづけている。もう待ってもしかたがないとは思うのだが、そうすること自体がひとつの習慣のようになってしまった。
 背後には駅の掲示板があり、そのうしろにはコンビニエンスストアがある。そこは待ちあわせに適した場所で、忍以外にもふたり、出迎え人の姿があった。しかし、そのうちのひとりの女の子は、自転車でやってきた若者のうしろに乗って去り、もうひとりの主婦らしき女性は、改札口でなにかトラブルでもあったのか、おくれて階段を駆けおりてきたサラリーマンと一緒に、傘をさして行ってしまった。
 階段も、背後のコンビニエンスストアも明るかったが、忍のいる場所だけ暗かった。彼女は首をコキコキと鳴らして、もう一本だけ待ってから帰ろうと、ぼんやり考えた。

 歩道の向こうからひとりの少女が歩いてきて、忍の隣にならんで立った。さしていた傘をたたむと、十二、三歳ほどだろうか、くりくりとかわいらしい目をした顔があらわれた。いま閉じた傘とともにもうひとつ、おおきな灰色の傘をかかえている。
 次の電車が来るまで、まだ時間があった。
 停留所からはバスの姿が消えて、うるさいエンジン音が聞こえなくなった。タクシーも二台ほど並んでいるものの、ひとりの運転手はコンビニエンスストアに入ったまま出てこないし、もうひとりは運転席で眠りこけている。ロータリーに、迎えの車は他にない。車道を走る車もおらず、ふいに、あたりを静寂が包んでいることに、彼女は気づいた。
 霧雨は静かに宙をさまよっている。
 こんな時間に、こんな子供を迎えにこさせるとは、一体どんな神経をしているのだろうと、忍は見たこともない親にたいして憤った。変質者に連れ去られたらどうするつもりなんだろう。チラリと横目で見ると、少女はそんな恐怖など無縁ですといったような目で、つまらなそうに俯いている。
「お迎え?」
 と聞いてみると、話しかけられたことに驚いた様子で、彼女はすこし黙ってから、「はい」とうなずいた。
 沈黙。
「お父さん?」
「……お父さん」
 少女が心なしか目をそむけているのを見て、忍はそれ以上聞くのをやめた。
 階段を見つめて、黙って思う。彼女自身、子供の頃、よく父を迎えにきていた。ちょうどいま隣にいる少女とおなじ歳のくらい、中学生になるかならないかという歳の頃だった。どういう理由か忘れたが、そこに母の姿はなかった。母は昔から活発な人で、確かママさんバレーに夢中になっていた頃だから、何かそんなような理由でいなかったのだろうと、彼女は思った。
 父はいつも、ゆっくりと階段をおりてきた。
 もともと何をするにも動きがおそかった。それはおそらく慎重さのあらわれで、誰よりものんびりと改札をくぐり、階段をおりた。そうするとまず、清潔な黒い革靴が見える。父の用心深さは徹底されていたから、革靴がよごれているようなことはなかった。そして、ただしく折り目のついたスーツのすそが見え、しわの少ない黒いズボンが、しっかりとボタンを留めた上着が見える。
 父の顔があらわれ、忍の顔を認めると、すこし驚いたように目をおおきくした。父の目の動きを見るのが、忍は好きだった。父は穏やかにわらって、階段をおりきると、彼女の頭に手をやった。
 うずくまっている少女を横目で見おろしながら、彼は正反対だったと、忍は思った。
 印象にのこる父と、達郎の姿は対極だった。彼はずぼらな人間だったし、身だしなみもだらしなかった。すこし長すぎるジーンズのすそを、いつも靴のかかとで踏んでいた。スニーカーの爪先には穴があいて親指が見えたし、いつでも長袖のTシャツを着ていた。
 それでどうやってホテルのボーイが勤まるのかと、忍は問いつめてみたことがある。達郎が言うには、いつもコギレイな格好をしている反動が、休日に出るのだということだった。どこか嘘っぽいとは思いつつも、髪の毛は常からこざっぱりとしていたし、無精ひげを生やしたりもしなかったから、おそらく彼の言う通りなんだろうと、忍はなんだか悔しいような気持ちで納得させられた。
 父とはまったく違う外見だったが、動作がゆっくりしているという点では、共通項があった。父の慎重さにくらべて、達郎はただたんに動きがニブいだけのようにも見えたが、とにかく誰よりもおそく改札を通り、誰よりもおそく階段をくだるところは、同じだった。
 でもやっぱり、と彼女は考え直す。やっぱり、父とは違う。彼は、足を投げ出すようにしておりてくる。汚いスニーカーとジーンズ、ぶらぶらと無造作に左右にふる両手が見えて、ぶっきらぼうな達郎の顔があらわれる。

 隣でうずくまっていた少女が立ちあがった。
 彼女の視線のさきに目をやって、忍はすこし背筋をのばした。
 靴が見え、足が見え、カバンがあらわれ、顔が出てくる。隣の少女がおおきな灰色の傘をさしだすと、階段をおりきった小太りな中年男は、うれしそうに傘を受けとった。
 いつのまにか電車が来ていたらしい。男のあとから次々と、帰宅する人々が階段をおりてくる。しかしもう夜も遅く、人影はまばらだった。
 忍が溜めていた息をはきだした頃には、ふたたび静寂がおとずれていた。
 胸の鼓動が、すこしだけ早くなっていた。彼女は右手を胸にあてて、息をおおきく吐き出した。一瞬、あの少女の傘をうけとった男の姿と、達郎の姿とが重なって見えたからだった。外見は似ても似つかないのに、何故か、彼がそこにいたように感じられた。
 忍は冷たい手を額にあてた。
 霧雨はまだふり続いている。彼女は傘もささずにタクシー乗り場へと向かった。カツカツとヒールの音を響かせて、こまかい雨のミストを顔に浴びながら、頭の中では、すでに明日の仕事のことを考えていた。


おわり

コメント(2)

 ハルチルさん、こんばんは。
 お読みいただきまして、ありがとうございました。

 テクニック、というほどのものは何もないんですが、終わり方が好きだと言っていただけたのは嬉しいです。
 本当はもっと、投げ出すような書き方をしてみたいんですが、どうしても繋げよう、リンクさせよう、と小さくまとめがちです。これが功を奏するか否かは、話の種類にもよるんでしょうね。

 忍が達郎を待ち続ける理由に説得力がなかった、とのこと。
 たしかに、そうですね、私が彼女の立場だったら、半年以上なんて絶対に待たないでしょう。
 彼女はきっと、達郎その人を待っているんじゃないのだろうと思います。もっと漠然とした何かですね。
 二、三の電車が通りすぎるのを見届けてから帰る彼女の習慣は、そのうち、なし崩し的に忘れ去られるに違いありません。
 彼女の日常を形成する一コマを、ああ、もっとうまく、正しく、伝えられるようにならなければいけませんね。

 まだまだ、本当に拙いもので、お目汚しとなってしまいますが、もっともっと上達できると信じて、10枚の世界を追求していこうと思います。
 ご指摘、感謝です。
 もっと、がんばります。
 ありがとうございました。

 m(_ _)m

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