ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

4000字の世界コミュの「はつ雪」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 彼女の姿を見かけた時、悟はようやく春が来たと思った。雪解けの水が陽光をするどく跳ね返す様を見た気がした。それまでが極寒だっただけに、彼の心におとずれた春の兆しは実際以上に鮮やかなものとなったのだ。
 たしかに長い冬だった。悟のいささか突拍子もない自意識が生んだ心象の季節は四季ではない。ひたすら冬一辺倒である。中学二年生の少年の心に、いまだ冬しか訪れたことがないというのは侘びしい話で、どこか胡乱な誇張がある。しかし彼の自意識は高らかに告げていた。僕はこれまで一度も人生の春を経験したことがない! 彼は待っていたのだった。積もっていた雪が解け、雪解け水でできたぬかるみの水溜りに、冴え冴えとした青空が映る季節を。

 この年頃の少年たちにとって、恋をするということは、ほとんど義務である。彼らは大概の場合、必ず恋をしなければならないと無意識のうちに考えている。同じ年頃の少女がなんらかの理由で微笑んでいるような時、ふと目が合ってしまった少年はたいてい、目をそらし、そわそわし、ぐっと奥歯を噛みしめる。そこに梯子の一段を発見するからだ。彼らはいつでも梯子に手をかける準備ができている。きっかけさえあれば、すぐにでも駆け登る手筈が整っている。だがそれは少女に声をかける勇気とは別のものである。普通に生活していれば訪れるはずもない危機から彼女を救う妄想に浸ったり、好きな子の笑顔を思い浮かべて蔦の這う白い壁や星空をただただ見あげたりすることこそが、彼らにとっての恋のすべてなのだ。
 常にクラウチングスタートの状態にある友人たちの姿を、悟は小学生の頃から羨望のまなざしで眺めていた。悟は生まれてこの方、一度もそうした恋を経験したことがないのだった。成就したかどうかはさておき、次々とはつ恋を済ませてゆく友人たちを見ていると、いてもたってもいられなくなり、誰でもいいから一度は女の子を好きになってみたいと思うのだが、クラスメイトの女子たちは憎たらしかったり鬱陶しかったり徒党を組まれるのが怖かったりしてなかなかその対象とならず、そうするとだんだん、意欲が薄れてゆくのだった。叫びだし、走りだしたいほど恋がしたいのに、その相手が見つからないのである。学校と家以外の世界を知らない悟は、すぐに絶望してしまった。これは冬だ! と彼は思った。希望の種子はみんな芽を出さずに枯れてしまった。おまえは誰のことが好きなんだ、おれは誰それのことが前から気になってて、とお互いに毎年のように告白し合って一喜一憂している友人たちのそばで打ちひしがれながら、悟は十四歳になったのだった。物心がついてからたかだか数年程度のことなのだが、十四歳の彼にしてみれば、人生の大半の時間を冬の気分ですごしてきたのである。
 そこに現れたのが高濱翔子なのであった。一階で花屋を営む母が階下から手伝いなさいと怒鳴るのを無視して、二階の自分の部屋にこもってマンガを読んでいた時、ふと見おろした窓の外で、彼女が笑っていたのだった。無邪気な笑い声が悟の気をひいたのである。家の裏手は小さな公園に面していて、彼の部屋からは木々の梢を透かして公園全体を見わたすことができた。
 悟はすぐさまカーテンのわきに隠れた。自分と同年代に見える少女が、妹だろうか、幼い女の子とかけっこに興じていて、無防備な笑顔を浮かべている。喉の奥まで見えそうなほど大きく開かれた口に、悟は頬を叩かれた思いがした。なんて明るい笑顔なんだろう! 無邪気に笑うだけならクラスにも何人かそんな女子がいたが、彼女の妹を見つめる目つきには、同級生の女子には見られない、大人めいた慈愛がこめられていた。
 悟はにわかにそわそわした。公園は木々で囲まれているのだが、ブランコの後ろにある茂みに、数ヶ月前からひとりの浮浪者が住み着いているのだった。頬はこけ、肌は黒ずみ、油じみて固まった長髪をまとめもせず、浮浪者はじっと公園の中央を駆け回っている二人に目を向けている。危険だ、と思った悟は飛び出していって見知らぬ少女たちを保護したい気分にかられたが、彼女の笑い声は周囲の空気をすべて清浄にする効果があるように思われた。そんな中で見ていると、浮浪者でさえもが周囲の木々の黒々とした幹と同じく生命感にあふれて見え、危険なんてどこにもないじゃないか、という錯覚をおぼえるのだった。
 少女たちは無事に公園を出て行った。悟は笑い声の余韻を味わいながら、自分の心の中に春が来たことを瞬時に悟った。自然と頬がゆるみ、室内を歩き回り、階下から聞こえてくる母親の怒鳴り声を耳にし、つむじからかかとまで気恥ずかしさに貫かれた。彼はベッドに飛びこみ、脛をベッドの木部にぶつけて悶絶した。

 翌朝学校へ行った悟は、あっさりと運命を信じた。昨日公園で見かけた少女が、彼のクラスに転校生として現れたのである。悟は目を点にして真新しいブレザーに身を包む少女を見つめた。高濱翔子、と黒板にていねいに書いた彼女は、緊張と怯えのいりまじる目を教室中に投げかけた。怯えはあったが、ひとりひとりの目を真っすぐに見ようとする誠実な目つきであった。彼はすぐに駆け寄っていって、心配することなんて何もないんだ、と慰めたくなる衝動をどうにかこらえつつ、沸騰したお湯となって激しく弾ける喜びを、必死になって噛み殺していた。これは春だ、信じられない、僕の人生に春が来た! 僕は今、はつ恋をしている!
 しかし彼の喜びには、すぐに冷水がかけられてしまった。休み時間になるたびに翔子のまわりに群がるクラスの女子が、有能な探偵となり、昼休みが終わる頃になるともうすっかり彼女のプライベートを探り当て、鈍器の一撃に似た言葉を悟の耳に浴びせかけたのである。ええ、高濱さん彼氏いるの! と甲高い声で告げられた一言は、悟だけではなくほか数人の男子生徒をも打ちのめしたが、悟は彼らの誰よりも強い落胆に飲みこまれていた。ショックは激しい音となって彼の脳内を埋め尽くした。目前が真っ暗になって立ちくらみを覚えるほどであった。そんなばかな! と彼は思った。春が来たと思った途端に、草花が全部萎れてしまった! 今日の夕方、近所の公園で、隣県に住むその彼氏と会うことになっているという事実を突き止めた女子たちは、見学に行こうか、でも邪魔しちゃ悪いよ、でもみんなで応援するから、と口々に声高なエールをあげ、翔子はほとほと困りはてた笑顔を浮かべていた。その笑顔もまた彼の心にほのかな明かりを灯したが、マッチの小さな火では極寒の吹雪のなかで暖をとることなど到底できないのであった。
 悟はとぼとぼと家路に着いた。いつもとは違う理由で母親の強制を無視し、部屋に閉じこもった。せっかく春が来たと思ったのに! 彼は地団太を踏んで、ますます階下の母から怒鳴られた。また真冬に逆戻りだ。ふと公園を見おろすと、浮浪者がいつもの茂みのなかで、枝と枝の間に這わせたロープにタオルを干している。そこへふいに、翔子が現れた。彼女は足どり軽く公園に入ってきたかと思うと、ブランコのわきにあるベンチに座って、腕時計に目を落とした。浮浪者の存在には気づいていないらしく、悟はまた危機感に駆られたが、助けに行こうとする気力が湧かない。彼はベッドに飛び込んで頭から布団をかぶった。真冬なら真冬でいい、と強く瞼を閉じながら彼は思った。熊みたいにずっと冬眠していよう。もう春なんて望むのはやめよう。目がちかちかするほど強く瞼を閉じて、熊みたいに、熊みたいに、と念じているうちに、悟は眠りに落ちてしまった。

 目覚めると、室内は暗くなっていた。彼はぼんやりとした目で時計を見た。まだ二時間しか経っていない。頭のなかは霞がかっていて、あいかわらず気力が湧かなかった。電気もつけないまま立ちあがった彼は、公園の街灯によって四角く照らされている窓にふらふらと近寄り、公園を見おろし、自分の目を疑った。街灯の白い光に照らされて、翔子がまだひとり、ベンチにぽつんと座っていたのである。彼氏は来ていないのだろうか。もしかしてすっぽかされたんだろうか。そう思うと怒りが芽生えかけたが、ふと翔子の表情に見入った彼は、思わずカーテンを掴んでいた。遠目で見え辛かったが、翔子はかすかに眉間に皺を寄せ、それでも前を向いている。じっと一点を見つめている。彼女のその姿を見た途端、悟は何も思うことができなくなっていた。頭のなかが真っ白になった。彼はいきなり、これまでずっと冬だと思いこんでいた自分の心が、実は常に春に支配されていたことを知った。冬なんてどこにもなかった。これまでの彼の心は、緑色の草木や極彩色の花々に彩られていたのだった。日中、翔子に彼氏がいたことを知らされた時ですら、彼の心には賑やかな風が吹いていたのだった。そして彼は、てっきり真冬だと勘違いしていたその騒々しい心象が、すでに遠い過去のものになっていることに気づいた。ブランコのうしろの茂みの陰に、浮浪者があぐらをかいて座っている。その表情は計り知れなかったが、ずっと彼女の背中を見つめていたらしかった。
 ややあって翔子は立ち去った。浮浪者は彼女の背中を見送った後、ごろりと横になってダンボールに包まった。悟は窓辺に立ち尽くしたまま何も考えることができず、かすかな塵のような感情が少しずつ、音もなく心に降り積もるのを黙って感じていた。

 おわり

コメント(4)

>ハルチルさん

 お読みいただきまして、ありがとうございました。

 実際には雪を降らせず、少年の心に降り積もる感情を雪として表現したかったのですけども、あまりに露骨で、稚拙で、恥ずかしい結果となりました。
 もっと婉曲で迂遠な方法があるだろうに、思いつきません。むずかしいですね。
 翔子さんの彼氏は、結局、来なかったんだと思います。彼女の心にも塵みたいな感情が降り積もっているんだと思います。

 もっともっと巧く描けるようになりたいです。勉強させてください。
 ありがとうございました。
>パピィさん

 お読みいただきまして、ありがとうございました。

 その話、興味深いですね。
 勝手な印象ですが、チェーホフの短編にありそうな雰囲気で、私は好きです。読んでみたいな。
 私は女性を主人公にした話もいくつか書いていますが、別の話では、少女と老人を組み合わせたりもしています。
 対比の際立ちとして、そういう組み合わせが気に入っているんですね。

 お読みいただけて、とても嬉しかったです。
 パピィさんの投稿も、お待ちしておりますよ。
 ありがとうございました。 

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

4000字の世界 更新情報

4000字の世界のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング