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関嘉寛ゼミ 09’コミュの10月23日・24日の塩谷の活動

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新潟県中越地震の6年目の追悼式に参加してきました。
参加者は4回生有山・3回生伊賀・吉田の3名でした。

コメント(2)

22日の夜行バスで出発、23日の7時半に長岡駅に到着した。
身支度や朝食を済ませ、10時すぎに関先生の車で塩谷に向かった。

着いてすぐに、正文さんの車庫の中で籾すりの見学をした。
籾すりとは、収穫したお米(玄米の状態)から脱穀をすることで、正文さんの機械では2回籾すりをすると白米になるということだった。今年は暑い日が続いたせいで、2等米が多いということをテレビで見たが、お米を見ると以前より粒が小さい気がした。そのあと芳之さんのお家に向かったが、いらっしゃらなかったので、正人さんのお家に向かった。今日は、渥美先生とスカイプをするようだったので見学に行った。カメラのついていたので、渥美先生のお顔を久しぶりに見ることができた。お互い近況報告をして、1時間くらいお話をしたところで切ることになった。そして正文さんのお家に帰ると正文さんのダンプ仲間が来られていた。すでにご飯を食べ始めていた。今日の昼食は新米と焼き肉、コロッケだった。新米は最高で焼き肉、コロッケもご飯と相性抜群で本当においしかった。

そして、次は山古志へと向かった。今日は23日なので山古志でも追悼イベントが行われているということだった。先に正文さん家の籾殻を厩舎に届けてから、山古志闘牛場に向かった。山古志闘牛場は行くのははじめてだった。
闘牛場には、当時の地震の記事が大きく貼られていた。それを見て、正文さんやダンプ仲間の方とお話をした。2人は「おっきなヘリコプターだったなぁ(自衛隊の救助のヘリ)」「正文は隔離されたんやったなぁ(正文さんがいびきがうるさいため)」と話していた。私ははじめて聞く話もあり、よく考えると地震の話は自分からはなかなか聞けず、向こうが自然に話してくださるのを聞いているからだと思った。闘牛場の中は、とてもきれいで聞くとできてから2年くらいしかたっていないからだった。椅子の上にはぎっしりろうそくが立っていた。なんでも、キャンドル・ジュンさんがプロデュースされているそうで、「あれ本人かなぁ?」などと話した(実際本物だったよう)。会場は制服姿の学生ばかりで、山古志中学校の学生がお手伝いをしているようだった。しばらく見学してから闘牛場をあとにした。その後鯉の品評会をしているということで山古志支所に向かった。しかし、鯉の品評会は明日だということで塩谷に戻ることにした。
塩谷に戻って、はざかけのはざ壊しをした。吉田さんと伊賀さんははしごに上ってはざ壊しをした。私は下でなわを結んだりした。はざを1回作るのは半日くらいかかるらしいが、壊すのは1時間くらいだったように思う。毎年作っていると思うと感心した。そして、終わったので正文さんのお家に戻った。色紙の準備をしたりして、そろそろ時間になったので慰霊塔に向かった。慰霊塔の前にはたくさんの人とメディアがいた。ろうそくを受け取り、3人でろうそくを供えて手を合わせた。私は外の人、しかも地震当時のことを知らない私たちのような人がこの場にいていいのだろうか?と思ったが、芳之さんは「手を合わせてくれてありがとう」と言ってくださったので少し安心した。17時56分までは、みんな挨拶をしたり中には再会を喜ぶ声が多く聞かれた。当時亡くなられた子供さんの同級生も多く来られていたようだった。そして17時56分、黙祷を行った。同じ日にちの同じ時間に地震が起こったことを考えた。暗くて寒かった。阪神大震災も寒くて暗かった。しかし、中越地震はそのまま夜を迎えると思うとどんな気持ちだったのだろうか考えた。私には到底理解できない苦しみなんだろうと思った。
黙祷が終わってからはセンターに向かった。区長さんの挨拶のあと、交流会を行った。芳之さんとの話が特に印象的だった。芳之さんは「想いがあればつながってれる。有山さんは優しい人だ。想いが伝わってくる」ということや「芒種庵
ははじめは村でやろうとしていた。しかし反対されて有志でやることにした。今はそれでよかったと思う。想いのある人が集まればいい」とおっしゃっていた。芳之さんは「想い」や「つながり」をすごく大切にしているんだろうということが伝わってきた。そしてその日はお開きになって一旦解散した。そのあと関先生、伊賀さん、吉田さんが帰ったあとに芒種庵にいった。そこからはいろいろ話したように思うがあまり覚えていない。そして正文さんと正文さん宅に帰りもう一度飲んでいると勝昭さんと高橋さん(福島)が来られた。またそこで何を話したのか覚えておらず、そのまま少し話をして解散した。私もお風呂に入ってすぐに就寝した。
24日(日)

朝7時に起床する予定だったが、起きたら8時半だった。びっくりしてすぐに身支度をして下に降りると正文さんはいなかった。外を見ると卯三郎さんのお家の前にいるようだったので、卯三郎さんのお家に向かった。みんな柿を食べており、「有山さんも食べるか?」とおっしゃつたのでいただくことにした。正文さんが木からもいでくださり、その場でオキさんが剥いてくださった。とっっても甘くおいしかった。正文さんはどんどんもいでくださった。それを卯三郎さんが「甘い」「甘くない」でわけていた。私がなんで見分けられるのかを聞くと「柿の下のところの黒いポチが大きかったら甘いんだよ」と言っていた。オキさんが「柿博士だよ」と言っていた。そのあと、道路に座りながら柿を食べた。その時に地震の話になった。オキさんもヘリコプターの話をしており、「大きかった〜迎えが来たのは朝の6時だったなぁ」と言ったので「夜はどうしてたんですか?」と聞いたら「とりあえずセンターの裏の高台に避難していた。そして高齢者はセンターに避難した。みんな道路とかに毛布をひいて寝た。余震がずっっと続いていた。怖かったぁ〜」と話しておられた。やっぱり想像が難しかった。
そして、卯三郎さんたちに御礼を言って、次はたかしさんの畑に向かった。昨夜たかしさんが「勝手に畑行ってもって帰っていいよ」とおっしゃっていたのでお言葉に甘えることにした。畑にはまだトマトやなすび、かぐらなんばんがたくさんなっていた。それらをたくさんいただいて正文さん宅に戻った。そしてまたはざを壊しに行った。途中ではざ壊しをやめて、正文さんの山に向かった。地震前に正文さんが飼っていた鯉の池や田んぼ跡などを見た。しかし、地震によってすべてなくなってしまい国が買い取ったという話も聞いた。これから時間をかけて唯一残った田んぼのあったところを再生させたいとも話しておられた。
それから芒種庵に向かった。そこには宏さん、賢治さん、木戸さん、勝昭さん、高橋さん、正文さん、わたし、芳之さんが来ていた。たわいのない会話をしながら、高橋さん作のおじややお酒をいただいた。話しながらみんなあったかい人だなと感じた。15時頃に解散し、またはざ壊しに行った。その時に正文さんが土地を貸している方の畑の大根を抜かしてもらった。
そして30分くらいかけてはざを壊して正文さん宅に戻った。私は荷物の整理をし、正文さんは機械を動かしに行った。荷物は行きより倍くらいの重さになった。正文さんが帰ってくるまで、東山地区の新聞記事の切り抜きをしながらテレビを見た。正文さんが帰ってきてからは、録画してあったサスペンスドラマを見てゆっくりとした。そろそろ時間だということで、新宅さん宅にあいさつに行った。上がってお茶をいただいているとこにすみれさんが「ご飯食べて行ったら?」と言ってくださったのでお言葉に甘えることにした。その時に当時ボランティアで活動し、芒種庵のロゴマークを作った高橋泰子さんも来られた。
芳之さんは、「みーんなうちの子ども。かわいいんや」とおっしゃっていた。芳之さんは「当時渥美先生が泊まれる家を探したけど、うちと正文さんしか手をあげなかった。村の中には金を払ってセンターに泊まればいいという人もいたが、それは違うんじゃないかと思った。遠い大阪から来てくれてるのに、そんなことはできない。だからうちはいつでも泊まってほしい」ともおっしゃった。私はそのような方がいるからこそ私たちが塩谷に行き続けることができると感じた。その想いがあるからずっとつながっていけるのだと感じた。
そして時間が来てしまったので、11月3日にまた!!と言って新宅さん宅をあとにした。今回は6年の日を迎えるということで地震の話を多く聞くことができた。同時に私たちへの御礼のことばも多く聞かれた。私は本当に何もしていない。しかしただそこに行くことであんなにも喜んでくださるんだと再確認した。それは、お互いの想う気持ちがすごくあったかいからだと感じた。

また、今回はたくさんおみやげをいただいた。
正文さんからお米2キロ、隆さんからたくさんの野菜、卯三郎さん宅からたくさんの柿、新宅さんから落花生、
……帰ると、たかしさんから5キロのお米が届いた。
本当にみなさんの気持ちなんだと思った。
私も想いをこめたお礼状を送ろうと思う。
以上

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