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Hannah Arendtコミュのアーレントの魅力を教えて下さい

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はじめまして。
皆さんが考えるハンナ・アーレントの魅力について教えてもらえたらと思ってトピックを作成させて頂きました。

好きな著作、思想、発言、活動(!)。アーレントのここが好き!とか何でもありです。難しいことでも簡単なことでも。

ちなみに私は『精神の生活』に衝撃を受けました。哲学専攻なので、他の政治哲学系の著作についてはしっかり読んでいません。

魅力的だと思うところは、単純なことですけど、何の話をするにもネタ(と言っては失礼ですが)が豊富(政治、経済、文学、哲学、法律etc)であるところと、何をやるにも立ち返るのは彼女が幼い頃から親しんだ哲学であったということです。

自分が思うことを書き出したらキリがないので、レスなどしながら、ちょこちょこ書いていけたらと思います。

というわけで、皆さんが思うアーレントの魅力をお聞かせ頂けたらと思います。よろしくお願いします。

コメント(6)

>Cesarioさん

 「教える」などはおこがましいのですが、私の感じた魅力は以下の通りです。

 ニーチェ、ハイデガーなどが切り開いた境地を、アイロニーとするのではなく、実践的なイメージとして、新しい「政治」の概念を「新しいことをはじめること」として提起したこと。

 20世紀が抱え込んだ「全体主義」にまつわる問題や、「人は善を為そうとしていかに巨悪を為すか」をリアルに考察したこと。

 「人間の条件」としての「複数性」、それとの関連での「公共圏」を手放さず、「私たちの」ありようを提示したこと。

 その他魅力がいっぱいの人ですが、その視点はきわめて実践的だと思います。お読みになった『精神の生活』は、そうした実践的な諸概念を確立するために、彼女が西洋哲学の伝統と切り結んだ軌跡であるともいえます。

 私はそのように読みました。

 なお、問題をよりアップ・トゥ・デイトなものとして考えるために、いわゆる「脱構築」の哲学や、リチャード・ローティのプラグマティックな視点ともクロスさせてみると面白そうだと思います。
 アレントについての書き込みが少ないようですので、私が別のところで、マイミクと交わしたアレントに関するコメントを転載いたします。(**さんとあるのはマイミクのハンドルです)

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 アレントには、NYタイムズの特別ルポライターとして、アイヒマン裁判を傍聴したルポルタージュ『イエルサレムのアイヒマン』があります。そこでは概略、**さんが触れていらっしゃることが述べられているのですが、同時に、もうひとつ当時のイスラエルのエスタブリッシュメントを揺るがせ、一時アレントがユダヤ社会からパージされる原因となったことも述べられています。(後述)

 私は、この文章を読んでからしばらく経って、アイヒマン裁判の記録映画、『スペシャリスト(自覚なき殺戮者)』を観たのですが、映像として描かれた彼は、まさにアレントが叙述するとおり、端正で有能な官僚そのものでした。その風貌は温厚ですらあり、裁判中に机の上の書類を整理する様は、その几帳面、生真面目さを余すところなく描いていました。

 彼は、自分は当時のドイツの役人として、命ぜられるままに事を運んだのであって、その行為の責任を負わされる立場にはないと力説します。しかし裁判は、それに耳を貸さず、彼を鬼畜として裁きます。

 アレントは、アイヒマンの「凡庸さ」「陳腐さ」に驚くと同時に、判決の結果はともかく、その論証、とりわけ彼の「残虐さ」を根拠にした論理に明らかな不満を持ちます。その凡庸さ、陳腐さがなぜ巨悪として現れたのかが解明されていないからです。彼女はそこに、アイヒマンの「人間性」のようなものに還元できない「悪」の問題を見ます。

 同時にもうひとつ、ユダヤ人虐殺という出来事に、ユダヤ人組織自身が手を貸していた事実をも暴露したのでした。ナチ支配下での止む終えざる行為であったといえばそれまでですが、それにふれることは当時の(今でも)ユダヤ社会にとってはタブーでした。トランス・ナショナルともいうべきアレントは、敢然とそれに触れました。これが、先に述べたアレントバッシングに繋がったセンセーションの内容です。

 むろんアレントは、アイヒマンとナチ協力のユダヤ組織とを同列に論じているわけではないのですが、ある特定の状況下における人の対応に関する問題としては共通性を持つといってよいでしょう。

 アレントが、裁判におけるアイヒマンの規定や、ナチ=悪魔、ユダヤ=善良な犠牲者といった単純な二項対立の図式を拒否し、それらを「思考の欠如」という観点からとらえ返したのは**さんが述べられているとおりです。

 この場合、アレントのいう思考とは何であり、どのようにして可能であるかという問題が残るわけですが、アレントはそれを「引き退き」(訳によって違う)という言葉に託しているようです。要するに自分が直面している事態から、一歩も二歩も「引き退いて」思考することといったイメージです。

 これは現象学でいうエポケーや、あるいはメタレベルへの昇華を連想させますが、むしろ、ハイデガーの「日常性」、「Das Man」からの離脱といったものと幾分こだまし合っているような気がします。一方では、カント的なコモンセンス(判断力=ひとは予めの基準を持たない事象にどう判断をなし得るか)とも連動しているような気もします。

 いずれにしても、アレントにおける「引き退き」は、主体の相対的自由、自律への指向を秘めています。アレントの政治概念は、自由で自律した人間が、その複数性のもとにおいて、何ごとかを始めることにあるのですから。

 事態を状況の流れや、人の性格などに還元するのではなく、(そこにはある種のニヒリズムの匂いがします)、あくまでも判断や行為の問題として、したがって人為のあり方として考えるという強固な意志があるように思います。

 余談ですが、私は今、アレントの遺稿から編纂された『政治とは何か』(岩波書店)を読み始めました。
 これもまた、前項同様、マイミクへのコメントの転載です。

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 アレントにおいて、思考、活動、行為(プラクシス)と観相(テオリア)、生産、制作(ポイエーシス)はそれぞれ対称的に考えられていると思います。
 そして前者が、人間とともに世界が開示される場として構想され、後者が既にして主体と客体に分離された場で、主体たる人間が客体を支配する意志の世界として描かれているように思います。

 問題はそうした「活動」の基盤をどこに据えることができるのかということですが、その前提条件としては、必然の世界からの「引き退き」、あるいは、物質的な問題としては生命維持のための労働からのテイクオフという「自律」、「自由」が語られます。そして、その実践の指針としては、自由な活動としての政治自身(アレントにおいては政治は何かの手段ではなく自由であることそのもの)、そこから何か新しいことを始めることが語られ、そのための準拠としては、あるところでは「手すりなき思考」が、そしてあるところでは、カントの「判断力批判」の趣味判断が援用されているようです。

 そしてそれらを貫いて繰り返し語られるのが、「複数性」という概念です。これはアレントにとってアルファであり、オメガであるようにも思います。それはこれが単にいわゆる「共同存在」を指しているのではなく(そうであるならば、政治はそれらの調整という目的のための手段になります)、むしろ人間というありようの根本を踏まえているように思われるのです。

 それはいわば、人が、他者との関係において、その相違というまさにその点で同時に結びついているという、あるいは、その分離の線分が同時に接点であり結合点であるという、J・L・ナンシー流にいえば「分有」とでも言うあり方を示しているように思います。

 これはもちろん、主体概念とも関連するわけですが、アレントは、形而上学が措定してきた主体には与しませんが、同時に、複数性のもと、人間が新しいことを始める能力(自由であることとしての政治、政治的であることの自由)には深い信頼を寄せています。それが人間が世界とともに開かれるということなのでしょう。

 したがって彼女は、政治を手段や必要悪として捉え(これは権力の発生と無縁ではない)、その無能や、権力の腐敗を嘆くネガティヴな、あるいはニヒリスティックな政治観とは無縁です。政治は、まさに人がポジティヴであり得ることの表現なのです。
 はじめまして。
っていうか場違いで申し訳ナイ。

 当方、理系出身で現在も政治やら哲学やらとは無関係なところで生活している者です。

 数年前に「イェルサレムのアイヒマン」を読んで以来(どうして読むはめになったのかは長いので略)、「こりゃ読まにゃなるまいよ」ということになって、アーレントを読み続けております。
 が、悲しいかなこの方面の教養皆無にして著しく難渋しておりまする。

 このままでは文字通り「現代思想の遭難者」byいさいひさいちになってしまいます。救助求ム。
という訳で、こちらでいろいろ教えていただければ・・・と「目論んで」いるのですが、いかがでしょう。

 なるべく邪魔にならないようにいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして。『ヘタリア』(という国民国家の擬人化のマンガ)に対して違和感を感じていたところで『全体主義の起原』を読み始めた者です(最近は『遙かなる時空の中で』という乙女ゲームと結び付けて考えるようにもなっています)。

ところで、みなさまへの質問なのですが。
アーレントを読むとき、時々違和感を感じているのがあります。それは彼女が『全体主義の起原』のなかで使っている「性的倒錯者」というターム。おそらくゲイやレズビアンのことを言っていないとは思っているのですが、皆さんはどのように捉えているのでしょうか。

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