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史跡コミュの山王廃寺跡

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 群馬県前橋市総社町総社2408

 1928年02月07日、「山王塔阯」として指定。
 2008年03月28日、指定範囲を追加し、「山王廃寺跡」へ名称変更。

 https://www.google.com/maps/@36.4024582,139.0311706,17z
 山王廃寺とは、7世紀後半に榛名山南東麓を流れる八幡川と牛池川に挟まれた微高地上に建立(コンリュウ)された上野国最古の寺院である放光寺(ホウコウジ)の事です。
 寺域は東西79.7m・南北81mの回廊に囲まれ、主要伽藍としては西に金堂、東に塔が配置されて、これらの北側に講堂が配置される法起寺(ホッキジ)式伽藍配置です。金堂は約22m四方、講堂は東西37.8m・南北24.5mで、塔の基礎は13.5m四方もあります。この規模から、放光寺は上野国造(コウズケクニノミヤツコ)上毛野(カミツケノ)氏の氏寺と推定されています。
 681年に建立された現高崎市の山ノ上碑〔特別史跡〕の銘文には、放光寺の僧である長利(チョウリ)が同碑を建立したことが記されています。
 長元3(1030)年に成立した『上野国交替実録帳』には、高級人である定額寺(ジョウガクジ)に列していた放光寺が寺院の体を成していないため、その列から外してほしいとの申請があった事が書かれており、既に荒廃して廃寺に近い状態だった事が窺えます。
 その後、当地には天台宗の昌楽寺が建立され、天台宗の守護神たる近江国日吉(ヒエ)神社も勧請(カンジョウ)されて早尾・王子宮等の山王21社の社殿が立ち並んでいましたが、治承4(1180)年に足利俊綱が上野国府を焼き討ちした際に焼亡してしまいました。
 その後、大山咋命(オオヤマクイノミコト)を祭る小規模な日枝(ヒエ)神社(山王神社)が再建され、昌楽寺の名も残りましたが、放光寺の事は忘れ去られて行きました。
 ところが、大正10(1921)年になって日枝神社境内から巨大な塔心礎が発見され、古代の大寺院跡である事が判明、地名に因んで「山王廃寺跡」と命名されました。
 塔の心礎は一辺14mの方形基壇の中央を掘り凹めた中に置かれ、東西3.0m・南北2.5m・厚さ1.5mもの巨石を加工した物です。心礎のほぼ中央には径65cm・深さ18cmの孔(柱受け)と、更にその中央に径27cm・深さ30cmの舎利孔との二段の孔が穿(ウガ)たれています。孔の周囲には径108cmの環状の溝があり、そこから放射状の溝が東西南北の方向を指して刻まれています。
 続いて、石製鴟尾(シビ)・塔心柱根巻石(トウシンバシラネマキイシ)・塑像・緑釉陶器や大量の瓦な等も出土、この結果、昭和3(1928)年に塔跡と思われる範囲が「山王塔阯」の名称で国の史跡に指定され、昭和11(1936)年には石製鴟尾二件が国の重要美術品の認定を受けました。
 鴟尾は、中国伝来の架空の動物で、火に遭うと水を吹き雨を降らすとの伝説から、防火上の呪(マジナ)いとして、屋根の大棟の両端に付けられるようになりました。鯱(シャチホコ)は、中世以降、鴟尾から変化したものです。有名な大和国唐招提寺の物は陶製で、古代寺院に於ける石製の物は少なく、山王廃寺の物と鳥取県伯耆大寺廃寺の物しかありません。この鴟尾は角閃石安山岩(カクセンセキアンザンガン)製で高さ1m・重さ1tもあり、この鴟尾を大棟の両端に据えた放光寺の建物の壮大さが想像されます。
 昭和28(1958)年には塔心柱根巻石が「上野国山王廃寺塔心柱根巻石」として、昭和41(1966)年には緑釉水注(リョクユウスイチュウ)・緑釉埦(リョクユウワン)・緑釉皿・銅鋺が国の重要文化財に指定されました。
 根巻石は、唐風建築の基部に巻き付けて装飾とした物で、日本では大変珍しい物です。 この根巻石は現在地から約100m東の地点で井戸枠に使用されていた物で、出土位置は不明です。七葉の蓮弁は輝石安山岩(キセキアンザンガン)製で、径96.5cmの穴を有します。石材の加工技術は7世紀後半当時の物としては極めて高度なレヴェルで、宝塔山古墳〔史跡〕《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978942959&owner_id=250900》・蛇穴山(ジャケツザン)古墳〔史跡〕《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978953261&owner_id=250900》の石室の加工技術との関連性が考えられています。
 昭和49(1974)年から本格的な発掘調査が行われ、講堂や金堂と推定される建物跡が検出されました。当時は上野国分尼寺跡に比定する説もありましたが、昭和54(1979)年には「放光寺」とヘラ書きされた瓦が出土したため放光寺跡であると判明したのです。
 平成9(1997)年からの三年間に亙る調査では、寺域の西方から大量の瓦や塑像が埋まった土坑が検出されました。同土坑からは塑像片2000点以上を含む3000点以上の破片が出土していますが、塑像群〔群馬県指定文化財〕には焼けた痕跡があるため、塔が火災に遭ったため、瓦や初層にあった塔本塑像の残骸が纏めて穴へ廃棄されたと考えられています。
 平成18(2006)年から寺域を確認するための調査が行われた結果、平成20(2008)年に国の史跡としての指定範囲が拡大され、指定名称が「山王廃寺跡」に変更されました。
 なお、日枝神社には社宝として山王曼荼羅掛軸(サンノウマンダラカケジク)等が保存されており、境内には元禄8(1695)年の庚申塔以下18基の万造物が安置されています。日枝神社の社殿は令和2(2020)年に新築されています。

・遠見山古墳
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=96756537
+力田遺愛碑
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*宝塔山古墳・秋元氏歴代墓地
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*蛇穴山古墳
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*総社二子山古墳
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・秋元氏墓地
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コメント(5)

 塔心柱根巻石〔重要文化財〕と石製鴟尾〔重要美術品〕です。
 日枝神社境内と山王廃寺出土塑像群〔群馬県指定文化財〕です。

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