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かいわれ新書コミュの第9回 K-ichiro + Masahiroの答え

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『ケチャ』

浦松ユキオはプドゥル村で、ねっとりと纏わりつくような空気に包まれていた。大きなリュックを背負い、ハーフパンツにサンダル、といういでたち。額にはうっすらと汗が光っている。青々と広がる水田の間を縫うように、寺院まで約2時間の道のりを歩く。だが、足取りはどこか軽やかだった。全てを捨ててきたのだ。梅田の喧騒も、残業ばかりの仕事も、マンネリのデートも、窮屈なワンルームマンションも。
「一身上の都合で」
会社にはそれ以上の理由を説明しようとしなかった。テレビでたまたま見たケチャックダンスに魅せられて、バリ島に移住し、ケチャで生きていくことを決めたなどと、誰が信じるだろう。自分でも、そんな無計画で無鉄砲な決断を下すことが出来る人間なのだと、三十年余の人生の中で初めて気付いたのだから。
バリに伝わるこの伝統的な舞踏は元々、疫病が蔓延したときなどに、初潮前の童女を媒介にして祖先の霊を招き、加護と助言を求めたところに、その起源がある。幾重にも重なった円陣を組んであぐら座りをした半裸の男達が、両手をあげたまま掛け声をかけ、16ビートに似た独特のリズムを刻む。自宅の小さな液晶画面に映し出された映像と音ではあったが、そのえもいわれぬ生命力にユキオは言葉を失った。日々の生活の中で忘れていた、自分の奥底を流れる野生が刺激されるようだった。
決断をし、会社を辞めてから驚くほど生活が変わった。ジョギングを始めたことで、小太鼓のように膨れはじめていた腹は締まり、うっすらと腹筋の張りを示し始めていたし、鈍くなったアゴのラインは、テニスに打ち込んでいた高校生の頃の鋭さを取り戻しつつあった。屋外でのエクササイズを多くしたおかげで、ずいぶん日焼けもした。身体がより強く変化しつつあるのが分かった。腕には猿のタトゥーを入れた。夜はケチャの題材である「ラーマーヤナ」を読んで眠りにつく。ストイックで張りのある生活。だが、そんな生活からユキオは、今までの自分の生活にはかけていた開放感を、思う存分味わうことが出来た。次は生のケチャだ。ユキオの体内の全細胞が、ケチャのリズムを欲しているのが感じられた。
そして一月の後の今、ユキオはプドゥル村に立っている。
寺院に着くと、老僧がユキオを笑顔で迎えた。言葉は通じない。あらかじめ準備したインドネシア語のフレーズカードの中から、伝えたい言葉を探して示す。通じたらしく、寺院の中へ導かれる。奥に、独特の彫刻を施された石の舞台があった。それはいつか読んだ「西遊記」をモデルにした漫画に出てきた武道会の会場のようだった。ユキオの胸は高鳴った。それは観光客の無責任な興味本位のようなものではなかった。ここで生きていくのだという強い決意と緊張感を伴った、胸の高鳴りであった。
舞踏自体は、数分の出来事であったに違いない。しかしユキオにとっては、太古より受け継がれてきた数千年分の歴史、それが一瞬で自分の体内に流れ込んでくる波動、神秘、動悸、紅潮、あらゆる事象が綯い交ぜにされたような興奮、トランス状態。時間の感覚も全く無くなり、心が宇宙を漂う感覚。チャッチャッチャッチャ、というリズムの合間に、ユキオは確かに神の存在と息吹を感じた。感じられた。気が付くと、ユキオは全ての荷物を床に投げ捨て、身体全体でケチャのリズムを刻んでいた。でたらめだっていい。不恰好でもいい。神と交信するとはこういうことだ。ユキオはほとんど薄れゆく意識の中、神の傍らに自分の居場所を見つけたような気がした。これが、数千年の歴史の重みなのだ。その夜、ついに初めて本物のケチャに出会ったユキオは、初めて女性と性交したとき以上の興奮を覚え、なかなか寝付けなかった。ようやく眠りについたユキオが見た夢は、チャッチャッチャッチャ、というリズムの合間に自分の人生がフラッシュバックしていく夢であった。30年余の人生が、チャッチャッチャッチャ、という4拍の間に巻き戻され、また次のチャッチャッチャッチャ、で早送りされ今の自分を追い越し、老いて死んでいく、それが何度も繰り返される夢。人間ひとりの人生など、神とケチャ数千年の歴史の前ではほんのちっぽけな存在なのだ。

それから10年の月日が経った。浦松サトシは、10年前に突如失踪した兄の行方を追い求めて、ここバリの地へ来ていた。手がかりは、差出人不明で届いたバリ島のポストカード、そして航空会社の機内誌で読んだ「日本人のケチャックダンサーがいる」という、小さな記事のみ。小さな写真の、暗がりの中でダンスを踊る黒い人影が、どことなく記憶の中の兄・ユキオの姿に感じられたのだ。プドゥル村を訪れ、現地の人間に通訳を通して話を聞いた。どうやら、件の日本人ダンサーはケチャの舞踏場がある寺院に住んでおり、現地の人間からは「ユンボー」と呼ばれ親しまれていることが分かった。どうやら、間違いない。兄はここにいる。

村の人間に案内を頼み、寺院を訪れたサトシは、大きな期待とわずかばかりの不安を抱え、ダンスの開演を待っていた。兄・ユキオと話したいことがたくさんあるのだ。そして、ケチャ、開演。暗がりの中、シンボリックに燃え盛るひとつの炎。その炎を注視していると、いつの間にか炎の周りに無数の黒い影が蠢いているのに気付いた。まるで地面が盛り上がるようにそれらの影は立ち上がり、そして大きく両手を伸ばす。その両手の影が、サトシの顔にかかった、そのとき、
サトシは、自分の目の前で踊るユキオの姿に気付いた。黒々と日焼けし、精悍に鍛え上げられた細身の身体、その変容振りもさることながら、サトシが驚いたことは、兄のその傾倒ぶりが全身から伝わってくる、ダンスへの情熱、迫力であった。恐らくサトシの姿はおろか、何人くらいの見物客が来ているのかも認識していないのだろう。長く伸びた髪を振り乱し、身体を振るわせるユキオ。そして、ユキオは小さな焚き火に身を投げだした。息をのむサトシ。しかし、ユキオは焚き火の上で狂ったように足踏みを続ける。熱くないのだろうか。一種の脳内麻薬のような作用なのかもしれない。チャッチャッチャッチャ、というリズムのみの音楽が続き、物語は終焉を迎えた。観光客からの割れんばかりの拍手。トランス状態から解放されたユキオは、観客席を見ている。そしてサトシと目が合う。おまえが来ることはなんとなく予想していたぞ、これが俺の選んだ人生だ。自信と覚悟にあふれたユキオは退場の刹那に、サトシにニッと日焼けした笑顔を向けたような気がした。

とにかく兄と話そう。少し躊躇はしたが、弟として当然の選択だと思った。老いた僧侶に案内を頼み、奥の楽屋の役割を兼ねた部屋に入った。他のダンサーたちと笑顔で談笑をしているユキオの姿が目に留まる。ダンス後の満足げな表情のユキオ。すこぶる機嫌もよいようで、おう、とサトシに声をかけてくる。どうだった俺のケチャは。
「すごく良かったよ、兄ちゃん」
そうだろう、そうだろう、と嬉しそうに頷くユキオ。人懐っこい笑顔は、10年前とまったく変わっていない。ただ、日焼けをしたからか、白い歯がより引き立って見える。
それで、と話を切り出すサトシ。
「いつまでこっちにいるつもりなんだ」
サトシの言葉を聞いて、一瞬動きが止まるユキオ。弟は何を言っているんだ、いつまで、とは?意味が分からない。
「もしかして、一生こっちにいるつもりなのか」
「それのどこが悪い、ケチャの道はまだまだ深いんだ」
ユキオのその言葉通り、彼は10年続けたケチャが、続ければつづけるほどとらえようのない、奥の深いものに感じられるようになっていた。道を極めた、とはおこがましい。むしろ自分の人生全てを費やしたとしても、極めきれるものではないかもしれないのだ。
「だいたい、おまえのような観光客には分らないんだ、ケチャの何千年にも及ぶ歴史の深みを」
「兄ちゃん」ため息をついてサトシは声のトーンを限りなく低く落とす。脱力感と、若干の憐れみがこもったような。
「ケチャに、何千年の歴史はないよ」
そして、一冊の本をバッグから取り出す。それはボロボロの古文書、ではなく、POS管理用のシートが挟まったままの「地球の歩き方〜バリ島」
「兄ちゃんのことだから、あまり深く調べもせずに来たんだろ。さっき兄ちゃんは観光客には分らないって言ったけど、ケチャはもともと観光客用にはじめられたショーで、最初に行われたのは1930年代・・・だから数千年どころか100年も経ってない」
パラパラと地球の歩き方をめくりながら解説を続けるサトシ。その姿を、口を開いてぼんやり見ているユキオ。そんな馬鹿な。ユキオはこの10年、何か壁にぶつかるごとにケチャの数千年の歴史を、胸に思い浮かべてきたのだ。
「またケチャはモンキーダンスとも呼ばれており」
サトシの説明は続く。モンキーダンスだと。ユキオは力なく、自分の腕のタトゥーを眺める。一生をケチャに捧げると決めた10年前のあの日、その決意が鈍らないように、と意を決して入れた猿のタトゥー。勢いなんかじゃない。だが、今となってみると、ノリで付き合っている相手の名前をタトゥーでいれる、不良のカップルと何ら変わりがない気がする。神の声はもはや聞こえないが、ユキオはその時、人を小馬鹿にしたような猿のキー、という鳴き声を確かに聞いた気がした。
「あ、でも、芸能としてはちゃんとしたものだし、日本に帰ってもその経歴活かして仕事できるんじゃないかな、とりあえず『劇団ひまわり』とかに籍をおいて」
最初にケチャに出会った時のように、身体が熱くなってくる。しかしどうやら気のせいではなく、足の裏が異常に、急速に熱くなってきている。明らかに、さっきの焚火で足の裏を火傷していたようだ。

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