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法華経コミュの法華経ダイジェスト

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三車火宅、長者窮子、良医病子(治子)の譬喩など7つの譬喩が説かれていますが、それらは、びっくり仰天ストーリーで包み込まれています。


序品では釈尊が眉間からいきなりビーム光線を発射し、そのビームは当方1万8千という多くの世界を照らす。


『法華経』を聴きに集まってきた者たちは、自分たちの目の前にそれらの世界の有様つぶさに見ることができる。


見宝塔品では、巨大な宝塔が大地から湧き出し、空中にとどまる。

その宝塔のなかから、釈尊の説いた『法華経』は真実だという声が聞こえてくる。


声の主は過去仏(釈尊以前に存在した仏)の多宝如来。


この多宝如来の姿を見ようという聴衆の願いをかなえるために、釈尊は自分の作り出した宇宙に散りばめられている分身仏を娑婆世界に集合させる。


そのために、釈尊は穢土である娑婆世界を仏が住むのにふさわしい浄土に転換させる。


さらに、従地涌出品では、釈尊滅後に『法華経』の担い手となる膨大な数の地涌の菩薩が大地を割って出現する。

こんな感じでファンタジーストーリーが展開されます。

『法華経』は決して仏教の哲学理論書ではなく、一種の『宗教文学作品』というほうが的を射ているでしょう。

残念ながら、日蓮が生きた時代は情報不足で、法華経に釈尊が登場するものだから『法華経』は釈尊が説いたものだと、日蓮はてっきり思い込んでしまった。

現代では南無妙法蓮華経と書かれた掛け軸に向かい、悩み事が解決しますように、勝利しますようにと、法華経というファンタジーストーリーをつぶやいて、ナンミョーしている姿は滑稽でしかなく、指をさして笑わざるを得ません。

ーー

おとぎ話・ファンタジーストーリーに、いくら成仏とか永遠という概念が書かれているからと言って、現実味を感じたり、人間にできそうなどと本気で思うようなら、一度お医者さまに診てもらって正確な病名をつけてもらいなさい。

ドラマやSFは現実感と切り離して観れるのに、経典になると、宗教が教えると、現実感を持つ。

ここに大きな論理の飛躍があるわけです。

信者達は、もう一度自身の思考過程をよーくたどってごらんなさい。

単なる、ファンタジー(夢想)の世界に浸っているだけだから。

創価学会や日蓮正宗ではホンモノに正しい宗教だと教えられているかも知れませんが、ホンモノなどどこを探しても見つかりませんし、そんな思考がカルトだということです。

カルトは自分たちの宗教が正しく、ホンモノで他の宗教は間違いと言う意見を外部にアピールします。統一教会しかり、幸福の科学しかり、創価学会も日蓮正宗も。


コメント(15)


法華経三車火宅の譬え 大白牛車


ある時、長者の邸宅が火事になったという。家にいた子供たちは遊びに無我夢中で火事のことなど気づかず、早く逃げなさい!という長者の説得にも外に逃げることは無かった。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車(ようしゃ)と鹿の車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)の三車が門の外にあるぞ」と諭し、子供たちを火宅から導き出した。その後にさらに立派な大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えた。

法華経三車火宅の譬えで出て来る大白牛車の実相実態は・・・

羊車、鹿車、牛車の餌に釣られて子供達が出てみると、そこには、そんな物は無く

有ったのは大白牛車という大きくて豪華で実に立派な乗り物でした。

そしてそれに乗って居たのは善知識と謂う指導者と教団組織のほんの一握りの幹部でした。

そして子供達即衆生は自分達もそれに乗せて貰えると期待していたのですが・・・

実は皆で指導者が乗った大きな車を牽かされるのでした。

牽き手の白い牛とは此の子供達即衆生の前に既に化他教化され思考を奪われ洗脳されて

白痴同然に成ってしまった。人々の成れの果ての姿だったのです!

白は無知無明を表し牛は従順な下僕を象徴しているのです。

素直に信じ従うならば彼岸(浄土)へ渡してやると云われてただ単に車を牽くのですが、

多くの人は激流で溺れ流されてしまうのです。

牽き手が減って足らなく成ってくると復何処かの家に火を放ち衆生をあの手この手で

おびき出しオイシイ話を持ち掛けて誑かし新たな牽き手にしてしまうのです。

善知識という指導者の為に生涯右往左往と彷徨う様に牽かされるのです。。。

若し仮に善知識為る指導者や組織幹部達を彼岸へ渡す事が叶ってたとしても・・・・・

その時は『お役御免』としてお払い箱同然に見捨てられるのです即ちもう用済みの

使い捨ての消耗品だからなのです!

これがこの話の実相即実態実状なのであります。

この世の中で指導者として人の上に立つ者への訓示教示であり指導者養成指南書が

法華経の秘沈された本意なのです。。。

所謂 帝王学なのです。所以に『王仏冥合』という観念が湧いて来る訳です。

王仏冥合(おうぶつみょうごう)

創価学会が政権を掌握することを理想とする考え方「王仏冥合」は、日蓮正宗の教義によって成り立っています。

つまり、日蓮の教えを広めて信者数を増やせば(広宣流布)、理想郷が実現するという教えです。

では、広宣流布が成立したとき、どのような状況になるのか。

1273年、日蓮が52歳のときに書いたとされる「如説修行抄」にはこうあります。
『天下万民・諸条一仏と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌(つちくれ)を砕かず、代は義農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕われん時を各々御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり』

吹く風はやわらかく木々の枝さえ鳴らさない。降る雨も穏やかで土壌さえ砕かない。人々が南無妙法蓮華経と唱えれば、災難もなく、長生きする・・・。

ようするに、広宣流布というのは天下太平の実現であり、そこには具体的な国・政策・経済体制・目標というものは存在しません。この程度です。

1200年代を生きたたかだか坊主の日蓮がいくら頭をひねったところで、未来の “具体性”のある目標など書けるわけがありません。

単に拡大を目標に掲げ広宣流布には具体的な目標などがなければ、日蓮正宗や創価学会の教義を奉ずる信者らによって政権掌握を“理想“ とするだけでしょう。

扱っている教典がファンタジーなら、教義はほとんど漫画の世界で、考えていることが非常に幼く稚拙としかいいようがありません。

こんなものを胸をはって他人に押し付けている信者の論理性のない感性を疑います。


法華経のようにとんでもなく常識ではありえないような話が書かれた根拠、理由はどこにあるのか。

僕は言葉では伝え難い、上手く伝えられないようなことを、それでも何とかして伝えようと思ったら、そういう壮大な譬喩を使わざるを得なかったということだと思います。
だからその真意を理解することはこの譬喩をもってしてもまだ難しく、
「これは事実として本当にあったことなんだ」とか「こんなとんでもない話は嘘っぱちだ」とか、
多くの人は事実かどうかのレベルで受け入れるか受け入れないかを決めようとする。
事実のレベルで争うこと自体、浅い解釈に足をすくわれているに過ぎない。

言葉では言い難いものを何とか言葉で言おうとして、こういう壮大な物語になってしまったのであり、
大事なのは法華経の言葉にとらわれることではなく、法華経の言葉を手掛かりにしながらも自在に心を泳がせてブッダの真意に到達することです。
法華経の生き方が、大事なんじゃないかな?と思う。

法華経を読めば、突拍子もない、稚拙とも言えるでしょう。

でもその表面的な事より、人としての生き方としての中身が、大切になるんだと思います。

理論的、論理的ではないかもしれません。

かと言って感情的なことに振り回されるより、
自分の中に法華経からどんな意識を身に着け、自分を省みて修正しないといけない事は多くあると
僕は思います。

お経を読んで、どういう人間になるか?そこが一番大切なんだと思います。
そうでなければ、机上の空論を論議して、論破しても、自分が何も変わらないなら、意味がなく想います。

御利益はあるかもしれない。でもそれは煩悩を満たす為に、法華経を信仰するなら、
大事な事を見逃してしまう。永遠の成長で、もうこれ以上成長しきれない、仏となる事を、目的とする。

それに気づき人間としてどう生きる(成長する)か?

信じる事より、僕はそれが大事な事だと思ってます。
逆に言えば、美姫さんから仏を感じない、肯定しない、自分が提婆達多のようにも思います。

増上慢で申し訳ない。否定したいこころが、法華経の生き方とはちょっと違う、凡夫な自分を感じます。

皆、仏に至ると考えることが、常不軽の仏の心に想います。
因果の法則ってあるとおもうんだよね。

好ましくない果に至る、因を積めば、好ましくない果が起こる。
そして好ましい果に至る、因を積めば、好ましい果が起こる。

だから自分はどんな因を積んでくか?
だから自分はどんな生き方(果)を求めてくか?

それで自分の行いを改めて行く事が大事なんだろう。

どんな生き方も自由な意思を持って因を積み果に至る。

自業自得。

つまり僕も美姫さんも78910さんも皆も、その因果を見つめどうなりたいか?
それに向かって生きて行く事が、因果の法則にそった生き方に思う。

そこに因果を感じる事が、そこに仏を感じる事になり、
それに気づく為、ぼくらはご縁で出会えたのだと思う。
>>[8]

生きてゆく毎日毎日が現れの受けとめの日々でもありますね。自分の暮らし方の報いを受ける毎日とも言えますね。
それが楽しい、心地よいものならば自信になるし、苦(にが)く苦しいものならば「ああ、あれがいけなかったのかな。これからはこうすべきかな」と反省の材料になる。

でも、反省しても反省してもなかなか改まらないのが人間でもありますね。(笑)
でもだからといって不幸になるわけではない。
煩悩深き僕たちが、どんなふうだろうがまるごと受けとめて下さる如来の大慈大悲が、常にすぐ近くで温かく抱きしめていて下さる。
その有り難さをしっかりと受けとめるなら、いい加減な生き方はできませんね。
>>[9]
結構僕もブレたりいい加減になったりします。

動機が不純でない事が、先ず必要な因に思います。
そして人の事を悪くなって欲しくないという願望。

でもやっぱ相手から嫌な事をされると自分のトゲがでる。
相手を言いくるめたい。
そういう低次元な願望を持ってる自分がいます。

本当嫌だと脱皮しなければ、きっと同じ事を繰り返す。
自分をコントロールする事ができること。

そして神仏を敬い、自分も人も大切にする。

そんなことも考えます。
>>[11]
ああ、僕は学研から出てる、日蓮の本の巻末に書かれてる、法華経ダイジェストを何回も読み返していた事で、法華経にご縁を頂きました。
>おとぎ話・ファンタジーストーリーに、いくら成仏とか永遠という概念が書かれているからと言って、現実味を感じたり、人間にできそうなどと本気で思うようなら、一度お医者さまに診てもらって正確な病名をつけてもらいなさい。


理性的に考えると、法華経に対してそういう見方もできるかもしれません。またご心配されるように、確かに理性が十分練られていないうちに空想的世界観にひたってしまい、足元がまったく見えなくなっているという人たちも世間には存在するでしょう。
しかしそれは修行僧たちが真心から作成した法華経自体の非というよりも、法華経を受け取る側、あるいは法華経を使って説教する側にある非だと思います。
法華経自体は、受け取る姿勢、受け取り方を間違えなければ、とても有意義に活用しうる経典の一つだと思います。
言語や文章はあくまでデジタル。現実とは常に遊離します。どこまで認めるかは人それぞれであり、または、捉え方読み方次第。

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