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Earth vision IIコミュの覚書

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思考の果て、旅の途中で確認できた事を覚書として書き込んで行こう。

コメント(5)

●覚書ー見えかくれするナショナリズムー

縄文、ネイティブ、そうした話題の向う側に僕は常に見えかくれするものを感じていました。

モンゴロイドだの、アジアはひとつだの、五族協和だの言っていた精神性とどこが違うのだろうか?

僕の知る限り、ネイションの定義はもとより、部族、民族の定義は極めて難しいのです。というか、ほぼ不可能ではないのかとさえ思います。

例えば、人口が少なかった時代、「人間」の住んでいた地域は離散していました。各地域の関係は現代から考えるとほぼなかったと言って良いと思います。黒曜石などの分析から交流を言うひともいますが、それらは日常的な交流を意味する物品ではないです。毎日の食糧確保に忙殺されたであろう時代に他の地域へ行くとすればそれは食糧確保以外に理由はないと思います。

移動が極めて危険である時代、集団で移動などまさに歴史的大事件です。途中の食糧が確保できるかどうかの保証がないからです。

そこで思い出すのが旧日本軍が南太平洋地域で補給が途絶し食糧を求めて移動した時にイモを「発見」したりする話です。

旧日本軍にとってそれは「そこにあった」ものですが、当り前な事にそれらは地元の住民が「栽培」していたものです。が、きれいな畝の畑しか知らない兵士たちはそれが畑であるという認識が生じないのです。

食糧を求めての移動とはつまりはそうした事ではないのか?どうしてもそれが頭から離れないのです。

人間という生物種が自分たち以外いない場合、自分たちを他から区別する名称は生じ得ないと思います。つまり人間であるという言葉以外必要ないと思います。人間である上で、その人間の中の「種類」を明示するというのは、他と接触し、その違いを知った時です。

ではその接触はどうして生まれるのか、といえば食糧確保のための移動でしょう。シュナの旅。食物を巡る神話。「神が与えてくれた」でも「そこから盗んだ」でも事情は同じでしょう。旧日本軍のそれと同じでしょう。

食糧を巡っての出会いがその「ちがい」を、その違いの認識を生むとすれば、それは植えた芋が「あった」と扱われた側からの意義申し立てでしょう。

その意義申し立ては当然「あった」と思った側と自分たちとの違いを立脚地点にするでしょう。反対に「あった」と思った側はその意義申し立てを自分たちの生存確保を理由に、拒否し、打ち倒し、そして

そもそも違いはなかった。争いはなかった。

という欺瞞まで行きつく事でしょう。だってそれは「あった」のだから。そもそも私達のために「用意」されたものだから。

かくして武力制圧しただろう南の島の住居地区は「竜宮城」として、「助けた恩返し」の見返りを最初から「用意」する実に気前の良いひとたちの集まりになってしまいます。

豊かで平和な「竜宮城」

私達は「植えた」芋を「あった」とする「竜宮城」を捏造していないのか?

アジアはひとつ、とか五族協和という「竜宮城」伝説は、民族性をめぐる数々の珍奇な科学研究や論説を生んで来ました。そしてそれらは最後にはこうしめくくるのです。

我々と彼らには共通の基盤がある。
我々は彼らから学ぶものがある。
しかし、
彼らもまた我々から学ぶものがある。

海を越え、陸をまたぎ、求めていった先に「竜宮城」があった、そこには芋が「あった」。

海を越え、陸をまたぎ、求めていった先に「満州」があった、そこには未開の大地が「あった」。

芋を「植えた」側は「どうして放っておいてくれないのだ」と言うのです。

私達は「失敗した、飢えてしまうので助けて欲しい」とは言わなかった。
私達は「失敗した、その結果を受け取って自滅します」という道はとらなかった。
私達は生き残るために海を越え、陸をまたぎ、「竜宮城」で芋をみつけた。

僕は芋を「あった」と喰う前に、空腹に耐えながら、どうして私達は失敗して飢えたのだろうかと考えたい。芋を「あった」という食らうナショナリズムの欺瞞に陥る前に、どうして私達は失敗して苦しいのかを考えたい、そう思うのです。

●覚書 明日は今日よりも良い日という思考

Earth vision会議録を読み直す作業で早速本質的な問題につき当たった。これは「より良く」という問題でもある。いや、あった。

明日を今日より良い日と願う

この事を考える僕の思考がどこかおかしい、そう感じていた。何かが足りないのだ。

問題は常に定義に戻ることで解決する。

今回もまたそういう事だった。

僕がここで言う「今日」とは何なのか、僕ははっきりと分かっていなかったのだ。

今日、目覚めてからこうして床につくまで、僕は様々なことをしている。朝食に食べたもの、出かけた先、そこでの出来事、途中の出来事、読んだ本、観たテレビ、聴いた音楽、ベースの練習、、、、、。。。。。

さて、そのうちのどれを僕は「今日」と呼んだのだろうか?これらをどう「まとめ」たのだろうか?

今日は今日で色々あった。が、「今日と明日」という思考の枠組に入ってしまった瞬間、それらは消失したのだ。そうか、問題はここにあったのだ。

二項対立を立てた瞬間に具体性は消失し、なにかの観念に置き換わっているのだ。この具体性が消失する時間感覚、もしくは時間の捉え方、これが僕達の思考の病なのだ。

ネイティブのひとたちの「今日」と僕等の「今日」は何か根本的に違うのだ。僕等のこの時間の感覚、つまり空間感覚を暴いて行くことで、何か決定的なことが見えて来る、そんな予感がする。

時間は空間を移動した時に生じる差異の感覚だと考えています。

じっとしていると時間は感じないだろうな、と思う訳ですし、それに近い事はあります。これもたぶんなんですけど、1日ひとところに居続ける場合は太陽が上り、沈むのは目に見えるほど早いのではないかと。寝たきり時代にそれに近い感覚はありましたし、大学の時に下宿に引き籠っていた時はまさにこれでした。曜日感覚どころか時間感覚もなくなりました。これを社会性云々とするのも正しいのですが、それだけではないです。

たきのさんの言葉を当時の僕に分かる言葉で言えば、予定がなくなると1日が消失する、どこからどこまでが今日か昨日か明日か分からない生活になる、です。これは実際そうでした。予定によって区切るから時間は生じるのは確かにその通りです。

例えば昨日の僕がそうだったように、僕は1日に50kmも移動しています。小学生の時は1時間近く歩いて学校に通いました。通勤は現在片道30分、5kmです。この移動が何を意味しているのか、そのあたりに核心があると思います。

予定とは移動の予定であります。現在の予定は移動の予定なんです。この移動する事でその空間移動が時間の発生の契機になっているというこのあり方はたぶん人類にとっては新しい事でしょう。

そして、その移動も直線移動。巡礼のような円運動ではないです。これも何かを示しているように思えてなりません。

そして、移動せずに情報だけが移動するこのネットとは何かも分かるような気がするのです。もう少し考え続けてみます。

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