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弓道の考察コミュの射法八節2

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以前も射法八節について書きましたが、八節は離れで1、狙い
2、矢線への伸び
3、両手の内
をより確実に、より再現性高く行うための準備の積み重ねであると定義付けました

さて、しかし実際に周囲を見渡してみると、当然私も含めですが、射法八節に乗っ取っているがために、反って離れがおかしなことになっているケースが多いのではないでしょうか

伸びの方向にしろ、バランスにしろ、離れのための余力にしろ、上手くいかないときに私の実践している練習法は、八節を無視して弓構えからいきなり会に持っていくことや、弓手を的に対して伸ばしておき、その状態から妻手を引いてくるといったことをします

このいきなり会に入った状態は、いうなればプラスマイナス0の射ではないでしょうか

八節は、これをより再現性高く、より確実に行うための準備の動作であり、もし上記のような引き方をして八節通りに行ったときよりも、狙い、伸び、手の内などが良く出来たとすると(実際に指導でこの方法を使うと、狙い、伸びの方向は良くなり、箆しなり、矢こぼれは大概直る) 、そのような八節であるならば、やるだけ無駄な動作であると言えるのではないでしょうか

いきなり会に持ってくる場合よりも、狙い、伸び、手の内において良くするためのものが八節であり、そのことを目指して八節を組み立てる必要があるのではないでしょうか


しかし教本、ことに最近出版される大学の監督、コーチの教本は、動作の表面的なことにしか触れておらず、挙げ句の果てには、狙い、伸び、手の内の準備の積み重ねが本質であって、そのイメージの仕方が個人個人で異なる(これを私はセリフと呼びます)ものなのに、執筆者自身のセリフをさも万人に共通のものであるかのように書いているのには呆れるしかありません
例えば日弓連の教本一巻の打起しの項には「あたかも太陽が静かに昇る境地、無風帯の日に空に煙がゆったりと立ちのぼる風情」とありますが、これが打起しの本質でしょうか?

具体的なことは省きますが打起しの本質(目的)は引分けの準備です

これは他の動作にも当てはまります


一般的に私が先に提唱したような、いきなり会に入る射の運行は、眉をひそめられる方が多いと思います

しかし、それこそが八節の意義、本質を考える上で重要であると考えます

むしろ八節を有り難がって意義すら考えずに、セリフにとらわれ、わざわざ射を悪くしている方こそが射の本質からは遠ざかっているのではないかと考えます

コメント(11)

〉さらねこさん
セリフに関しては別のトピックのセリフとエッセンシャリズムにもかいてありますので、よろしければそちらもご覧ください
〉さらねこさん
私は先人の教えを否定しているわけでもないですし、例えに意味が隠されていることに気がつかないわけでもないですし、それを隠喩的に表現することを批判しているわけではありません
むしろ、先人の教えの真意を理解せず、表面的な手段に囚われることを問題にしています

打起しの例を挙げたのがよくなかったのですが、最も顕著なことは所謂、妻手の「ひねり」「絞り」 でしょう

私は「ひねり」「絞り」という言葉自体が典型的なセリフだと考えます

矢を真っ直ぐ飛ばすために妻手を矢筋に引き続けるためにはどうしたら良いか?
前腕と肘の組合せが必要ですが、その際、前腕をどう操作するかを先人が表現したセリフが「ひねり」「絞り」でしょう

それを言葉面だけをとらえて前腕を張り出すことなく単に本当にひねってしまったら、矢筋に引くことは出来ませんし、離れも出にくくなるでしょう

このようなことが射法八節全般に言えるのではないでしょうか?

煙がゆったりと立ち上るように打起しをした結果、引分け、会に問題を生じさせ離れにおいて、狙い、矢筋の伸び、手の内に不具合を生じさせるのであれば、そのセリフは少なくとも、不具合を生じた人にとっては合わないと言えましょう

先人の教えを尊重しつつ、その中から自身に合うセリフを見いだし、自身かでセリフを作っていく創造的活動こそが重要と考えます

また、セリフの問題は仏教の唯識論で説明が可能であり、事実、先人の教えも仏教の思想に通じる部分が多くあります

いずれ考えをまとめて書きたいと思います
〉さらねこさん
コメントありがとうございます

憤っているわけではないのですがあせあせ

私、専門が日本史、日本文学、民俗学等々なもので、日本の文化が総体的に好きでして、例えば伝統芸能

歌舞伎なんかはもとは庶民のものだったのに現代になり、伝統芸能として敷居が高くなり反って衰退の危険がありますよね

弓道にそうなってほしくないので、その一端となればと思いコミュニティを立ち上げた次第です

言葉足らずで申し訳ありませんあせあせ(飛び散る汗)
どうも。
興味深く拝読させて頂いております。

確かに誤ったセリフへの信仰(思い込み)が、射癖となっている方や、一つのセリフの為のセリフ造りをしている方は多いですね。
なので、他人や、自己の体験から得たセリフをいかに自分の射に反映させ、馴染ませるか。
「どんなセリフを集め、どのような構成で脚本(台本)を描き、それをいかに自分のものとして演ずるか」ということが常に弓道家(のみならずあらゆる営み)の課題となると思います。


なので、今回の論のポイントは、
「射法八節」という日弓連の採用している射法が非合理ということなのではなく、それにまつわるセリフを無批判(表面的)に受けてしまい、自らのものに出来ていないという事が非合理であり、問題であるということではないでしょうか?

セリフが発せられる時、我々はその背後に必ず何らかのエッセンシャルを目的論的に捕らえているはずです。
問題は、それが他者に表現されるとき、上辺のセリフに留まるか、その背景にあるエッセンスまで伝えきれるかという点だと思います。

「セリフとエッセンシャリズム」のトピでも疑問に感じたところなのですが、
セリフとエッセンシャリズム(本質)の区分けというのはセリフを受け取る側にとっては実際非常に難しいところであると私は思うのです。

例えば、前安房守在五中将さんの提唱する射法の必要条件である

1、狙い
2、矢線への伸び
3、両手の内

指導の場において、上記三条件が、「セリフ」と異なる点は一体どこにあるのでしょうか?

目的論的に「弓道の本質が的中である」と定義付け、そのための上記三項が必要条件であると言われる時に注意すべきは、その「的中」という意味がどのような立場から提唱さられているか、その背景も今一度セリフを受け取る側と共有する必要があると思うのです。

ただ単に28M先の紙の的を射抜くのが「的中」なのか、
戦場に於いて、敵を殺すことが「的中」なのか、
審査に於いて、射品を表現する為の一要素としての「的中」なのか、
リーグ戦に勝つ為の、160射中20射の「的中」なのか
阿波研造のように、的ではなく、自分自身を射抜くことが「的中」なのか
弓道の本質であるところの「的中」の意味は立場や状況によって非常に豊富です。

そして
気合だ、根性だと主張する精神論的立場にしても、
息合いだ、丹田だ、間合いだ、緩急だとする古典的射法論の立場にしても、
あるいは、物理学や、生理学や、力学といった科学的見地にしてみても、
どれも異なる立場から発せられた一つのセリフに過ぎないと思うわけです。
そのセリフを本質であると判断するのは、同じ立場に於いてある人だけです。

同じ立場に於いて、次の準備の為の必要条件であると言ってしまえば、どれも射の本質としては間違っていないことになると思えるのですがいかがでしょうか?

我々にとって言語が互いに通用する背景にもそのような背景の共有化が行われているはずです。
唯識論でもそこの背景の共有化が問題となりそうですね。

確かに、自分の体験だけに閉じられて発せられるセリフ満載の弓道書籍は多いと思います。
ですが、私はその個人個人のセリフが発せられる背景、
要はその人が抱く射への世界観、弓道の目的が垣間見えて非常に面白く思いますし、
また私自身参考にもします。

自分が射に何を求めていくのか、
指導者や他人からどんな射を要求されているのか、
共通の言語(セリフ)を有しながらも、その背景(表象)は個々別々の世界に離れ住む我々ですから、
様々な立場があり当然ですね。
今自分がどの立場(役柄)で弓を引いているのか(演じているのか)。
その立場の変遷を自覚していくことが、弓道の技術追究に併せて問われることなのではないかと思うのですがいかがでしょう?
〉エイジさん
ご指摘頂きありがとうございます

確かに個人の背景を落としていましたね

私の背景、思想も絡めつつ申し上げますと、

個人の解釈は尊重すべきと考えます

私の立場における射即人生は現在主に、国語教科教育に通ずる部分で考えています

そこに即して、私の学校における国語教科教育との関連で申し上げます

さて、先ほど個人の解釈は尊重すべき、と述べましたが国語の文学の授業でも同様です

問題はそれを生徒達に単なる感想でとどめるのではなく、いかに社会で生きるための自分の血肉からの批評能力に高めるかということです

私が安易な受け身によるセリフを批判するのはここに共通します

さらには、個人の解釈、セリフをどこまで集団の解釈、セリフに昇華できるのかということをやってみたいのです

日弓連の教本を批判するのはこの一点です

個人の教本ならまだしも、様々な流派、万人のための教本を作るにはこの作業が必要なのではないでしょうか?
一部の先人、範士のセリフだけで、共通解釈のない日弓連の教本はこの作業を怠っていると思われてならないのです


この共通の解釈の為の基盤の提案として、私が挙げるものがセリフ認識に左右されない物理的なものである、
狙い
伸び
手の内
です


また的中の認識に関してですが、コミュニティを立ち上げたいきさつでも述べましたが、弓道を伝統芸能のように祭り上げることで敷居が高くなり衰退させることへの反発が私にはあります

もちろん歴史伝統の中で培われた道としての弓の思想、精神性は素晴らしいものがあります

ただ、これを私の一教育者の立場からいくと初めから中高大学生に上から押し付けてよいものか?ということもあります

修練を通して自らが実生活に関連付けて見いだし、血肉にしなければ真の精神性は弓道から得ることは出来ないのではないでしょうか
当然技術にしてもそうです
そのような点からも私の受け身だけによるセリフの批判があります

全く技術も物理的的中もなくては精神性に発展させることなど出来ないのではないでしょうか?

まずは物理的に中るのは当然として、更にその上位のものとして更なる技術の向上、精神性の向上があると考えます

全くあたらずに精神性だけを説くのは論語読みの論語知らずと同じになってしまうでしょう

また中高大学生は物理的に中らなければ、アーチェリーに行ってしまうのではないでしょうか
それでは、弓道が他の伝統芸能のように衰退もし、単なる一部の人間の思想の残りカスになり、西洋の近代的合理社会の前に敗北してしまいます


長々と乱文になってしまいましたが、上記の入口としての物理的な意味で今回、射法八節考を述べさせて頂きました


議論を深めさせて頂きまして、ありがとうございます
〉さらねこさん
色々な意見をありがとうございます

ただ少しだけ反論をさせていただきますと、手の内の手の甲にあたって弦が戻るということですが、物理的にありえないがとのことですが、ありえることです

詳細は省きますが離れの際の弓と弦の動きの関係を見ていけば物理的にも充分ありえます

恐らく私が単に合理的にのみ考えているとお思いのようですが、そうではありません

私が最も問題にしているのは細かい個人個人の射技の点ではなく、ある個人のセリフだけを絶対視する風潮に疑問を呈したいということです

さらねこさんは○段の方が、ある先生がとおっしゃりますが、それを踏まえつつ個人個人がどうそれを自分の血肉にするのかが重要だと考えます

それを言ってしまえば、私は日本最年少範士の先生にも実家が近所なので指導頂いてましたし、別の県の天皇賞優勝されている範士の先生にも学生時代指導頂いておりまして、私の考えを申し上げたところ、ご理解いただき、日弓連への就職の話も頂いてます

学生時代の五段審査の際も、受験者のなかで射技で最高点だったと審査員の先生から激励頂いてます


しかし、こんなことを申し上げても聞いた方は、それがどうした、と思われるでしょう

ですから、私が問題にしたいのは、繰り返しになりますが、個人の範囲で言えばいかに自分の血肉にするかという一点につきます

弓人全体では、多くの方の意見や考えをアウフヘーベンさせて、いかに弓道をもりあげていくかという点に私の意見の主旨があります

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