憲法にモラルを持ち込んで、「すばらしい!」というのはアホの骨頂です。現与党は立憲主義の根本がわかっていません。或いは、99条に書かれている「憲法とは、国民が、国家を縛るためのツール」という認識が流布していないことをいいことに「壊憲論」を広めています。 敗戦直後、9条ができたのは、天皇の免責とセットでしょう。天皇を無傷で残すというのなら、ナチスの同盟軍だった陸海軍を全廃する以外、世界の誰も納得しない。あの時点で、1条と9条は矛盾なんかしていません。東京裁判こそなし崩しになってしまったけれど、サンフランシスコ講和条約の11条(東京裁判を承認)も、日本はのんで独立し、それで国際社会に復帰し得たのだから、もう終わった話です。これをいまになって蒸し返すなんて……教育がアウトだったということでしょう。本気で蒸し返したいんでしょうか? もしも、徹底するというのなら、「東京裁判の再審を!」となるのですが……。 デモクラシーの本義は、Nothing About Us Without Us.「私たちのいないところで、私たちのことを勝手に決めないで!」なのですが、単なる多数決になってしまいがちです。ですから、これに加えて、少数意見を圧迫してはいけないという原則、つまり信仰など個人の内面の倫理については公共の場の多数決で決定したり押しつけたりはしないということを、別途ルールとして立てておかねばなりません。このような、ちょっとねじれた感覚、自分の「真理」を公共空間ではいいたてないで控えておく作法が「近代の公共」です。 実は、公共には二つあります。人類普遍の古来の原理は「人を殺すな」ではなく「仲間を殺すな」です。それが「仲間や家族のために敵を殺せ」となれば、ギリシャ的な公共です。この古いギリシャ的な公共は、ヨーロッパでは宗教戦争を経て、政教分離し、新しい「近代の公共」に転換していきました。 ワイマール憲法が停止されて、その後どうなったのか……、想像を絶する恐ろしさですよ。9条論議や「国際貢献」論議以前に、「立憲主義とは何か?」「近代の公共とは?」 との原点の議論をこそ、読者の皆さまが周囲に広げ、若い世代にハッパをかけていただきたい、と熱望いたします。